軽自動車群雄割拠(1958年)

よくわかる 自動車歴史館 第62話

スクーターと原付きから始まった戦後の自動車作り

三菱が製造したスクーターのシルバーピジョン。簡便な乗り物として重宝された。
ホンダが初めて独自設計した、A型エンジンを搭載した原動機付き自転車。「バタバタ」という愛称で親しまれた。
1947年製ダットサン・トラック(2225型)。

ツウテン、テルヤン、クノマック、ニッケイタロー、くろがねベビー……。これらはすべて、1950年代に販売されていた軽自動車の名前である。日本のモータリゼーション前夜、庶民にも手の届きそうなクルマが町の小さな工場で産声をあげ、自動車産業の場で覇を唱えようとする者があちこちに現れ始めた。

第2次大戦後、焦土となった日本では交通のインフラも壊滅状態だった。二輪、四輪ともに、エンジンで走る乗り物は軍への供出で姿を消してしまっていた。進駐軍のジープは走り回っていたが、庶民の移動手段は貧弱だった。あらゆる物資が不足する中、戦時中に飛行機を作っていた会社がスクーターの製造を始める。金属部品などの資材や工作機械を持っていたため、それを利用して民生用の製品を作ることができたのだ。旧中島飛行機がラビットを、三菱がシルバーピジョンを発売し、手軽な足として人気を得た。

これに対し、ホンダは無線機用発電機のエンジンを自転車に取り付け、エンジン駆動で走る二輪車を発売する。“バタバタ”と呼ばれて親しまれ、同様の製品を作る中小メーカーが次々と現れた。ホンダはエンジンを自社開発するようになり、オートバイメーカーとして成長していく。

一方、四輪自動車の生産はGHQによって禁止されていた。民需用トラックを皮切りに少しずつ規制は解かれていったものの、戦争によって技術の進歩は滞り、生産設備も十分ではなかった。トヨタやダットサンなどの戦前からある自動車会社が生産を始めたトラックは、とても高価で零細業者が買えるような価格ではない。商売に使う運搬器具は、リヤカーやサイドカーに頼るほかなかったのである。

1948年になると、小型自動車の規格が制定される。翌年には軽自動車枠が設定されるが、それは全長2.8m、全幅1m、全高2m、排気量は4ストローク150cc、2ストローク100ccというもので、想定されているのは二輪車だけだった。1950年に三輪および四輪の規格が設定され、その翌年に改正された規定が日本の自動車産業の初期設定となった。全長3m、全幅1.3m、全高2m、排気量は4ストローク360cc、2ストローク250ccである。

軽規格のミゼットやスズライトが登場

東洋工業(現マツダ)は戦前から三輪トラックを生産しており、戦後もT1500やT2000、K360など、多数の人気モデルを輩出した。写真は1941年製GA型三輪トラック。
軽規格の三輪トラックとして人気を博したダイハツ・ミゼット。写真は初代モデルのDK型。
1955年にデビューしたスズライトは、日本で初めてFF(フロントエンジン・フロントドライブ)の駆動レイアウトを採用した四輪車だった。

1951年、日本初の軽四輪乗用車が誕生する。戦前に名古屋でオート三輪の「ヂャイアント号」を作っていた中野嘉四郎が開発した、オートサンダルである。中日本工業製の4ストローク348cc単気筒エンジンに、ディスク摺動(しゅうどう)方式という一種のオートマチックトランスミッションを組み合わせていた。出力は5馬力ほどで、スピードは40km/hそこそこだったとみられる。まさに簡便なサンダルといった趣のクルマだったが、価格は約30万円だった。50万円出せばダットサンのトラックが買えたので、決して安いとはいえない。それでも需要はあって、改良を加えながら1954年までに約200台が生産された。

このほかにも、全国でさまざまな軽自動車が誕生するが、そのほとんどは商用車だった。自動車は運転して楽しむためのものではなく、荷物を運ぶ実用的なツールだったのだ。商売に使うのだから、コストパフォーマンスが優れていなければならない。その点で有利なのが、三輪自動車だった。戦前から三輪トラックを作っていたマツダやダイハツは、いち早く実用的な商用車の生産を始めた。

三輪であれば、前輪が一輪なので複雑な操舵(そうだ)機構を必要としない。オートバイに荷台を取り付けただけの簡易な三輪車も多く作られた。軽自動車の規格で作られたオート三輪では、ダイハツ・ミゼットがヒット作となった。1957年に発売された初代モデルDK型は全長2535mm、全幅1200mmという小さなサイズで1人乗り。ドアは備わらない。シートの上部に幌(ほろ)を装着し、バーハンドルで操舵する。2ストローク単気筒249ccのエンジンで、カタログでは最高速度65km/hをうたっていた。

1959年にフルモデルチェンジされてMP型になり、ドアが装着されてルーフもスチール製が選べるようになった。2名乗車で丸ハンドルとなり、自動車らしさが増した。乗用車的に使われる場合も多く、東南アジアにはタクシー用途で輸出もされた。1972年まで生産される長寿モデルとなったのである。

1955年に軽自動車の規格が見直され、2ストロークエンジンでも排気量が360ccまで拡大された。自動織機会社からオートバイ製造に進出していたスズキが、いち早くこの規定に沿って開発したのがスズライトである。2ストロークの2気筒360ccエンジンは15馬力を発生し、12馬力程度だった4ストロークエンジンに対してアドバンテージを築いた。前輪駆動を採用したのも先進的で、車内空間を広くとることができた。ただ、セダンの売れ行きは好調とはいえず、ライトバンのみに生産が絞られることとなった。

日本にモータリゼーションをもたらしたスバル360

富士重工業の技術者である百瀬晋六氏。スバル360のほかにも、サンバーや1000、レオーネ4WDなど、多数の車両の開発に携わった。
スバル360
スバル360のインテリア。全長3m、全幅1.3mという非常にコンパクトなボディーでありながら、キャビンには大人4人が乗れる広さが確保されていた。
モデルライフ終盤、1968年に登場した高性能バージョンのヤングSS。スバル360は1958年から1970年まで、実に12年にわたって現役で活躍し続けた。

1958年、日本車の歴史に大きな足跡を刻む軽自動車が登場した。富士重工業のスバル360である。スクーターを製造していた三鷹工場と太田工場も含め、分割されていた旧中島飛行機が1955年に再合同して富士重工業となり、航空機や自動車の生産を始めていた。

開発を主導した百瀬晋六は、中島飛行機で設計部に勤務し、軍用機のターボチャージャーなどを担当していた。戦争が終わって会社から与えられた仕事は、バスボディーの設計である。百瀬は航空機の技術を生かしてモノコックボディーのバスを作り、市場での評価を高めていた。その経験を生かし、百瀬に乗用車を開発するよう命が下る。P-1と名付けられた小型車は3年足らずで試作車製作にこぎつけ、高い完成度で関係者を驚嘆させた。

スバル1500という仮の名前も与えられたが、乗用車の生産・販売を手がけたことのない富士重工業はリスクを恐れて市販化を断念する。百瀬には、代わりに軽乗用車の開発が託された。まずは小さなサイズのクルマでスタートすべきだと、会社は考えたのだ。1955年に通商産業省の策定した“国民車構想”が明らかになっており、政策としてミニマムな乗用車の生産が求められていたことも追い風になった。

百瀬は、軽自動車であっても大人4人がゆったり乗れるようにしようと考えた。エンジンをリアに積んで後輪を駆動するRR方式を採用し、プロペラシャフトを不要にすることで車内空間を広くとる。軽量化も重視し、得意のモノコック構造を使ってボディー全体で剛性を確保した。広い空間と剛性向上に有利であることから、スタイリングは丸みを帯びたものとなった。

リーフスプリングを用いずに棒状のトーションバーでサスペンションを構成したのも、軽量化とスペース効率を考えてのことだった。エンジンは2ストローク2気筒で、リアに横置きする。徹底的に効率的なパッケージングを追求し、1958年に発表されたスバル360は当時の軽自動車の水準をはるかに超えるものとなった。車両重量は385kgで、500kg以上のクルマも珍しくなかった中では際立った軽さといえる。軽量ボディーは動力性能にも好影響を及ぼし、最高速度は83km/hとされている。無理なく4名乗車が可能なことも、人々を驚かせた。

かわいらしい見た目から、“てんとう虫”という愛称で呼ばれた。“かぶと虫”ことフォルクスワーゲン・ビートルからの連想である。価格は42万5000円で、後のコストダウンで36万円にまで下がっている。性能から考えれば安かったが、大卒の初任給が1万4000円程度だった時代であり、簡単に買える金額ではなかった。それでも人々は、マイカーの夢がかなう可能性を初めて信じることができたのだ。

1960年代に入ると、マツダ・キャロルやホンダN360など、魅力的な軽自動車が続々と誕生する。それでもスバル360の人気は根強く、1970年まで生産が続けられた。その後、軽自動車の規格は1976年に排気量が550ccに引き上げられ、1990年に660ccになった。限られた空間の中で小さなエンジンを生かすクルマ作りはその後も日本独自の進化を遂げ、今日では新車販売数のうち約4割を占めるに至っている。

1958年の出来事

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東洋工業がロンパー発売で四輪に本格進出

1958年にデビューしたマツダ・ロンパー。写真は4ドアのダブルキャブ。

マツダは戦前から広島で三輪トラックの製造を行っていた。1931年に最初の量産モデルを発売し、戦後も1945年12月に生産を再開している。四輪自動車の製造にも乗り出そうとしたが、三輪トラックメーカーというイメージは崩せずにいた。

初めて本格的に量産した四輪モデルが、1958年のロンパーだった。三輪トラックのTシリーズをベースにし、共用部品は多い。1105ccの空冷2気筒エンジンを搭載し、積載量は1トンだった。キャビンには横に3名が乗車できる。

この経験を生かし、マツダは1960年に初の四輪乗用車を発売した。軽自動車のR360クーペである。実用性が最優先される時代に、スタイル優先で2+2のシートレイアウトを持つこのモデルは新鮮な驚きだった。

走りや乗り心地には高い評価が与えられ、初年度に2万台以上を売り上げるヒットとなった。2年後には大人が4人乗れるキャロルが登場し、マツダは四輪自動車メーカーとしての地位を固めていく。

topics 2

ホンダがスーパーカブ発売

戦後の焼け野原の中で、本田宗一郎は原動機付き自転車の販売から事業を再開した。自転車に陸軍六号無線用小型エンジンを取り付けた“バタバタ”が飛ぶように売れ、1949年には初の本格的オートバイであるドリームD型を発売する。しかし、売れ行きが悪く、ホンダは経営危機に陥る。

ドリームE型のヒットで持ち直すが、過度な設備投資と新型モデルの不振で、再び倒産の危機に立ち至った。窮状を救ったのが、スーパーカブだった。1958年に発売されたこのモデルは、ノークラッチで片手運転も可能という手軽さから、女性からの支持を受けるとともに、配達などの業務用にも好評だった。

翌1959年には、年間販売台数が41万台に達した。輸出も開始され、世界中で大ヒットとなる。累計販売台数は2014年3月で8700万台を超えており、1シリーズとしては世界最多の記録である。

スーパーカブによって経営基盤を固めたホンダは、四輪自動車に進出する準備を進めた。1963年にT360とS500を発売し、F1への挑戦も始める。どちらも、スーパーカブの成功なしには果たせなかったのである。

topics 3

関門トンネル開通

本州と九州を陸路で結ぶトンネルの必要性は早くから認識されており、1896年(明治29年)にトンネル建設の請願が議会に提出されている。鉄道用のトンネルは1936年に工事が始まり、1942年に開通した。

自動車用のトンネルは遅れて1939年に始まり、1944年に貫通するものの、戦災によって工事が中断していた。再開したのは1952年で、最先端技術のルーフシールド工法で掘削が進められた。トラブルもなく海底を掘り進め、1956年に竣工(しゅんこう)した。

国道2号としての整備が進められ、関門トンネルが完成したのは1958年である。車道に加えて人道が2階建て構造で作られ、総延長は3461m、海底部分は780mである。

なお、中国自動車道と九州自動車道を結ぶのは1973年に開通した関門橋で、長さは1068mである。

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[ガズ―編集部]