ダイハツvsスズキ――軽自動車ウォーズ(1993年)

よくわかる 自動車歴史館 第77話

時代とともに拡大した軽自動車規格

日本市場における2014年の年間販売台数でトップとなったダイハツ・タント。23万4456台という数字は、登録車のベストセラーであるトヨタ・アクアをも僅差で上回るものだった。
1958年に誕生し、日本にモータリゼーションをもたらしたスバル360も軽自動車だった。

2014年に日本の自動車史に残る記録が生まれた。国内新車販売台数に占める軽自動車の割合が、初めて4割を超えたのである。売れ行き上位にランキングされたのは、主にハイトワゴンやトールワゴン、スーパートールワゴンと呼ばれるタイプのモデルだった。全高を高くとることで室内スペースを稼ぎ、格上の小型乗用車に引けをとらないユーティリティーを実現している。軽自動車の中で主流となっているジャンルである。

軽自動車は、日本国内のみを対象にして製造されているモデルだ。普通乗用車や小型乗用車といった登録車と区別され、ナンバープレートは黄色である。規格が道路運送車両法施行規則で定められており、条件を満たせば税金などが優遇される。1949年に制定され、1951年の改正で今日に通じる基礎が作られた。全長3000mm、全幅1300mm、全高2000mm、排気量は4ストローク360cc、2ストローク240ccというもので、1955年に4ストロークと2ストロークの区別が撤廃される。

この規格にそって開発された名車が、1958年発売のスバル360である。RR方式で広い室内空間を実現し、大人4人がゆったり乗って走れるパッケージングが人気を呼んだ。軽量なモノコックボディーに強力な2ストロークエンジンの組み合わせで、十分な動力性能を有していた。42万5000円という低価格が、人々のマイカーの夢を現実のものにする。日本にモータリゼーションの始まりをもたらしたのがスバル360だった。

経済成長が進む中で自動車の普及が進むと、技術革新で動力性能は向上し、高速道路の整備が進んだ。交通事情に合わせて軽自動車の規格を変える必要が生じる。1976年に排気量の上限が550ccまで拡大され、全長と全幅もそれぞれ3200mmと1400mmになった。1990年には排気量が660cc、全長3300mmとさらに規格が変わる。安全性を高めるための装備が増加してスペースを確保する必要が生じ、重量が増えた分パワーを高めなければならない。状況の変化を反映した規格の改正である。

ただ、一つだけ変わっていない項目があった。全高は1949年から一貫して2000mmのままなのだ。この点に着目して作られたのが、1993年に登場したスズキ・ワゴンRである。

垂直方向に目を向けたワゴンR

1993年に登場した初代スズキ・ワゴンR。1640mmという高い車高が特徴だった。
初代ワゴンRと、同時期に活躍した4代目スズキ・アルト(1994~1998年)の比較。
初代ワゴンRのインテリア。ベース車より床面の高さを上げていたにもかかわらず、1340mmの室内高を実現していた。
ターボエンジンを搭載したスポーティーな特別仕様車のRR。初代ワゴンRは、運転席側がドア1枚、助手席側が2枚という左右非対称のボディーデザインを採用していた。
1983年に登場したダッジ・キャラバン。同車とシボレー・アストロが醸成したアメリカのミニバン文化は、日本にも大きな影響を与えた。

軽自動車は安価で維持費も低く抑えることができるが、その代わり狭さは我慢しなくてはならない。それが常識とされてきた。事実、小型車枠は全長4700mm、全幅1700mmで、3300mm×1400mmの軽自動車には大きなハンディがあったのだ。しかし、全高に関してはどちらも2000mmが上限である。垂直方向に目を向ければ、室内空間を広げることができる。

ベースとなったアルトの全高が1400mmだったのに対し、ワゴンRは1640mmという際立った背の高さだった。プラットフォームは共通だが、床面を二重構造にして80mm上げている。それでもルーフまでは余裕があり、着座姿勢を立たせることで前後の長さを節約することができた。後席を倒すとフラットになり、2名乗車時には広大な荷室空間が出現する。助手席の下にバケツ状の収納ボックスを備えるなど、収納も豊富だった。

初代で特徴的だったのは、左右非対称のボディーである。左側には2枚のドアがあるが、右側は運転席の1枚だけだ。窓の数も左右で異なっている。後席に乗る子供が不用意に飛び出さないための工夫だったが、2代目からは通常の5ドアに戻された。それ以外は、モデルチェンジを重ねても基本的なデザインを変えていない。エクステリアデザインは背の高さを強調するもので、新鮮な感覚をもたらした。

アルトに比べて70kgほど重量が増加したが、特別なパワートレインは用意されなかった。3気筒自然吸気エンジンに5段MTか3段ATの組み合わせである。後にターボエンジンや4段ATが加えられるが、走りを求めるユーザーにはアルトワークスやセルボがあるというのがメーカーの考え方だった。ワゴンRはあくまで実用車という位置づけなのだ。キャッチコピーは、「クルマより楽しいクルマ。」である。

ワゴンRを発想するもとになったのは、アメリカのミニバンだった。1980年代にダッジ・キャラバンやクライスラー・ボイジャーが人気となっていて、日本でもミニバンの先駆けとなる日産プレーリーが登場していた。軽自動車の枠の中で同じようなコンセプトを実現しようと考えたのがワゴンRである。Rはレボリューション、リラクゼーションを意味していた。

サイズはまったく異なるものの、初代ワゴンRのスタイルははっきりとミニバンを意識したものになっている。それが思いがけない需要を喚起することになった。主なターゲットに想定していた子育てファミリー以外に、若者たちからオシャレなクルマとして受け入れられたのである。ワゴンRを手に入れることで、アメリカのミニバン文化を手軽に味わうことができた。

初代モデルは非常にシンプルな面で構成されており、カスタマイズのベースに適していた。アメリカ風に内外装をドレスアップしたモデルが作られ、エアロパーツやチューニングキットが人気となった。メーカーからも、スポーティーな外観とターボエンジンを備えたモデルがラインナップに加えられる。

ハイトワゴンをめぐる販売競争が激化

スズキ・ワゴンRに対抗するため、ダイハツは1995年にムーヴを投入した。写真は64psのターボエンジンを搭載したSR。
1980年に誕生した初代ミラ。スズキ・アルトとし烈な販売競争を繰り広げた。
1700mm台の全高により、ワゴンRやムーヴを超える広さを実現したダイハツ・タント。同車のヒットにより、スズキのパレットやスペーシア、ホンダN-BOXなど、数々のフォロワーが生まれた。
2012年にダイハツ・ムーヴに採用された予防安全装備の「スマートアシスト」。今日では、軽自動車の中でも幅広い車種に類似の安全装備が採用されている。
2014年には、スズキが久々に軽自動車の年間販売台数ナンバーワンを奪還。SUVタイプの軽乗用車「ハスラー」の人気が販売増に貢献した。

軽自動車の販売台数ナンバーワンを争うダイハツは、1995年にムーヴを発売して対抗する。ディメンションはワゴンRとほぼ同じで、Aピラーから続くキャラクターラインと横開きのリアハッチが特徴だった。スズキとダイハツはアルトとミラで激しい販売競争を繰り広げてきたが、この後はワゴンRとムーヴの対決がヒートアップしていく。

スズキは1955年にFFで四輪独立懸架という意欲的なモデルのスズライトで自動車の製造を始めた。1970年には四輪駆動のジムニーを発売している。大きく飛躍したのは、1979年のアルトだった。徹底的なコスト削減で47万円という低価格を実現し、簡便なベーシックカーとして大ヒットとなった。

戦前から三輪自動車を製造していたダイハツは、1957年に発売した三輪トラックのミゼットで軽自動車に参入した。1966年にはフェローで乗用車の分野に進出する。1980年にクオーレから派生したミラクオーレを発売し、2年後から単にミラと呼ばれるようになったモデルがアルトと真っ向からぶつかることになった。スズキとダイハツは、軽自動車の年間販売台数で競い合っていく。

僅差ではあったがスズキは販売台数のトップを堅持し、「軽No.1のスズキです」というキャッチコピーを使い続けた。逆転したのは、2007年である。ダイハツは軽自動車のバリエーションを増やし、追い上げを図っていた。1999年には「タフ&シンプル」をコンセプトにしたネイキッド、2002年には2シーターオープンのコペンを発売する。ただ、評判は高かったものの、この2台は主流となるモデルではない。ダイハツの切り札となったのは、ワゴンRとムーヴの方向性を発展させたタントだった。

タントは、限界と思われていた全高をさらに伸ばした。ムーヴを100mmほど上回って全高は1700mmを超え、2440mmのホイールベースを利して2000mmの室内長を確保した。後席を倒すと自転車がそのまま載せられるという広大な荷室が現れる。広い空間と使い勝手のよさを極限まで追求し、ユーザーの心をつかんだ。スーパーハイトワゴンというジャンルを確立し、それまでスズキの後を追いかけていたダイハツが初めて先行した。これが決め手となり、ダイハツは軽自動車販売台数ナンバーワンの座を手に入れた。

スズキはスーパーハイトワゴンでは出遅れてしまった。2008年にパレットを発売して反撃に転じたが、差は縮まらなかった。2社のつばぜり合いの中に、新たなプレーヤーも登場する。2011年、ホンダがN-BOXでスーパーハイトワゴンのジャンルに参入した。翌年にN-ONE、翌々年にハイトワゴンのN-WGNを追加し、軽市場で存在感を示すようになった。2013年には日産と三菱が提携して共同開発したデイズとekワゴンが登場する。

軽自動車規格の中では、これ以上の室内空間の拡大はもはや不可能になっている。収納や使い勝手の工夫も、ほとんどやり尽くされた感がある。差別化を図る手段として浮上したのは、燃費である。リッターあたり0.1km単位での争いが繰り広げられ、新型が登場するたびに記録が塗り替えられていった。スズキは簡易ハイブリッドシステムともいえるエネルギー回生機構のエネチャージを採用する。

2012年、ダイハツはムーヴに自動緊急ブレーキを採用する。他メーカーも追随し、短期間のうちに標準化していった。登録車にほとんど遅れることなく、先進的な機能が普及したのだ。日本での軽自動車の存在感を考えれば、不思議なことではない。国内だけで通用する規格であることから“ガラ軽(ガラパゴス軽自動車)”と呼ばれることもあるが、厳しい制約の中で競争を続けてきた結果、スモールカーの技術で日本は飛び抜けたレベルに達している。

2014年の軽自動車販売台数は、スズキが8年ぶりに首位を奪還した。ダイハツとの差は、3000台に満たない。クロスオーバーSUV タイプの新型車ハスラーが爆発的な人気となったことが有利に働いたとみられる。対するダイハツは、スーパーハイトワゴンをも上回る1835mmの全高を持つウェイクを投入し、ホンダは軽スペシャリティーカーのN-BOXスラッシュを世に出した。200万円近い販売価格のモデルも存在するが、売れ行きは好調だ。

革命的なワゴンRの登場から20年余を経て、軽自動車は目覚ましい進化を遂げて豊かな世界を形成している。2014年のRJCカー・オブ・ザ・イヤーで「日本の軽自動車」が特別賞を授与されたことには、確かな理由がある。

1993年の出来事

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トヨタがWRCでダブルタイトル獲得

トヨタは1963年に行われた第1回日本グランプリで、圧倒的な好成績を収めた。パブリカ、コロナ、クラウンがそれぞれのクラスで優勝し、販売成績の向上につながった。この結果がレースへの注目を集めることになるが、トヨタがモータースポーツに関わったのはこれが初めてではない。

早くも1957年、2年前にデビューしたばかりのクラウンで、オーストラリア一周ラリーに挑んだ。19日間で1.7万kmを走破する過酷な競技だったが、完走して47位という成績を残している。

本格的にラリーを始めたのは、1975年からだ。トヨタ・チーム・ヨーロッパ(TTE)として世界ラリー選手権(WRC)に参戦し、1000湖ラリーではカローラレビンで優勝を果たしている。

1980年代のグループB時代はランチアやプジョーがWRCを席巻したが、グループA規定が導入されるとセリカGT-Fourが力を発揮するようになる。1990年と1992年には、カルロス・サインツがドライバーズタイトルを獲得した。

1993年はランチアに移籍したサインツに代わってユハ・カンクネンが活躍し、5勝を挙げてチャンピオンとなった。トヨタは日本メーカー初となるマニュファクチャラーズタイトルに輝き、2冠を得た。翌年もダブルタイトルを獲得している。

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マツダがフォードとの提携を発表

1996年にマツダの社長に就任したヘンリー・ウォレス。

1980年代のバブル期にマツダは積極的な販売戦略を展開した。ユーノスやオートザムなどを設立し、販売チャンネルを5つに拡大したのだ。それが裏目に出る。バブルは崩壊し、販売成績は低迷した。

マツダは1970年代にも苦境を経験している。ロータリーエンジンを掲げてニューモデルを次々に発表したが、石油ショックでガソリン価格が高騰すると燃費の悪さが嫌われて売れ行きが激減する。危機を救ったのは、資金を供給したフォードだった。

フォードは株式の24.5%を取得し、筆頭株主となる。技術面での提携も進んで、ファミリアとレーザーなどの兄弟車が誕生した。1993年、マツダとフォードは新戦略的協力関係構築を発表し、関係はさらに深まった。1996年には持ち株比率を33.4%に引き上げ、フォードから社長を受け入れた。

2000年代に入り、マツダはアテンザやアクセラのヒットで長い低迷を脱する。対照的にフォードはリーマンショックで大きな痛手を受ける。ゼネラルモーターズやクライスラーとは違い、破綻は免れたものの、フォードはマツダ株を手放さざるを得ず、長期にわたった関係は終わりを告げた。

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Jリーグ開幕

1968年のメキシコオリンピックで、日本のサッカーが旋風を巻き起こした。チームは銅メダルを獲得し、ストライカーの釜本邦茂は得点王に輝く。しかし、その頃日本にはプロリーグは存在しなかった。釜本もプロではなく、ヤンマーディーゼルの社員として競技をしていた。
この後、日本のサッカーは長い低迷期を迎える。オリンピックでは予選敗退を繰り返し、参加することすらできなかった。プロリーグのある野球と比べると、環境の差は歴然としていた。
1980年代に入り、ようやくプロサッカーリーグ設立の機運が高まってくる。FIFAワールドカップの開催を打診されたこともあり、体制を整える必要に迫られたのだ。1991年に最初の加盟チームとなる10クラブが決定し、1992年に前哨戦となるナビスコカップが開催された。
1993年5月15日、ヴェルディ川崎と横浜マリノスの間で開幕戦が戦われ、マリノスが2対1で勝利を収めた。初年度の覇者となったのはヴェルディで、キングカズこと三浦知良が初代MVPを獲得した。

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[ガズ―編集部]