進撃のシルバーアロー  (1934年)

よくわかる自動車歴史館 第120話

ライバルだったメルセデスとベンツ

グランプリの名が付くレースが初めて行われたのは、1906年である。フランス自動車クラブ(ACF)が主催し、ル・マンの公道を閉鎖して作ったコースでスピードを競った。レギュレーションでは工具や照明装置などを除いた重量が1000kgまでとされた。7kgまでの点火装置を追加することは許されている。参加したのは、フランス10、イタリア2、ドイツ1の合計13チーム。ドイツからエントリーしたのはダイムラー社のメルセデスである。ガソリン自動車が誕生してから20年の間に目覚ましい技術の進歩があり、優勝したルノーの平均速度は100km/hに達した。

1906年のフランスグランプリで優勝したルノーの90CV。ドライバーはフェレンク・シジズが務めた。
1906年のフランスグランプリで優勝したルノーの90CV。ドライバーはフェレンク・シジズが務めた。

メルセデスが初めて優勝したのは1908年。この年のレギュレーションは車重が1100kg、ピストンの表面積が合計755cm2以下というものだった。4気筒であれば、ボアを155mmまでに収めなければならない計算になる。排気量を上げるためには、ストロークを伸ばすしかない。メルセデスは170mmのストロークを持つ12.78リッター直4 OHVエンジンを開発した。最高出力の130馬力は1500回転で発生する。当時のエンジンは現代からすると超低回転型だった。2位と3位に入ったのは、この年から参加したベンツである。2社が合併してメルセデス・ベンツになるのは1926年であり、当時はライバル同士だった。ベンツが採用したのは、ストロークが160mmの12.06リッター直4 OHVエンジンである。

メルセデスが1908年のフランスグランプリに投入した3台のレーシングカー。クリスチャン・ラウテンシュラッガーが操る35号車が優勝した。
メルセデスが1908年のフランスグランプリに投入した3台のレーシングカー。クリスチャン・ラウテンシュラッガーが操る35号車が優勝した。

ピストンの表面積規制は機能しなかったので、1914年からは排気量を4500ccまでとする新レギュレーションが採用された。この年のグランプリ・メルセデスは圧倒的に強く、ほとんどのレースを制した。115馬力の直4 SOHC 16バルブエンジンの戦闘力に加え、先進的なウエッジシェイプのボディーが強さの秘密だった。

第1次世界大戦が始まり、1915年から1920年まではグランプリは行われていない。1921年に再開された時のレギュレーションは、車重800kg、排気量3000ccとなった。翌年はさらに厳しくなり、650kg、2000ccという規定である。10リッター以上の巨大なエンジンを搭載していた頃とは様変わりした。第1次世界大戦では航空機が兵器として重要な役割を果たすようになり、空気の薄い高空でも出力が落ちないようにするための過給技術が発展した。自動車にも応用され、小さな排気量でもハイパワーを出せるようになったのである。

1922年のグランプリにフィアットが投入した804-404コルサ。空力を考慮した細身のボディーに2リッターの6気筒エンジンを搭載していた。
1922年のグランプリにフィアットが投入した804-404コルサ。空力を考慮した細身のボディーに2リッターの6気筒エンジンを搭載していた。

ひたすら出力だけを追い求めてエンジンを巨大化する時代は終わり、グランプリで勝つためには総合力を高める必要があった。軽量化やサスペンションの強化で操縦性を向上させることが重要になったのである。レース戦略が高度化し、タイヤや燃料を消耗させないことも考慮しなければならなくなっていた。

パワー競争抑制のための新レギュレーション

ベンツは1923年に風変わりな形のマシンをレースに投入する。水滴型ボディーのトロップフェンヴァーゲンだ。2リッター直6 DOHCエンジンを搭載したミドシップマシンで、サスペンションは四輪独立懸架である。革新的なマシンだったが、過給装置を持たないエンジンの出力は90馬力にすぎず、レースでは活躍できなかった。

1923年にモンツァで開催されたグランプリの様子。ベンツのトロップフェンヴァーゲン(写真向かって左)は4位と5位でゴールした。
1923年にモンツァで開催されたグランプリの様子。ベンツのトロップフェンヴァーゲン(写真向かって左)は4位と5位でゴールした。

それと前後してダイムラー社の技術部長に就任したのが、フェルディナント・ポルシェ博士である。彼は手始めに前任者のパウロ・ダイムラーが残した2リッター直4エンジンの改良に取り組んだ。スーパーチャージャーによる過給は、当時最先端の技術的課題だった。ポルシェ博士は2リッター直8 DOHCエンジンも開発している。1気筒あたり4バルブの先進的設計で、6000回転で160馬力という高回転型だった。

1926年のレギュレーションはさらに厳しくなり、車重600kg、排気量1500cと定められた。マシンの速度を抑えて安全性を確保するための改定だったが、自動車メーカーの反発は大きく、ACFとは無関係なフォーミュラ・リブレのレースが行われるようになった。合併によってメルセデス・ベンツとなったチームでは、ポルシェが開発した6.8リッターエンジンを搭載したマシンが活躍する。「ホワイトエレファント」と呼ばれたSで、名ドライバーのルドルフ・カラチオラによって数々の勝利を得た。1928年には7リッターのSSとSSKも登場するが、ポルシェ博士はこの年でダイムラー・ベンツ社を去った。

ルドルフ・カラチオラがドライブするメルセデス・ベンツSSK。写真は1930年にスイスで開催されたヒルクライムレース、クラウゼンレンネンのもの。
ルドルフ・カラチオラがドライブするメルセデス・ベンツSSK。写真は1930年にスイスで開催されたヒルクライムレース、クラウゼンレンネンのもの。

グランプリを含むヨーロッパのレースでは、アルファ・ロメオとマセラティが勢力を伸ばしていた。アルファ・ロメオではヴィットリオ・ヤーノが設計したP2が華々しい戦績を挙げ、マセラティのティーポ26も高い戦闘力を誇った。ブガッティもタイプ35B、タイプ51でグランプリの最前線に躍り出た。1931年から1933年は、グランプリレースも車重や排気量に制限のないフリーフォーミュラとなる。7リッターエンジンの重量級メルセデスと2リッターエンジンのアルファ・ロメオが同じレースで走った。アルファ・ロメオは1932年にP3を投入する。2654ccのエンジンは最高出力215馬力で、軽量なボディーのおかげで優れた操縦性を持っていた。

1920年代後半からドイツ勢が台頭するまでは、イタリアのアルファ・ロメオとマセラティ、そしてフランスのブガッティがしのぎを削る時代が続いた。写真はブガッティ・タイプ51。
1920年代後半からドイツ勢が台頭するまでは、イタリアのアルファ・ロメオとマセラティ、そしてフランスのブガッティがしのぎを削る時代が続いた。写真はブガッティ・タイプ51。

1934年から、新しいレギュレーションが適用されることになった。排気量は無制限だが、車重は750kg以下、ボディーの幅は85cm以下とされた。アルファ・ロメオP3やブガッティ・タイプ51は、この規定内に収まっている。大きくて重いメルセデスのSSKは出走不可能で、新しいマシンを開発する必要に迫られた。

750kgという車重は、当時の大型スポーツカーの約半分である。重量制限によって排気量は2.5リッター程度に抑えられると主催者は考えていた。マシンの性能が上がって最高速度が240km/hに達するようになり、パワー競争を放置すれば重大な事故が起こりかねない。スピード抑制のために策定されたレギュレーションだったが、思惑は外れた。技術の進歩は主催者の見通しをはるかに上回っていたのだ。

ドイツの2強がグランプリを席巻

1934年のシーズンに登場したマシンは、どれも2.5リッターを超える排気量のエンジンを搭載していた。アルファ・ロメオは2.9リッター、ブガッティは3.3リッターである。開幕当初はアルファ・ロメオP3が強さを発揮する。シャシーセッティングは熟成の域に達し、操縦性能の高さがレースでの速さにつながった。しかし、P3は次第に勝てなくなっていく。1929年の大恐慌は自動車メーカーに打撃を与え、アルファ・ロメオは1933年から国の管理下に移っていた。レースのために使える予算は限られている。

アルファ・ロメオが1932年に開発したP3。ティーポBモノポストとも呼ばれるシングルシーターのレーシングカーで、1935年までグランプリで活躍した。
アルファ・ロメオが1932年に開発したP3。ティーポBモノポストとも呼ばれるシングルシーターのレーシングカーで、1935年までグランプリで活躍した。

ドイツでは比較的順調に経済が復興していった。政権を握ったヒトラーは一元的な統治機構を確立し、強力な経済政策を推し進めたのである。彼はグランプリが国威発揚の格好の舞台になると考えた。ドイツ車が優勝すれば、国力の豊かさを世界に向けて顕示することができる。最も優れた成績を上げたチームに対し、50万マルクの賞金を与えることが発表された。メルセデス・ベンツはレース活動を停止していたが、750kgフォーミュラ制覇に向けてひそかにニューマシンの開発を進めていった。

1933年末、ヒトラーはゲッベルス宣伝相を伴ってシュトゥットガルトの工場を視察に訪れている。強い期待の表れだろう。メルセデス・ベンツが用意したのは、完全に新設計のW25である。前輪ウイッシュボーン、後輪スイングアクスルの四輪独立懸架で、ギアボックスをディファレンシャルと一体化して後方に置くトランスアクスルを採用していた。エンジンは3360cc直8 DOHC 32バルブで、最高出力は354馬力に達した。

メルセデス・ベンツが車重750kg以下の規定に合わせて開発したレーシングカーのW25。1934年から1937年にかけて、グランプリをはじめとしたレースで活躍した。
メルセデス・ベンツが車重750kg以下の規定に合わせて開発したレーシングカーのW25。1934年から1937年にかけて、グランプリをはじめとしたレースで活躍した。

デビュー戦となったのは、6月3日にニュルブルクリンクで行われた国際アイフェルレンネンである。サーキットにマシンが持ち込まれたのは5月27日で、急ピッチで最終調整が進められた。前日になってセッティングが完了したものの、重大な問題が発覚した。計量器に載せると、メーターの針は751kgを示したのだ。1kgでもオーバーすれば、レース出場はかなわない。精密に計算して組み立てられているので、今からパーツを取り外すのは不可能だ。

窮地に陥ったチーム監督のアルフレッド・ノイバウアーは、奇想天外な方法を思いついた。塗装をすべて剥ぎ取れば、1kgの軽量化が可能だと考えたのだ。当時のレーシングカーはナショナルカラーに塗られており、ドイツ車は真っ白なボディーカラーだった。メカニックたちは徹夜で塗装を落とし、朝になってもう一度計量すると針はぴったり750kgを示していた。

レースでは従来のコースレコードを更新し、圧倒的な走りで優勝する。銀色に輝くボディーは強い印象を残し、メルセデス・ベンツのマシンには「シルバーアロー」の異名が付けられた。

1934年にニュルブルクリンクで行われた国際アイフェルレンネンの様子。このレース以降、グランプリをメルセデス・ベンツとアウトウニオンのドイツ勢が席巻することとなる。
1934年にニュルブルクリンクで行われた国際アイフェルレンネンの様子。このレース以降、グランプリをメルセデス・ベンツとアウトウニオンのドイツ勢が席巻することとなる。

このレースで2位に入ったのは、ポルシェ博士が設計したアウトウニオンPヴァーゲンだった。295馬力の4358cc V16エンジンを搭載するマシンである。メルセデス・ベンツとアウトウニオンが飛び抜けた性能を誇り、グランプリは2強が激突する展開となる。アウトウニオンもシルバーのボディーカラーを採用し、「シルバーフィッシュ」と呼ばれるようになった。

メルセデス・ベンツのエンジニアは休むことなくW25に改良を加え、性能は飛躍的に向上していく。750kgフォーミュラ最後となった1937年には、新マシンのW125が投入された。レギュレーションの中で最高の性能を引き出した完成形である。エンジンの排気量は5660ccまで拡大され、最高出力は646馬力となっていた。最高速度は350km/hを優に超えていたといわれる。

1937年のモナコグランプリにて、名物コーナーのロウズ・ヘアピンを駆け抜けるマンフレート・フォン・ブラウヒッチュとルドルフ・カラチオラのメルセデス・ベンツW125。
1937年のモナコグランプリにて、名物コーナーのロウズ・ヘアピンを駆け抜けるマンフレート・フォン・ブラウヒッチュとルドルフ・カラチオラのメルセデス・ベンツW125。

ヒトラーがドイツ勢の進撃をゲルマン民族の優位性の宣伝に利用したのは事実である。それはメルセデス・ベンツやアウトウニオンがナチスのために働いたことを意味するわけではない。彼らは政権からの補助金をはるかにしのぐ巨額の資金をレースに注ぎ込んでいた。

メルセデス・ベンツが初年度に用意したのは250万マルクで、その後も毎年それ以上の額がチームのために費やされる。グランプリに勝利して技術力を証明することがエンジニアの願いだった。不幸にも第2次世界大戦でグランプリは終了するが、スキルとノウハウは継承される。ドイツの自動車産業が戦後目覚ましい復活を遂げることができたのは、グランプリで培われた技術のおかげなのだ。

関連トピックス

topics 1
ベンツ・トロップフェンヴァーゲン

第1次世界大戦で軍用機の設計に携わっていたエドムンド・ルンプラーは、戦後は自動車の設計に取り組んだ。OA104という流線形の自動車で、横から見るとボート型だが、上から見ると水滴型だった。駆動方式はRRである。

テストドライブで好感触を得たベンツは、レーシングカーの設計を依頼する。ルンプラーが作ったのは、横から見ても上から見ても水滴型の革新的なスタイルを持つマシンだった。

テクノロジーはさらに先を行っていた。エンジンをドライバーの直後に搭載するミドシップマシンだったのである。しかも四輪独立懸架で、当時の自動車とはかけ離れた未来志向の設計だった。

非力なエンジンが災いしてレースで活躍することはできなかったが、先進的なアイデアに満ちた設計だった。次にミドシップマシンが登場するのは10年後のアウトウニオンであり、さらに、それがフォーミュラカーの主流となるのは1950年代にクーパーが活躍して以降のことだった。

ベンツ・トロップフェンヴァーゲンは空力的なボディー形状、ミドシップのエンジンレイアウト、四輪独立懸架のサスペンションと、すべてにおいて先進的なレーシングカーだった。
ベンツ・トロップフェンヴァーゲンは空力的なボディー形状、ミドシップのエンジンレイアウト、四輪独立懸架のサスペンションと、すべてにおいて先進的なレーシングカーだった。

topics 2
メルセデス・ベンツSSK

ポルシェ博士は1927年にタイプ26というスポーツカーを発表する。6.8リッターSOHCエンジンの出力は120馬力だが、スーパーチャージャーを作動させると180馬力まで伸ばすことができた。

高性能からスポーツを意味するSの名で呼ばれることが多い。ツーリングカーとしても販売されたが、カラチオラによるドライブでレースでも数々の勝利を記録している。

1928年には7リッターエンジンのSSが登場し、ホイールベースを40cm縮めたSSKも作られた。生産台数は合計でも300台に満たないが、街乗りからサーキットまで対応するオールマイティーな名車とされている。

ポルシェ博士が退社した後に作られたのがSSKLである。軽量化のためにシャシーに穴を開け、スーパーチャージャーを大型化して300馬力まで出力を伸ばした。1931年にミッレミリアで優勝するなど、輝かしい戦績を残している。

1931年のミッレミリアで優勝したメルセデス・ベンツSSKL。ドライバーはルドルフ・カラチオラ、コドライバーはウィルヘルム・セバスチャンが務めた。
1931年のミッレミリアで優勝したメルセデス・ベンツSSKL。ドライバーはルドルフ・カラチオラ、コドライバーはウィルヘルム・セバスチャンが務めた。

topics 3
アウトウニオン

アウディのエンブレムは、4つの輪が連なった形をしている。それぞれの輪が意味するのは、ホルヒ、アウディ、ヴァンダラー、DKWだ。1932年に4つの自動車会社が統合されて発足したのがアウトウニオンで、現在のアウディの前身である。

ホルヒは1901年に設立されているが、経営陣の内紛から創業者のアウグスト・ホルヒが1909年に追放される。彼が新しく作った会社がアウディである。ヴァンダラーは1902年からオートバイの製造を始めた。DKWは1906年創業のオートバイ・自動車製造会社だった。

大恐慌で不況が続く中、生き残りのために4社が合併して新会社を設立した。アウトウニオンとは、自動車連合を意味する言葉である。それぞれ異なるジャンルのクルマを製造していたので、合同してフルラインナップのメーカーとなった。

会社の知名度を上げるため、積極的にレース活動を行った。ポルシェ博士に設計を依頼して作られたPヴァーゲンはミドシップで四輪独立懸架という意欲的なマシンで、メルセデス・ベンツと好勝負を繰り広げた。

アウトウニオンはタイプCやタイプDといったミドシップのレーシングカーをグランプリに投入。1936年にはタイプCを駆るベルント・ローゼマイヤーが年間王者に輝いている。
アウトウニオンはタイプCやタイプDといったミドシップのレーシングカーをグランプリに投入。1936年にはタイプCを駆るベルント・ローゼマイヤーが年間王者に輝いている。

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[ガズ―編集部]