ダカールラリーで活躍するラリードライバー 増岡浩氏に聞く

元旦にフランス・パリをスタートし、アフリカ大陸のセネガル・ダカールまで1万2000kmを走破する過酷な競技『パリ・ダカールラリー』。国内では“パリダカ”と呼ばれ、日本人ドライバーや国産車が活躍したことでラリー競技のなかでは抜群の知名度を誇る。現在では南米大陸に舞台を移し名称も『ダカール・ラリー』と変更されたが、日本人にとってパリダカはいまでも特別なイベントであることは間違いない。
そのパリダカで、2002年、2003年と2年連続優勝を果たしたプロ・ラリードライバーが増岡浩さんだ。

パリダカに参戦した当初は惨敗。ただ速く走るだけでは勝てない、トラブルとの戦いの過酷なレース

速く走るだけでは勝てないといわれるパリダカで、2連覇を果たした増岡さんだが初参戦した1987年のレースは総合29位(プロトタイプクラス)と惨敗。レース後、悔しさに唇をゆがませた。

「国内のラリーで結果を残していたので、パリダカに参戦してもいけると思っていたのですが…。初参戦時は1万km以上走行するパリダカではペース配分がわからず、とにかくクルマを飛ばし続けていたら車体に負担がかかりトラブルを起こす。そのトラブルをリカバリーしようと飛ばすと、またトラブル。この繰り返しで、走れども、走れどもゴールにたどり着かない。苦しいのはクルマだけでなく、レースが上手くいかないジレンマと極度の疲労で、身体が悲鳴をあげました。身をもってパリダカの奥深さ、難しさが理解できました」

​新年早々、砂漠を疾走し、並み居るライバルたちに競り勝った姿に多くの日本人が熱狂した増岡さんだが、パリダカに勝つまでの道のりはけして平坦ではなかった。

三菱ジープでのオフロードレース参戦をきっかけに、三菱自動車と出会い、初代パジェロからラリードライバー兼テストドライバーとして開発に携わる

​​増岡さんの実家は木材業を営んでいたことで、作業車として三菱ジープが身近にあった。そんな環境も手伝い、子どものころから四輪駆動車に興味を抱くようになる。中学生に入ると四輪駆動車の愛好家の集いに参加。運転免許を取得後、19歳のとき福島県で開催されたオフロードレースに参戦した。
そのデビュー戦は、パワーに勝るランドクルーザーが活躍する中、三菱ジープを操り、いきなり上位入賞を果たす。これはいけると手応えを感じたが、それ以上にこのレースが人生に大きな影響を与えることになった。

「レースを観戦していた当時、三菱自動車の広報宣伝部で、後にラリーアートの社長となった近藤昭さんから声をかけてもらいました。これをきっかけに、発売と同時に、初代パジェロでオフロードレースに参戦するようになったのです。その後、22歳のとき三菱自動車のラリードライバーとテストドライバーとなりましたが、それ以来ずっと、パジェロの開発に携わっています」​

​​初代パジェロはオフロードレースで他車を圧倒。高いポテンシャルを秘めたマシンを手に入れ国内チャンピオンを獲得。1985年からは、海外ラリーへの参戦を果たし実績を積む。しかし、満を持して望んだパリダカではあったが、初参戦の1987年は前記したとおり惨敗に終わる。汚名返上を果たすべく挑んだ、翌年もリタイアと最悪の結果が続いた。

2年間、修理工場でクルマの構造を学んだ経験が、パリダカ優勝に

​​「2度目のパリダカでクルマがトラブルを起こした原因は、ドラム缶からポンプで給油した時にドラム缶の底に泥が溜まっていたことで、燃料タンクからエンジンまで泥が詰まってしまって…。修理する時間が足りずに、タイムオーバーでリタイアになりました。予想できず運が悪かったとしかいえないトラブルでしたが、実は前の日に軽い症状が出ていたんですよね。ただ、そこまで深刻に考えずにいたことが、最悪な結果になったことは悔しくて…。レース後、そのとき売れるものは全部お金にかえて、メカニックとして働くためフランスへ修行に出ることにしました」

修理工場では、若い作業員にとともに油まみれになって、くたくたになるまで作業を行った。また、働くだけでなく睡眠時間を削ってまで、フランス語を身につけるために勉強もした。国内で得たオフロードチャンピオンの地位を投げ捨て、単身フランスへ飛んだ理由はただひとつ「パリダカで勝つため」だった。フランスへ渡って2年後の1990年、市販車改造クラスでパリダカへ再チャレンジした増岡さんは、みごとクラス優勝を果たす。そのクルマはフランスの工場で、自らが組みたてたものだった。

「ブランクがあった2年間、メカニックを学びクルマの構造を理解してわかったことは、パリダカで勝つためには運転を変える必要があったこと。例えば、ここはこういう部品を使っているから、シフトチェンジはもっと丁寧にしないとトラブルに繋がるなど。1990年は市販車クラスで優勝しただけでなく、総合でも10位になったのは、フランス時代の経験があったことは間違いありません。ただ、そうとう苦労はしましたけどね(苦笑)」

1994年も市販車改造クラスで優勝を果たした増岡さんだが、クルマに無理をかけない運転をするには、平常心を保つ体力・精神・肉体的な能力向上が必要だと感じた。そこで、車両だけではなく自らを“チューニング”することを徹底して推し進める。そのひとつが目だ。当時、裸眼で1.5あった視力だが、砂だらけで舗装された道路がない砂漠では、200、300m先を常に見据えて走らないといけないパリダカでは足りないと感じた。そこで眼科医と相談し、レーシックやコンタクトを検討した。結局、パリダカの環境を考えてメガネを特注。視力は2.5まで向上し、いままでとは見える範囲が驚くほど広がった。2002年、2003年にパリダカ連覇の影にはマシンの力だけでなく、自らの肉体向上も大きかったのだ。

「パリダカは砂に隠れている岩に当たった一瞬でタイヤがバーストしてしまいます。1回の走行で、だいたいタイヤが5本から10本のタイヤがパンクするのですが、視力が向上したことで岩を避けられるようになったのです。優勝した2002年にパンクしたのはわずかに1本。予備のタイヤを車両に積んで走行するので、パンクしたら交換するのですが1本あたり約3分の時間がかかります。レースで6本交換すると約20分かかると考えると、その差は大きいですよね。優勝はそういう積み重ねだと思いますよ」

「世界一過酷なモータースポーツ」と言われるパリダカの所以は、悪条件によるトラブルが多いため、速さだけで優勝できないところだ。視力を上げてパンクを交換のロスタイムを減らした増岡さんだけでなく、三菱はチーム全体でトラブルに対応できる組織作りに挑んだ。そのひとつが、徹底的に整備性向上にこだわったこと。他のチームが1日のレース終了後、深夜までミッションやドライブシャフトの交換を行うなか、三菱チームは日付が変わる前には終了している。クラッチ交換はミッションやシャフトを降ろしと約3時間かかる作業が、三菱の車両はわずか10分、ネジ一本外すだけで交換できる機構を備えていたからだ。メカニックを休ませる時間が長いほど、ミスが少なくなるのは自明の理であろう。

三菱自動車の社員としても活躍。ラリーのノウハウは、アウトランダーPHEVの開発にもフィードバック

パリダカで活躍した増岡さんは、現在、三菱自動車の社員として広報活動、テストドライバーの教育、開発本部で車両の評価など多岐にわたる業務に就いている。そして今年、アウトランダーPHEVで海外ラリーに参戦することが発表された。まずはポルトガルで10月に開催されるクロスラリー『バハ・ポルタレグレ500』に参戦することになっているが、参戦車両の開発は順調だと話す。

​​「三菱自動車の売りである四輪制御技術によってコーナリング時の安定感は抜群。しかもガソリン車と違い、走行距離に応じた車重の変化がないのでクルマの安定感と重量配分はほぼ理想に近いところにきています。パリダカ参戦時のパジェロは、燃料タンクだけでドラム缶2本分の550リッターでしたから、重量の変化がどんどん変わっていきました。PHEVのアウトランダーはラリー車としての可能性が高い車両だと感じています」

​​またPHEVはガソリン消費により重量が変化しないだけでなく、シフトチェンジがいらないことも大きい。レース中のギヤチェンジは、タイムロスを起こすだけでなく、回数をこなすことでミッションのトラブルを引き起こす要因にもなるからだ。
​ 事実、パリダカ参戦時の増岡さんはミッションのトラブルやタイムロスを嫌い、クラッチを使わずにシフトチェンジをしていた。今回、海外ラリーに参戦するアウトランダーPHEVは、今後発売を予定している市販車に大きく繋がる、いわば「戦う実験車」としての役割も持つ。

​​「市販しているアウトランダーPHEVが時速100kmを超えるとエンジンが介入しますが、ラリー車は時速160kmまではモーターの力だけで走行します。エンジンはレース中のほとんどを発電で使用し、電気はバッテリーをかえさずに直接モーターに使います。また市販車のままラリーに参戦しても限界が決まっているため、四輪制御技術はハイスピード域でのセッティングをテストしたいと考えています。将来的に、PHEVはいまよりハイパワーになることは確実なので、今回の経験が制御技術に役立つことは間違いありません」

経験を活かし、ゲリラ豪雨、台風など悪条件でも強いクルマ造りに貢献していきたい

そんな増岡さんが、開発者のひとりとして社内で強く主調しているのが「悪条件で強いクルマを造る」ことだ。
​ パリダカという過酷な環境を幾度も走り抜いた増岡さんならではの開発哲学である。

「舗装率が高い日本ではありますが、ゲリラ豪雨や爆弾低気圧、台風などの悪条件時に安心して自宅や目的地にたどり着けるクルマ作りを目指しています。パリダカに参戦したことで、一般的な開発者では体験できなかった経験を踏まえ、最悪条件で強いクルマを作ろうと社内では口をすっぱくして言っていますね。クルマがすべらない四輪駆動や四輪制御技術はある意味保険。大切な人を守る安全性が重要なので、たとえ道路が冠水しても三菱の車はちゃんと走行できる──こういう評価を、自分の経験を活かして得られるようにしていきたいと思っています」

(文:手束毅 写真:小林和久/三菱自動車)