蒸気と電気――ガソリン自動車前史(1769年)

よくわかる 自動車歴史館 第46話

世界初の自動車は蒸気で動いた

キュニョーの砲車(提供 トヨタ博物館)
ギリシャの数学者ヘロンが考えた「ヘロンの蒸気機関」。2つのノズルから逆方向に蒸気を噴射することで、球体が回転するという仕組みだった
トーマス・ニューコメンが考案した蒸気機関。蒸気が冷却される際の負圧でピストンを吸引する仕組みで、鉱山の排水用ポンプとして使われた

2010年、フランスのムーズ県ヴォワ=ヴァコンで巨大な蒸気自動車が道を走った。釜にまきをくべ、黒煙と白い蒸気を盛大にたなびかせながら、ゆっくりと巨体を前進させた。これは“キュニョーの砲車”と呼ばれるもので、世界初の自動車とされている。設計したニコラ=ジョゼフ・キュニョーの故郷であるヴォワ=ヴァコンで、240年ぶりに動く姿を見せたのだ。初めて披露されたのは、1769年のことである。その頃日本は江戸時代後期で、田沼意次の改革が始まろうとしていた時代にあたる。

当時、フランスはルイ15世の治世下で7年戦争に敗北し、軍事力強化が喫緊の課題となっていた。馬に頼っていた移動の手段を最新技術の蒸気動力で代替することにより、圧倒的な優位を得ることができると考えたのは自然なことだろう。大砲を運搬する車両の設計を託されたのが、軍事技術者のキュニョーだった。キュニョーの砲車とは、キュニョーが作った大砲けん引車という意味である。

蒸気を動力として使うことは、すでに古代ローマの時代にギリシャの数学者ヘロンによって考案されている。それは蒸気の噴射によって直接回転力を得る方式で、実用化されてはいないようだ。今日に通じる蒸気機関の研究は、17世紀の終わり頃からドニ・パパン、トーマス・ニューコメンらによって進められ、揚水ポンプとして利用されるようになっていた。キュニョーはこれを、車両の移動に利用しようと考えたのだ。まずは2分の1サイズの試作車が1769年に作られ、翌年になって実際に大砲を載せることのできる2号車が完成した。

定置式で使用するのが前提なので、蒸気機関は巨大だった。キュニョーの砲車でも、容積50リッターほどのボイラーと直径30センチを超える2本のシリンダーが異様な存在感を放っている。リア2輪、フロント1輪の三輪車であり、機関部は前輪の前に据え付けられていた。ピストンの往復運動を前輪に備えられたラチェットで回転運動に変換する方式で、今ふうに言えば駆動方式はFFだったということになる。

蒸気自動車が都市バスとして営業開始

リチャード・トレビシックのパフィング・デビル号。トレビシックは後に蒸気機関車も作成したが、実用化には至らなかった
ゴールズワージー・ガーニーの蒸気自動車。ガーニーは1829年にも、蒸気トラクターが客車をけん引する乗り合いバスを製作している
ウォルター・ハンコックが開発したエンタープライズ号。蒸気自動車の黎明期には世界をリードしたイギリスだが、赤旗法の影響もあり、その後の自動車開発ではドイツ、フランスに後れを取ることになる

全長が7.2メーター、全幅が2.3メーターで、現代のクルマで言えばストレッチリムジンぐらいの大きさだ。重量は3トンほどで極端なフロントヘビーだが、後部に重い大砲を載せることを考えればバランスがとれている。シャシーは木製のラダーフレーム、ホイールも木製でタイヤとして鉄製の輪が装着されていた。ステアリングは船のかじを流用していたが、機構としてはラック&ピニオン式ということになる。ただ、実際にはほとんど方向を変えることはできなかったようで、テスト走行で壁に激突する事故を起こしている。ということは、ブレーキも利かなかったわけだ。

スピードは9.5km/hほどだったが、水の消費が激しくて15分おきに給水しなければならず、1時間で4kmも走れなかったらしい。十分に熱しないと蒸気機関が動かなかったので、始動には長い時間がかかった。軍事目的での使用に堪える性能とはとても言えないレベルだった。その後は改良されることなく放置されてしまう。破壊されそうになったこともあるが運よく保管され、1801年からパリ工芸博物館に展示されている。

キュニョーの砲車が戦場で使われることはなかったが、蒸気自動車の研究は各地で続けられた。1801年には、イギリスのリチャード・トレビシックが高圧蒸気機関を用いたパフィング・デビル号のデモ走行を成功させた。彼は3年後、世界初の蒸気機関車ペナダレン号を作っている。

少年時代にトレビシックに会ってパフィング・デビル号を見たゴールズワージー・ガーニーは、長じて蒸気自動車の研究を始めた。彼は1825年に「普通の道や線路で、乗客と荷物を載せて馬の助けなしに十分な速度で前進する馬車」の特許を取得している。2年後には18人乗りの乗り合い乗用車を製作した。ビジネスが成功したとは言えないが、この蒸気自動車は馬車に劣らぬ速度で走ることができた。

ウォルター・ハンコックは1827年に新型ボイラーの特許を取得し、1829年に10人乗りの蒸気バスを製作した。1831年には、ロンドンとストラットフォードの間で定期運行を開始している。1833年になると、ロンドンで世界初の都市バスの営業を始めた。ほかにも蒸気自動車に乗客を乗せて定期運行をする業者が現れる。19世紀中頃には、蒸気自動車は馬車に代わるものとして社会に受け入れられていった。

電気・蒸気・ガソリンが覇権を争った19世紀末

ニコラウス・オットーが1867年に初めて開発したガスエンジン。この10年後、オットーは4ストロークエンジンの開発に成功する
フランスのパリ-ルーアン間で実施された世界初の自動車競技の様子。写真はダイムラーのエンジンを積んだ、プジョーのガソリン自動車
フェルディナント・ポルシェが1900年のパリ万博に出展した電気自動車
1908年製フォードT型。T型は初の大量生産モデルというだけではなく、20世紀におけるガソリン車の優位を決定的なものにしたクルマでもあった
トヨタ・プリウス

ただ、蒸気自動車にはいくつかの欠点があった。機関が大きくて重く、始動に時間がかかった。ボイラーの整備は難しく、一般ユーザーが簡単に扱えるものではなかった。これらの問題を克服するため、内燃機関の研究が進められていた。1860年にフランスのエティエンヌ・ルノワールがガスエンジンを、1877年にドイツでニコラウス・オットーが4ストロークエンジンを作り上げ、ともに特許を取得している。これが、1886年にカール・ベンツのガソリンエンジン三輪車パテント・モートルヴァーゲンに結実する。

内燃機関の前に、新たな動力源として現れていたのが電気モーターである。18世紀末から電池の開発が進んでおり、1830年過ぎには実用的なモーターが作られるようになった。電池とモーターを積めば、コンパクトで騒音の少ない自動車が作れると考えられた。1859年に再充電可能な電池が発明されると、電気自動車の可能性は大きく広がった。19世紀末は、蒸気・電気・ガソリンの3つの動力が自動車の覇権を争っていた時代なのだ。

1894年にパリ−ルーアン間で行われた世界最古の自動車競技イベントには、ガソリン車14台、蒸気車6台が参加した。トップでフィニッシュしたのはド・ディオン・ブートンの蒸気車で、2着はプジョー、3着はパナール・エ・ルヴァソールのガソリン車だった。

初めて100km/hの壁を超えたのは、電気自動車だった。1899年、カミーユ・ジェナッツィがジャメ・コンタン号で105.92km/hの世界記録を樹立したのだ。その翌年には、フェルディナント・ポルシェがパリ万博に四輪ハブモーター駆動のローナー・ポルシェを出品している。ポルシェ博士は、2年後に発電用のガソリンエンジンを搭載したハイブリッドカーのミクステを完成させた。

アメリカでは電気自動車の人気が高く、1900年の時点で生産台数は4000台を超えていた。ガソリン自動車のような騒音や排ガスがなく、面倒なギアチェンジの必要のないことが歓迎されたのである。しかし、1920年を過ぎた頃には、自動車はほとんどがガソリンを動力とするものになっていた。蒸気自動車は機関のコンパクト化ができずに衰退し、電気自動車は航続距離の短さという欠点を克服できなかった。1908年にはフォードが画期的な大衆車のT型を発売し、安くて維持費もかからないガソリン自動車の優位性が拡大していった。

20世紀はガソリン自動車の時代となった。21世紀に入る直前、そこに風穴を開けたのがトヨタ・プリウスである。ガソリンエンジンに電気モーターを組み合わせた高効率なハイブリッドシステムは、環境問題に対応するための重要な技術として広く受け入れられた。ハイブリッドカーのバリエーションは広がり、2013年には日本で販売される乗用車の3割近くを占めるようになった。

ガソリンエンジンも、対抗するかのように進化を続けている。低排気量でもターボチャージャーを使ってハイパワー、低燃費を実現するエンジンが現れ、高効率化を競っている。軽自動車の中には、ハイブリッドカーをしのぐ低燃費のモデルも珍しくない。

三菱i-MiEV、日産リーフなどのピュアEVが発売され、燃料電池車の市販化もスケジュールにのぼっている。レドックスフロー電池、アルミニウム空気電池などの新技術がブレークスルーを生み出すことも期待されている。ガソリン自動車が盤石だった20世紀とは打って変わり、21世紀に入ってからは100年前のようなエネルギーの覇権争いが繰り広げられている。

1769年の出来事

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ワットが蒸気機関改良で特許を取得

産業革命がイギリスで始まったのは、偶然ではない。その中核を担うことになる蒸気機関は、イギリスで発展した。亡命フランス人のドニ・パパンは、圧力鍋の研究から蒸気機関のアイデアを得た。トーマス・セイヴァリーは、同じような原理で鉱山の排水装置を考案した。高圧蒸気を利用したもので、爆発事故が起きることもあった。

トーマス・ニューコメンは、危険を回避するために負圧を利用した。蒸気をシリンダーに吹き込んでピストンを動かし、そこに冷却水を入れると大気圧の力で元に戻る。往復運動しかできず効率は低かったが、鉱山では数十年にわたって実際に稼働した。

ニューコメンの蒸気機関の修理を頼まれたことから、ジェームズ・ワットはより高効率な機関を考えついた。シリンダーに直接水を入れるのではなく、復水器を使って冷却することで効率を高めたのだ。大きな質量を持つシリンダーを温めたり冷やしたりするより、はるかにロスが少なくなる。

ワットはさらに複動機関や平行運動機構などを考案し、蒸気機関の効率を高めていった。遊星歯車機構を使い、往復運動を回転運動に変換する方式も編み出した。人間や家畜の力に頼らない動力は、工業の発展を加速することになる。ワットの名は、今も仕事率の単位に残されている。

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アークライトが水力紡績機を発明

産業革命の進展には、新たな動力の利用とともに、機械の改良が不可欠だった。当時、イギリスでは織物産業が盛んで、そこでは紡績機や織機の効率を上げることが重要な課題となっていた。その紡績機の開発に名を残したのが、リチャード・アークライトである。

1733年にジョン・ケイが飛び杼(ひ)を発明し、織機の効率が飛躍的に上がった。すると従来の糸車を使った紡績では、十分な糸を供給することができなくなる。1764年にジェームズ・ハーグリーブスが多軸式のジェニー紡績機を発明し、織機の性能に見合った速度で紡績を行うことができるようになった。

アークライトはもともと理髪業を営んでいたが、かつらの材料を買い付ける過程で紡績の知識を得て、紡績業に転身。水力を使って大規模な紡績を行う機械を開発し、1769年に特許を取得する。2年後にはクロムフォードに工場を建設し、操業を開始した。生産力は飛躍的に上がり、彼は大きな財産を築くことになる。

カール・マルクスは『資本論』の第13章「機械装置と大工業」で産業革命の進展を記述し、ワットらとともにアークライトの名を挙げている。しかし、彼については、わざわざ注を設けて激烈に非難している。
「一八世紀の大発明家のうちで、うたがいもなく彼は、他人の発明の最大の盗っ人であり、もっとも俗悪な男だった」

実際、彼の特許は後に模倣ないし盗用であるとして取り消されている。アークライトは、発明家というより新技術を利用してビジネスモデルを作り上げる起業家だったようだ。

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ナポレオン・ボナパルト誕生

1789年、パリで民衆がバスチーユ牢獄(ろうごく)を襲撃した。ルソーやヴォルテールの啓蒙(けいもう)思想が共感を呼んでおり、旧体制に対する反感が強まっていた中、税の不平等や物価の高騰への不満が頂点に達したのだ。

騒乱はフランス全土に広まり、パリではヴェルサイユ宮殿に人々が乱入する事件も起きた。ルイ16世は実権を失い、1792年には王政が廃止される。フランス革命が成就し、第一共和政が始まった。

この時フランス軍に砲兵士官として任官していたのが、1769年にコルシカで生まれたナポレオン・ボナパルトである。彼は王党派鎮圧の戦いに参加し、優れた指揮能力を発揮して頭角を現していく。1795年に将軍に昇進し、翌年にはイタリア方面軍の指揮をまかされて大きな戦果をあげた。

英雄となったナポレオンは、民衆の政府への不満を背景にクーデターを起こし、1799年に権力を掌握する。1804年には皇帝の地位に就き、第一帝政が始まった。人民主権を求めて始まったフランス革命は、独裁者を生み出すという皮肉な結果を残した。ナポレオンが失脚すると、ブルボン朝が復活する。現在のフランスの政体は、ド・ゴールによって始められた第五共和政である。

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[ガズ―編集部]