駆けぬけるバイエルンの精神 (1952年)

よくわかる自動車歴史館 第111話

航空機製造からオートバイへ

「駆けぬける歓び」は、自動車メーカーのスローガンとして最も有名なものだろう。簡潔なフレーズでBMWが常にドライビングプレジャーを追求していることを主張する。しかし、1952年に発売されたBMW 501は、今日の理念とは趣を異にするモデルだった。大型で立派なボディーを持つが、戦前型を苦心して作り変えた1971ccの直列6気筒エンジンの出力はわずか65馬力。走りは鈍重で、ユーザーからの評価は芳しくなかった。スポーティーなイメージは、長い苦闘の時代を経て確立したものなのだ。

BMWにとって、記念すべき戦後型第1号モデルとなった「501」だが、その姿はスポーティーな走りを身上とする今日のBMWモデルとはまったく異なるものだった。

BMWの誕生は1916年とされている。バイエリッシェ・モトーレン・ヴェルケ(バイエルン発動機製造)が設立された年だ。母体となったのは1913年創業のラップ・モトーレン・ヴェルケである。同社はバイエルン州のミュンヘン郊外に工場を築き、エンジン製造を始める。ドイツの南部に位置するバイエルンは、謹厳な気質の北部とは異なる、開放的で陽気な精神を持つといわれており、この地で誕生したことがBMWのクルマ作りを基礎づけた。

ラップ社のすぐ近くには、1911年に設立されたグスタフ・オットー・フルークマシーネン・ファブリークという会社があった。社名にもあるグスタフ・オットーとは、4ストロークエンジンの発明者ニコラウス・アウグスト・オットーの息子で、航空機の機体を製造する会社を立ち上げたのだ。ラップ社はエンジンの供給を始め、協力関係を深めていった両社は効率的な生産体制をとるために合流することになる。エンブレムはプロペラをモチーフにし、バイエルンを象徴する青と白の文様を用いたものが採用された。

BMWが生産した500基目のIIIa型航空機用エンジン。ドイツが第1次世界大戦に敗れた、1918年に撮影されたものだ。

1914年に第1次世界大戦がぼっ発したことで、航空機の需要が急増する。BMWの技術力は高く評価され、業績は拡大していった。経営は順調だったが、1918年にドイツは敗戦を迎える。ヴェルサイユ条約によって軍用航空機エンジンの製造は禁止され、会社存続のために鉄道用のブレーキ製造を引き受けて急場をしのぐしかなかった。苦境の中でもエンジンの開発は続けられ、オートバイ用の500cc水平対向2気筒エンジンがヒット商品となる。イギリスのビクトリアなどに採用され、BMWの財政状況は好転していく。1923年には独自モデルのR32を発売し、高評価でベストセラーとなった。

BMWが1923年に発売したR32。今日まで続くBMW Rシリーズの元祖であり、当時すでに水平対向エンジンとドライブシャフト駆動の組み合わせが採用されていた。

BMW 326で大型高級車市場に参入

二輪車メーカーとして成功を収めると、BMWでは自動車製造へ進出する機運が高まった。しかし、オートバイが売れたといっても、すべてを自社開発するほどの資本はない。大株主のダイムラー・ベンツは自社製品と競合するモデルの販売は許さず、BMWは小型車のライセンス生産を目指すことになった。

折よくも、ディクシー・アウトモビール・ヴェルケという会社を売りたいという話が持ち込まれる。1896年に創業したファールツォイク・ファブリーク・アイゼナハが発展した会社で、イギリスのオースチン・セブンのライセンス生産を行っていた。1928年にBMWはディクシー社を買収し、BMW 3/15の生産・販売を開始する。ベースとなったセブンは中産階級の人々でも手に入れられる実用車として人気となっていて、BMWが独自の改良を施したモデルも好調な販売を記録した。

ベルリン・ヨハニスタールの工場から出荷される、BMW 3/15の第1号車。BMWの自動車製造の歴史は、オースチン・セブンのライセンス生産から始まった。

BMWの完全なオリジナルモデルは1933年に誕生した。直列6気筒エンジンを搭載したBMW 303である。排気量は1173ccで出力は30馬力、最高速度は90km/hだった。スタイルはオーソドックスなものだったが、フロントの左右に細長い楕円(だえん)形のグリルを備えたのが目を引いた。今に至るまでBMWのデザインアイコンとなっているキドニーグリルは、このモデルから始まったのである。

この年、ドイツではヒトラーが政権を握り、モータリゼーションの推進を掲げた彼は自動車登録税を廃止した。大排気量車の購入に有利な条件で、BMWは上級モデルの開発に動く。1936年、BMW 326がデビューする。全長4600mm、全幅1600mmという大型なボディーで、流行の流線形デザインを取り入れていた。エンジンは1971ccとなり、最高出力は50馬力だった。BMWは悲願の大型高級車市場に初めて参入したのだ。

1933年に誕生したBMW 303(左)と、1936年に誕生したBMW 326(右)。

同じ年、ニュルブルクリンクサーキットに新型のスポーツカーがさっそうと姿を現した。圧倒的な速さでレースに勝利するが、そのモデルはプロトタイプでテストのために走行したことが後で判明する。翌年になって市販車として登場したのがBMW 328である。エンジンは326と同じシリンダーブロックを使用していたが、ヘッドはアルミ製で圧縮比を6:1から7.5:1に変えていた。出力は80馬力まで向上し、830kgの軽量ボディーを150km/hで走らせた。

発売後にもレースへの参加を続け、1939年のミッレミリアではスペシャルボディーが与えられたマシンで優勝を果たしている。流麗なデザインと走行性能の高さが称賛され、戦前のBMW最高傑作は328だと考える人が多い。しかし、ビジネスとしては成功したとはいえない。総生産台数はわずか462台にとどまる。ヨーロッパには再び戦争の影が広がり、BMWも1939年からは軍需に向けた生産に専念することになる。

軽量小型のボディーに、80馬力を発生する2リッター直6エンジンを搭載したBMW 328。ルマンやミッレミリア、タルガフローリオなど、モータースポーツでも活躍を見せた。

解体の危機を乗り越えて自動車生産を再開

連合軍によって破壊された、ミュンヘン・ミルバーツホーフェンの工場。1945年の写真である。

1945年の敗戦で、ドイツは連合国の管理下に入った。軍需産業が禁止されたのは当然で、BMWも解体される。東ドイツ側にあったアイゼナハの工場はソ連の統治下に入り、残った施設を使って321、327などの戦前型モデルの生産が再開された。当初はBMWと同じ青と白のエンブレムを使用していたが、後に抗議を受けて赤と白に変更する。新しい社名はアイゼナハ・モトーレン・ヴェルク(EMW)である。

一方、ミュンヘンの工場はアメリカ軍に接収され、軍用車の修理を行うようになる。戻ってきた社員たちは破壊された工場から材料をかき集めて作った鍋や釜を販売し、再起の道を探っていた。まず手をつけたのは、オートバイの開発である。新たに247ccの単気筒エンジンを設計し、1948年からR24の生産を始めた。定評のあるBMWのオートバイは市場から歓迎され、会社再建に向けて条件が整っていく。

工場内で出荷を待つR24。戦前のモデルをベースに開発されたもので、戦後のBMWの復興を支えた。

自動車製造については、まずはライセンス生産から再開しようと交渉が重ねられたが、どのメーカーとも折り合いがつかなかった。自社開発のモデルとして企画されたのがタイプ331である。オートバイ用の600ccエンジンを搭載した乗員2名の小型車で、フィアット500の影響を受けている。ミニマムな仕立ての経済的な実用車は戦後復興期のドイツで需要があるとエンジニアは考えていた。しかし、販売部門からは激しく反対される。戦前の成功体験から、大型高級車路線を歩むのがBMWの本来の姿であると彼らは主張したのだ。

プロトタイプまで作られた計画はご破算となり、大型車のプロジェクトが始まった。326をベースとして、ボディーにモダンな曲面を取り入れて作られたのが501である。全長4730mm、全幅1780mmという堂々たる体躯(たいく)で、重量は1300kgを超えていた。

BMW 501は1951年のフランクフルトモーターショーでお披露目された。

ところが、501は非力なエンジンが不評で、1954年には2580ccのV8エンジンを搭載したBMW 502を送り出す。翌年には排気量を3180ccに拡大し、商品力アップを図った。しかし、501/502は商業的な成功を勝ち取ることはできなかった。労働者の平均月給は約360マルクで、2万マルク近い価格のクルマを購入できる層は限られていた。メルセデス・ベンツ300SLに対抗したスポーツカーBMW 507も投入して高級車路線を推し進めるが、時代の要求とマッチしたモデルではない。507の生産台数は252台にとどまった。

財政的に追い詰められる中で、救世主となったのは不思議な形をしたミニマムなクルマだった。イタリアのイソ・イセッタのライセンスを受け、BMWイセッタ250として販売したのである。信頼性の高いBMW製のエンジンに換装したモデルは庶民の足として人気となり、排気量を高めたBMWイセッタ300と合わせて16万台以上を売り上げた。イセッタの好評は他メーカーの参入を招き、ドイツではクラインヴァーゲンが流行する。

クラインヴァーゲンのBMWイセッタ。車体の両側にドアはなく、乗員はフロントに備えられた横開きのドアから乗降した。

ただ、販売数は多くても利益は薄く、BMWが危機を脱したとは言えなかった。1959年の株主総会では、実質的にダイムラー・ベンツ社の傘下に入って再建を図るというプランが提案される。辛くも提案は否決され、新たに経営の主導権を握ったのはヘルベルトとハラルトのクヴァント兄弟だった。30%を超える株式を取得して筆頭株主となった彼らは、新世代のミドルクラスセダンを開発するよう指示した。

1961年に発表されたBMW 1500は、モダンな外観と卓越したハンドリング性能を持ち、批評家から絶賛される。新しい時代を感じさせるスポーティーなセダンは市場からも大きな支持を得た。このモデルから始まった「ノイエ・クラッセ」と呼ばれる一連のモデルには、運転の楽しさを追求する明快な主張があった。「駆けぬける歓び」というBMWの精神に立ち戻ったのである。

1961年に登場したBMW 1500。優れた運動性能が特徴のスポーツセダンで、1代にして今日まで受け継がれるBMWのイメージを築き上げた。

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オースチン・セブン

1905年にイギリスで創業したオースチン社は、第1次世界大戦後に大型車の販売で苦戦していた。起死回生のモデルとして、安価な小型車セブンを1922年に発売する。簡素ながら実用性は高く、大衆から広く支持を集めた。

当時のイギリスではサイクルカーと呼ばれるミニマムなクルマが流行していたが、品質の劣るものが多かった。大型車の経験を持つオースチンは零細メーカーとは段違いの技術力を持ち、セブンは瞬く間に小型車市場を席巻する。

747ccのサイドバルブ直列4気筒エンジンは出力10馬力にすぎなかったが、350kgほどの軽量ボディーのおかげで当時の交通環境では十分な走行性能を持っていた。簡易な構造から、レーシングカーのベースとしても使われている。

評判を聞いて他国からの注文が増加するが、オースチンは輸出より独占製造権を与えてライセンス生産させる方法を優先した。フランス、アメリカ、ドイツなどの国々で、現地の事情に合わせたモデルが販売された。

英国に本格的なモータリゼーションをもたらしたオースチン・セブン。世界各国でライセンス生産されたほか、自動車製造を志すメーカーに手本とされたりした。

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メルセデス・ベンツ300SL

1954年のニューヨークオートショーでデビューしたことでわかるように、300SLはメルセデス・ベンツがアメリカ市場を強く意識して作ったスポーツカーである。もとはプロトタイプレーシングカーだったが、アメリカ市場からの要請に応えて市販化した。

また、今日に至るまでメルセデス・ベンツの最上級スポーツカーに位置づけられている、SLクラスの初代モデルでもある。SLとは「Sport Leicht」の頭文字で、軽量スポーツカーを意味している。

鋼管スペースフレームを使ったことでサイドシルが高くなり、乗降性を高めるためにガルウイングドアが採用された。3リッター直列6気筒エンジンは、ガソリン車初となる直噴方式である。

力道山はアメリカ巡業で見たこのクルマを気に入り、購入して日本に持ち帰った。石原裕次郎が譲ってほしいと持ちかけたのは断ったが、1台だけ輸入されたのを見つけて彼に知らせ、裕次郎もオーナーになることができた。

1954年のニューヨークショーに展示されたメルセデス・ベンツ300SL。直噴の3リッター直6エンジンを搭載したスポーツカーだった。

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クラインヴァーゲン

イセッタの成功を見て、他のメーカーも超小型車の開発に乗り出す。メッサーシュミットのKRシリーズや、ハインケル・カビーネ、グラース・ゴッゴモビルなどが販売されて人気となった。

ドイツでクラインヴァーゲンと呼ばれるジャンルで、ヨーロッパでは広く大衆の足として販売された。丸く小さな形が多いことから、バブルカーとも呼ばれている。

スクーターに雨よけのキャビンを付けるという発想で設計されており、ボディーは簡素な作りが多かった。エンジンは200〜400cc程度の小排気量で、日本の初期軽自動車と同じクラスである。

1960年代に入ると安価な小型車が普及してクラインヴァーゲンは次第に姿を消す。現代の交通事情では実用性を持たないが、かわいらしいフォルムから今も愛好家は多い。

クラインヴァーゲンの代表的なモデルであるメッサーシュミットKR200(左)と、グラースのゴッゴモビルT400(右)。

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[ガズ―編集部]