【自動車人物伝】ジョルジェット・ジウジアーロ(1972年)

よくわかる 自動車歴史館 第58話

ダンテ・ジアコーザに見いだされる

イタリアを代表するカロッツェリアのひとつ、イタルデザインの創設者であるジョルジェット・ジウジアーロ。
自動車だけにとどまらず、さまざまな工業製品を手がけているのもジウジアーロの特徴。日本に縁のあるものとしては、ニコンのカメラなどが挙げられる。
ジウジアーロを自動車業界へと引き込んだ、技術者のダンテ・ジアコーザ。フィアット500など、数多くの名車を手がけたことで知られる。

好むと好まざるとにかかわらず、ジョルジェット・ジウジアーロとまったく接点を持たずに暮らすことは困難だ。フォルクスワーゲン・ゴルフやフィアット・パンダなどに乗っていなくても、日本車にも彼のデザインした製品はたくさんある。クルマだけではなく、バス、トラック、オートバイ、電車、船など、あらゆる乗り物が彼の守備範囲だ。

それどころか、家具や家電製品、楽器や時計も作っている。メンズファッションのブランドを立ち上げたこともあった。新しいマカロニをデザインし、人工骨の形状についてアドバイスした。要するに、ジウジアーロは世の中に存在するありとあらゆる工業製品に関わりを持っているのである。

ジウジアーロ家は、北イタリアのガレッシオという小さな町で、代々画家として暮らしていた。父も祖父も、教会や宮殿の装飾を手がけることをなりわいにしていたのである。ジウジアーロは1938年に生まれ、美しいものに囲まれて育った。ちなみに、彼のファーストネームであるジョルジェットは、本来はジョルジュという名前の愛称である。しかし、彼の場合は役場に届け出た正式な名前がジョルジェットなのだ。家族から愛情を注がれていたことがよくわかる。

幼い頃から絵を描くことが好きで、教会のドームに天使の絵を描いたこともあった。ある日、遊びに来ていた祖父の友人が、彼の才能を見抜いてトリノに連れて行くように進言した。芸術と文化に触れることで感覚を養えるよう、環境を整えるわけだ。ジウジアーロはトリノで中学に通い、卒業すると美術学校に進んだ。卒業制作で彼が描いたのは、自動車を扱ったカリカチュアである。学生たちの展覧会に訪れてこの作品を見たのが、ダンテ・ジアコーザだった。彼はジウジアーロにフィアット・スタイリング・センターに来るように勧めた。こうしてジウジアーロは、17歳でフィアットに就職することになった。

カロッツェリアでの経験を経て独立

1963年にデビューしたアルファ・ロメオ・ジュリア スプリント。ベルトーネの在籍中にジウジアーロがデザインしたものだ。
1966年に登場した初代マツダ・ルーチェ。ジウジアーロが手がけた初の日本車である。
カロッツェリア・ギア在籍中の代表作であるマセラティ・ギブリ。
現在のイタルデザイン・ジウジアーロのオフィスの様子。

フィアットで働くことで、ジウジアーロは自動車の製造に関する知識を身につけた。デザインだけでなく、どのようにクルマが作られるのかを現場で学んだのである。この時の経験が、後で大いに役立つことになる。彼は、昼はフィアットで働き、夜は美術学校で絵を教えた。自動車と美に関する知識と感性が、自然に育まれていった。

1959年になると、ジウジアーロは上級の美術学校に進むためにフィアットを退職する。学費を稼ぐため、夜は働かなくてはならない。仕事を紹介してもらおうと、つてを頼って相談したのがヌッチオ・ベルトーネだった。カロッツェリア・ベルトーネの総帥である。自動車のデザインと製造を手がける勢いのある企業だったが、ちょうどその時、チーフデザイナーのフランコ・スカリオーネが辞めたところだった。ジウジアーロは、21歳の若さでその後をまかされることになった。

ただ、入社とほとんど同時に彼は兵役につかなくてはならなかった。訓練を受けながら上官たちのポートレートを描いていたが、暇を見ては自動車のスケッチにも精を出した。作品はベルトーネ社に送られ、その中の一枚にヌッチオが目を留める。スタイリッシュな2ドアクーペのデザインは、1963年にアルファ・ロメオ・ジュリア スプリントとして世に出ることになる。

6年ほどのベルトーネ時代にジウジアーロがデザインしたクルマは、20台以上にのぼる。シボレー・コルベア テスチュード、アルファ・ロメオ・カングーロなどのコンセプトデザインは、モーターショーに出品されて大きな反響を呼んだ。日本のメーカーとの最初の仕事であるマツダ・ルーチェのデザインも、この時期である。順調にキャリアを重ねていったが、不満もあった。彼の作品はカロッツェリア・ベルトーネのものとして扱われ、デザイナーとしての自分の名前が前面に出ることはなかったのである。

ドイツ・フォードからの要請を断り、移籍先に選んだのはカロッツェリア・ギアだった。27歳になっていたジウジアーロは、旺盛なデザイン活動を開始する。デ・トマソ・マングスタ、マセラティ・ギブリ、いすゞ117クーペなどを次々に送り出した。しかし、彼がギアにいたのは、わずか1年4カ月である。経営が傾いて社内が混乱し、落ち着いてデザインをしていられる状況ではなくなったのだ。

1968年、ジウジアーロは自らのデザイン会社を設立する。背中を押したのは、ベルトーネ時代からの友人である宮川秀之だった。トリノで設計事務所を経営していたアルド・マントヴァーニも加わり、イタルデザインが発足した。ジウジアーロは、「近代的な大量生産に直結する、一貫したデザインプロセスを生み出せる組織をわれわれの手で作ろう」と意気込みを語った。自動車デザインを取り巻く状況が大きく変わりつつあることに、彼は気づいていた。

画期的なスポーツカーと大衆車を生み出す

前後対称のユニークなフォルムが特徴的な「スズキ・キャリイ」。イタルデザインの最初の仕事は、意外にも日本の軽商用車だった。
1972年にコンセプトカーがデビュー、1976年に市販化されたロータス・エスプリ。エッジを強調したスタイリングは、既存のスポーツカーやスーパーカーとはまったく異なるものだった。
1974年に登場した初代フォルクスワーゲン・ゴルフと、ジョルジェット・ジウジアーロ。

カロッツェリアとは、もともと馬車工房を意味する言葉だった。自動車の時代が訪れても、彼らの技術は必要とされた。馬車と同様、豪華な一点もののボディーを製作することが求められたのである。しかし、自動車は次第に大衆化していった。大量生産のシステムが普及し、モノコックボディーが出現する。一部の金持ち相手に手作りで特別な乗り物を作る職人仕事は求められなくなったのだ。

カロッツェリアは自動車メーカーと協同し、デザインを提案する役割を担うこととなった。ピニンファリーナ、ベルトーネ、ギアなどが、時代の流れに適応して存在感を高めていく。一部のカロッツェリアでは、製造設備を備えて量産までも請け負うようになった。ジウジアーロは、フィアット、ベルトーネ、ギアにおいて、その変化のまっただ中で働いていたのだ。メーカーとカロッツェリアの両方を経験し、自動車の作り方を総合的にとらえる目を養うことができた。

イタルデザインでの最初の仕事は、スズキ・キャリイである。軽の商用車という制約の中で、前後対称というユニークな形を提案した。スズキでは、フロンテクーペもデザインしている。1971年には、イタリアの国策として進められたアルファスッドのプロジェクトに関わり、本国での名声を確立した。

1972年のトリノショーで発表されたロータス・エスプリのプロトタイプは、直線と平面で構成されたシャープでありながら洗練されたフォルムで人々を驚かせた。コーリン・チャップマンはすぐに量産化の指令を出し、ライトウェイトスポーツのイメージが強かったロータスは、スーパースポーツのメーカーへと変貌した。エスプリは丸みを帯びた60年代のデザインとは一線を画す、70年代を代表するスポーツカーの一台となった。

1974年、フォルクスワーゲンから自動車の歴史を変える小型車が発売される。ビートルの後継車として、今も代を重ねているゴルフである。合理的でシンプルながら考えぬかれたデザインとパッケージングは、それ以降の小型大衆車のお手本となった。ジウジアーロは、デザインにとどまらずエンジニアリングやコスト面も含めて考えぬいた提案だったと話している。

さらに1980年には、フィアット・パンダが登場した。ゴルフ以上にミニマムなベーシックカーで、ボディーパネルやガラスはほぼ平面で構成されている。それでも十分な室内空間を確保し、新鮮なフォルムを実現していた。エンジニアリングを理解している彼だからこそ、新しいベーシックの概念を作り上げることができたのだ。

日本のメーカーとの関わりも続いていた。1981年に発売されたいすゞ・ピアッツァは、2年前にアッソ・ディ・フィオーリとしてジュネーブショーに出品されたコンセプトデザインの量産モデルである。プロトタイプとほとんど変わらない姿で発売されたことは、ジウジアーロが生産工程までを考慮してデザインしたことを物語っている。

2010年、イタルデザインはフォルクスワーゲン傘下に入ることを発表した。ジウジアーロはゴルフのみならず、シロッコやアウディ80などのデザインも担当していて、両社はもともと関係が深かったのだ。現在では自動車メーカーが社内にデザインスタジオを抱えるのが常識になっており、この提携は自然な流れだったといえる。カロッツェリアの役割はイタルデザイン設立時とは大きく変わっており、ジウジアーロは時代に合わせて自らの才能を最大限に生かせる方法を追い求めていた。

「多くの人々が喜ぶもの、それが美である」
かつて、ジウジアーロはそう語っていた。大衆のための製品を作ることが、彼の変わらぬ信念であり続けたのである。

1972年の出来事

topics 1

“ケンメリ”スカイラインがブームに

“ハコスカ”の愛称で呼ばれる3代目スカイラインは、サーキットでのGT-Rの活躍から、硬派なイメージがクルマ好きの間に浸透していた。ただ、通常モデルは実用的なセダンであり、1969年から「愛のスカイライン」というキャッチコピーが付けられるようになった。

1972年のモデルチェンジを経ても、この路線は継承される。「ケンとメリーのスカイライン」キャンペーンも開始され、テレビではハーフの男性モデルと白人女性モデルのコンビが日本中を旅するCMが放映された。新人バンドのバズが歌ったCMソング『ケンとメリー~愛と風のように~』も大ヒットし、スカイラインの売り上げは急上昇した。

「どこか遠くで何かに出会うような、そんな気がしたら……」
「白い一日――みんな素敵だ!」
「優しい風。丸いテールランプ。明日も、晴れさ」
「風って……言葉がわかるんだろうな」

ポエムのようなナレーションが流れ、ベルボトムジーンズやバギーパンツでおしゃれしたモデルが美しい風景の中でむつみ合う。性能や利便性などをまったく紹介せずイメージだけを追求したキャンペーンは、新鮮な驚きをもたらした。

topics 2

環境庁が排ガス規制案を発表

自動車の排出ガスによる公害が問題となる中、環境庁の諮問機関である中央公害対策審議会の大気部会自動車公害専門委員会が1972年8月に答申を発表した。「自動車排出ガスの長期設定方策」である。

1975年以降に生産する乗用車は、一酸化炭素を2.1g/km以下、炭化水素を0.25g/km以下、窒素酸化物を1.2g/km以下に低減させることを求めたもので、アメリカの大気汚染対策法であるマスキー法をほぼなぞった内容だった。

この答申が、日本の環境政策の指針となる。1974年に環境庁は「自動車排出ガス量の許容限度」を策定し、世界一厳しいといわれる排出ガス規制が行われることが決定した。アメリカではビッグスリーの抵抗などでマスキー法が後退を余儀なくされるが、日本では予定通り実施されて各メーカーが規制をクリアする。

その後も排出ガス規制は段階的に厳しい基準が適用されるようになっている。2000年からは低排出ガス車認定制度がスタートし、有害物質の削減度合いによって認定ステッカーが与えられるようになった。

topics 3

札幌五輪で“日の丸飛行隊”がメダル独占

1972年2月3日から、日本で初となる冬季オリンピックが札幌で開催された。地下鉄が開通するなど都市としてのインフラが整備され、世界中でSAPPOROの知名度が向上した。1976年に発売された三菱ギャランΛは、北米市場で「MITSUBISHI SAPPORO」の名で売られたほどである。

フィギュアスケートに出場したジャネット・リンは、銅メダルながら一番の人気者となった。ジャンプに失敗して尻もちをついたが、笑顔で滑り続けた姿に誰もが魅了された。愛らしい表情と伸びやかなスケーティングから、“銀盤の妖精”と呼ばれた。

日本人選手の活躍も、大会に華を添えた。スキージャンプ70m級で、日本人が表彰台を独占したのである。笠谷、金野、青地が金・銀・銅メダルを獲得し、彼らは“日の丸飛行隊”と呼ばれることになった。

その後は長いスランプの時代があったが、1998年の長野オリンピックではラージヒル個人で船木が金メダルを獲得。ラージヒル団体でも日本は優勝し、復活を果たした。

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[ガズ―編集部]