<カーオブザセンチェリー>T型フォード(1908年)
よくわかる 自動車歴史館 第51話
ヘンリー・フォードの夢
ヘンリー・フォードには夢があった。それは、農民のために誰もが乗れる安価な自動車を作ることである。彼の生まれたディアボーンは、デトロイトの南西15kmにある牧歌的な農村だった。鉄道は通っておらず、移動手段といえば荷馬車だけだった。人々は生涯ずっとこの場所にとどまり、自給自足に近い暮らしを送っていた。自動車が手に入るようになれば、彼らの人生は一変するに違いない。
ヘンリーは1896年に初めてガソリン自動車を製作する。その後自動車会社を創業するがうまくいかず、新たにフォード・モーター・カンパニーを設立したのが1903年のことである。すぐに農民のためのクルマを作り始めたわけではない。当時は自動車といえば高級車で、量産大衆車は1901年に425台が生産されたオールズモビル・カーヴドダッシュがあったくらいだ。転機となったのは、1906年のN型である。500ドルで販売された簡易なモデルは好評で、これをベースにしてT型が作られた。
1908年に発売されたT型は850ドルという価格で、翌年1年間で1万台以上を売り上げた。アメリカ全体の自動車生産台数が7万台程度だったことを考えると、1車種の売り上げとしては驚異的な数字である。1910年にはハイランドパークに工場を新設し、量産体制を整えていった。
多くの自動車に2000ドル以上の値札が付けられていた時代に、T型の価格は魅力的だった。アメリカ人の平均年収は600ドルほどで、なんとか手の届く値段だったのである。安いからといって、作りが悪いわけではない。ボディーには高張力のバナジウム鋼を使用し、強度の確保と軽量化を実現していた。トランスミッションは遊星歯車を使った半自動方式で、初心者でも簡単に操作することができた。エンジンは優秀な鋳物技術を生かして4気筒一体型となっており、頑丈であるとともに生産性が高かった。点火方式は、最新のマグネトー式を採用した。
ベルトコンベヤーで大量生産を実現
農民が手の届くクルマにするためには、もっと価格を下げる必要がある。そのためには、生産の効率化を進めなければならなかった。他のモデルを廃止して生産能力をT型に集中させ、大量生産に向けて準備を進めた。1913年、画期的な生産方式が取り入れられる。ベルトコンベヤーを使った流れ作業を始めたのだ。フライホイールマグネットは熟練工が一人で仕上げていたが、これを29の工程に分解し、29人で作業を分担した。これにより、一つ仕上げるのに20分かかっていたところが5分で済むようになった。
シャシー組み立てに応用すると、効果は絶大だった。1台に13〜14時間かかっていた作業時間が、1時間半にまで短縮されたのである。もはや、熟練工は必要ない。工程を分ければ、技術を学ばなくても作業ができる。細分化すればするほど作業は単純になるので、T型の組み立てには7882もの職種があったという。英語を理解できない労働者も多かったが、それでも問題なく組み立てを行うことができた。
しかし熟練工からは、この改革に不満の声が上がっていた。そこでフォードは、労働者の待遇改善を決断する。労働時間を9時間から8時間にし、2.5ドルだった日給を倍の5ドルに引き上げたのだ。常識破りの高給に、ハイランドパーク工場には就職希望者が殺到した。ただ、単調な労働は苦痛を伴うので、離職率は高かった。5ドルに昇給するのは就職して半年後であり、それを待たずして辞めてしまうものも多かった。3カ月もたつと、労働者がほとんど入れ替わってしまうほどだったという。
生産の効率化は、休むことなく続けられた。1914年からは、ボディーカラーは黒に統一された。黒い塗料は最も乾きが早く、製造時間を短縮できたのである。フォードではすべての工程を自社で行うために、垂直統合を志向した。T型生産に役立つということで、鉱山業、鉱石運搬業、鉄鋼業などを始めたのだ。タイヤ用のゴムも自社で生産しようと、農園開発にまで手を伸ばした。
T型は圧倒的な売れ行きを示し、1921年には累計生産台数が500万台に達した。アメリカ国内でのシェアは、55.45%という驚くべき数字だった。全世界で見ても、作られる自動車の半数がT型という計算になる。効率化とスケールメリットで価格を下げることが可能になり、1922年には最廉価版が265ドルになった。
T型の生産台数は1923年にピークを迎えた。年間で200万5000台が生産されたのである。しかし、その後少しずつこの数は減少していく。
社会を変えた大量生産と大量消費
T型の牙城を崩すため、ゼネラルモーターズはシボレーで攻勢に出た。発売から年を経て古臭くなっていったT型に対し、モデルチェンジを繰り返して新機軸を取り入れていったのだ。自動車の大量生産は飛躍的に進み、1925年にはアメリカ全体で426万6000台が生産された。自動車保有台数も、2000万台を超えようとしていた。自動車はすでに高根の花ではなく、なくてはならない必需品となっていたのだ。安ければユーザーが飛びつくという時期は過ぎ、他人と違うクルマを持ちたいという欲望が生まれ始めていた。
購入できる層には自動車が行き渡り、主流は買い替え需要に移っていた。ユーザーは、デザインにおいてもメカニズムにおいても、より進歩したモデルを欲した。彼らにとって、毎年変化していくシボレーが魅力的に映ったのは当然だろう。大量生産と大量消費が前提となる世界では、人々の欲望のあり方も変わっていく。
それでも、フォードはT型こそが理想のクルマであるという信念を持ち続けた。新型車を求める声を、無視したのである。売れ行きが鈍ると、生産を効率化することで乗り切ろうとした。農民にクルマを与えるという理想は忘れられ、いつの間にか効率化自体が目的となっていた。
1927年、フォードは突然T型の生産を終了する。累計生産台数は1500万7033台だった。T型に替わる新型車は用意されておらず、新たなA型が発売されるのは7カ月後のことである。その間に、販売台数1位の座を奪ったのはシボレーだった。
フォードはT型で自動車産業を変えた。作業工程を標準化して大量生産を可能にしたことで、上流階級のものだった自動車を一気に普及させた。T型フォードによって、アメリカのモータリゼーションが進んだのである。労働者に高賃金を与えたことで、彼らも自動車を購入できるようになった。フォードで働く社員は、1909年にはT型を買うために22カ月にわたり賃金をためる必要があった。それが、クルマの価格が下がり賃金が上昇したことで、1925年にはわずか3カ月働くだけでT型を購入できるようになった。労働者は生産者であると同時に、消費者でもある。大量生産は大量消費がなければ成立せず、購買力の増大は資本主義の高度化にとって必須の条件だった。
T型の生産が始まった20世紀初頭、自動車は一過性のものと考える向きが多かった。交通手段として確立されたとはいえず、将来性には疑問符が付けられていた。蒸気自動車や電気自動車も競争力を保っており、自動車が普及するにしてもどの動力が勝利するのかは誰にもわからなかった。T型が圧倒的に販売を伸ばしたことで、ガソリン自動車の優位性を証明したのだ。
T型は農村にも普及し、ヘンリーの夢は実現した。モビリティーが確保されたことで、農民も都市生活者と同じような近代的な生活を楽しむことができるようになった。だからこそ、ヘンリーはT型こそが完全無欠な自動車だと信じ込んでしまった。成功体験に拘泥したことで、自らが火をつけた消費者の欲望の巨大化に気づくことができなかった。
皮肉な成り行きではあったが、フォードが変えた社会の構造はヨーロッパにも波及する。さらには、第2次大戦後の日本にも影響を及ぼすことになった。T型フォードという一台のクルマが、20世紀を通じて展開されるグローバルな資本主義のうねりを作り出したのだ。
1908年の出来事
topics 1
ゼネラルモーターズ設立
自動車草創期のアメリカには、数百のメーカーが乱立していた。ヨーロッパによって自動車の製造技術はある程度確立されていて、それを範にすれば参入は容易だったのだ。もっとも、産業としての将来像はまだなんとも言えない状態で、いずれもベンチャー企業のようなものだった。
1903年に設立されたビュイック社も、そのひとつである。創業者のビュイック兄弟は開発半ばで事業化を諦め、会社は馬車製造で成功していたウィリアム・クレイポ・デュラントに託されることになった。デュラントは全国に販売網を整備し、小型車を開発して売り上げを伸ばした。1908年には、年間9000台近くの自動車を販売する大メーカーに成長した。
デュラントは、さらに規模を大きくすることを目指した。1908年に持ち株会社のゼネラルモーターズ(GM)を設立し、自動車メーカーを集めて拡大を図ったのである。ビュイック社を傘下に置いて土台を作り、他の自動車会社や部品会社と統合しようとした。オールズモビル、キャデラック、ポンティアックなどが連合に加わり、デュラントは2年の間に約30の会社を束ねていった。
1910年には、GMはアメリカのトップメーカーに躍り出た。しかし、急拡大が裏目に出て、資金繰りが苦しくなる。デュラントは銀行によって経営権をはく奪された。彼は不屈の意志でシボレー社を立ち上げて成功させ、1915年にGMに復帰する。しかし、1920年にアメリカを襲った恐慌で株価が暴落し、再びデュラントは会社を追われる。彼は二度と復帰することはなかったが、ビュイックやキャデラックといったブランドは、今もGMに引き継がれている。
topics 2
有栖川宮が日本発のドライブ会開催
1907年、国産初のガソリン自動車が誕生した。自転車輸入を手がけていた双輪商会が開発したタクリー号である。製作を依頼したのは、クルマ好きで“自動車の宮様”と呼ばれた有栖川宮威仁親王だった。殿下の所有するダラックを参考にして、1年以上かけて作り上げたものだった。
1908年8月1日、有栖川宮は “遠乗会”を開催した。日本初のドライブツーリングである。参加したのは、大倉財閥の大倉喜七郎、三越百貨店創業者の日比翁助、陸軍少将の長岡外史ら、自動車好きの大御所たちだった。日比谷公園にダラックやタクリー号、フィアット、フォードなど11台が集まり、甲州街道を西に向かった。目的地は、現在の国立市に位置する谷保天満宮である。
乗用車の登録数が数十台という時代で、11台もの自動車が隊列を組んで走るとあって、沿道には多くの見物客が詰めかけた。一行は事故や故障もなく無事に天満宮に到着し、梅林で昼食会が開かれた。新聞では、“自動車遠征隊”と呼んで新奇なイベントを紹介した。
事故がなかったことから谷保天満宮は“交通安全発祥の地”とされ、梅林には記念碑が建てられている。タクリー号のイラストを配した交通安全絵馬やお守りキーホルダーも作られている。
topics 3
“うま味調味料”味の素発明
かつて人間の味覚は、酸味・甘味・塩味・苦味の4つの要素で構成されていると考えられていた。しかし、日本人の感覚では、だしの味はそのカテゴリーの中に入らない。昆布やかつお節から抽出されるうま味が、日本料理の基本だからである。
うま味の正体を発見したのは、帝国大学教授の池田菊苗だった。昆布のだしを研究してうま味の正体がグルタミン酸ナトリウムであることを突き止め、1908年に製造法の特許を取得した。この研究成果を基に、1909年に鈴木製薬所からうま味調味料の味の素が発売される。
当初は販売が伸び悩んだが、大正期になると簡便な調味料として認識されるようになり、味の素という言葉は商品名というよりも普通名詞として扱われるまでになる。海外にも進出し、アジアでは料理に欠かせない調味料となった。
うま味は西洋料理でも注目されるようになり、昆布だしを取り入れるフランス料理シェフもいる。池田の発見後に弟子の小玉新太郎がかつお節からイノシン酸を抽出し、アミノ酸や核酸がうま味の成分であることが明らかとなった。舌にはグルタミン酸受容体が存在することも確認され、うま味は第5の味覚として世界的に認知されている。
【編集協力・素材提供】
(株)webCG http://www.webcg.net/
[ガズ―編集部]
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