あれから6年…TBS安東弘樹アナウンサー連載コラム

原稿を書いている只今の時間、2017年3月11日、午後11時03分。

そう東日本大震災、そして福島第一原発の事故から、ちょうど6年です。

その日、私は「ひるおび」という番組の生放送を午後2時に終え、次の現場に急ぐ為、滅多に使わないタクシーに乗っていました。

そして国道246号線の六本木ヒルズの前辺りで信号停車していた時、その瞬間を迎えました。午後2時46分。車がかすかに、横に揺れている様な気がしましたが、頭上に有る首都高速を大きなトラックが走っているのかな、位にしか、その瞬間は思っていませんでした。

ところが、ふと横を見ると、六本木ヒルズも含めて近辺のビルというビルから人が大勢出て来るのです。それは初めて見る光景でした。まるでパニック映画のワンシーンの様です。

これは、ただ事ではないなと思い、次の現場に居るスタッフに電話を掛けましたが全く電話もメールも繫がらず、現場に向かうか迷いましたが、結局すぐに局に戻る事にしました。

局に戻ったら、エレベーターが止まっており、階段は人で溢れかえっています。アナウンス部は11階に有る為、人をかき分け、全速力に近い速さで階段を駆け上がりました。

部屋に着いた瞬間、当時の部長が「安東、良いタイミングで来てくれた!今すぐ9階のラジオに行って特番の準備に入るように!」と指示を受け、今度は階段を走り降り、9階のラジオのスタジオに向かいました。

到着すると、地震の時に放送していた番組のスタッフと2人の出演者に5時までは頑張って貰うが、その後の特番を何時までか分からないが、担当して欲しい、という事になっていました。

勿論、引き受けましたが、聞けば、音楽もかけない、CMも無しで、ひたすら私が一人で話し続ける、という状況です。TBSラジオの生放送用のスタジオは、二つ有り、それぞれに窓が一つ、そしてテレビモニターは、キー局が全部観られる様に7つ付いています。

そして5分程前に、スタジオに入り、5時からの生放送に備えました。

入社して20年、初めてのラジオの緊急特別番組です。しかも勿論、台本等は有りません。そして生放送時には通常、台本の他に「キューシート」という放送には絶対に欠かせない時間割の様な物が有るのですが、それすらもありません。

生放送の直前に決まった事が、私が一人で夜の10時まで、すなわち5時間の生放送を担当する、という事だけです。

ただ、ひたすらラジオを聴いている人が欲している情報を正しく、解り易く伝えよう。それだけ考えてマイクに向かいました。唯一の支えは、その時の特番のスタッフが、以前担当していた番組のスタッフと同じで、お互いに信頼関係が有った事でした。

そして、5時。机の上の時計に付いている赤いランプ(タリーと言います)が点いて生放送が始まりました。通常は、曲を流している最中やCM中、つまり自分の声が放送に乗らない時、そのランプは消えます。その時間は一息つける訳です。

しかし、その特番中夜の10時までは一瞬も消えないランプが点いた訳です。恐らく、民放のTBSラジオが開局して以来、初めての事だと思います。

放送の内容は、ラジオならではの、リアルタイムの地域の情報とテレビ等から入って来る被害の大きい地域の情報等をひたすら伝える他、横浜スタジアムでオープン戦の取材をしていたアナウンサーに横浜の状況を電話で伝えて貰ったり、たまたま地震の時にお台場で取材していてレインボーブリッジを歩いて渡り赤坂まで戻って来たスタッフに状況をスタジオで話して貰ったりと、想像よりも遥かに多くの情報が、次々に入って来るのをスタッフが見事に捌いてくれたお蔭で、私は、次に何を話して良いか分からないという状況には殆どなりませんでした。そして、その情報の中には、頻繁に起こる余震の震度情報や震源、地震の規模(マグニチュード)も有りました。記憶が正しければ1時間に1度位の頻度で震度3以上の余震が有ったと思います。

更に、当時少しずつ普及し始めていたツイッターを使ってのリスナーの情報提供が、正に救世主となりました。

震災時、首都圏の交通はマヒし、帰宅困難者が都心の至る所で右往左往しなければならず、多くの人が情報に飢えている状態でした。

そこでラジオが、その特性を発揮する事になります。テレビは地域の情報は放送してくれません。ですがラジオは携帯でも常に安定して聴ける上、狭い地域の情報を沢山届ける事が出来ます。

リスナーのツイッターで寄せられる情報は、「銀座の何丁目のビル近くにはガラスが散乱しているから気を付けて下さい」「○○大学の体育館が帰宅困難者の為に解放されています」
「いえ、その体育館は満員になっているので、今は入れません」等、即時性が有り、多岐にわたるものでした。

私はそれらを「リスナーの皆様から寄せられた情報で、我々は確認を取れないので通常は放送できないのですが、この様な状況ですので、お伝えします。私はリスナーの皆様を信じて、敢えてお伝えします」という苦しいエクスキューズを付けて、伝え続けました。

後から分かった事ですが、リスナーの皆様からの情報は本当に正確でデマや、いい加減な情報は殆ど無かったという事です。改めて当時、情報を送って下さった皆様に感謝を申し上げます。

そして、感覚としては、あっという間に午後10時を迎えました。

放送が終わって暫くは放心状態でしたが、ラジオを聴いて下さっていた方に少しでも役に立てたか、無神経な表現は無かったか、頭の中がぐるぐると回っていたのを今でも覚えています。

その日から6年、これまで何度か被害の大きかった地域にTBSアナウンサーとして、テレビで取材に行く事は有りました。でも、ずっと思っていたのがテレビカメラというフィルターを通さない形で、様々な被害を受けた地域を、この目で見て、人の話を聞きたいという事です。

そして、ついにその機会を得ました。

恥ずかしながら先月中旬、私はインフルエンザに罹ってしまい、5日間会社を休まなければならなくなりました。高熱に悩まされましたが、少し落ち着いた3日目に、これまで読めなかった本や、定期購読しているが、まだ読んでいなかった少し前のクルマの雑誌の記事等を読める時間を得ました。

そして、ある雑誌の、あるコラムに、南三陸のホテルで運行されている「語り部バス」の事が書いて有ったのです。それはホテル勤務中に震災に遭った支配人やスタッフの何人かが自ら語り部となって、体験談をしながら被害の大きかった地域や、震災遺構を巡る、という内容でした。

何度も防災無線や放送で避難を呼び掛けて自分は犠牲になった女性職員の方の話で知られる、今は鉄骨だけになってしまった防災庁舎跡では、あまり知られていない、さらに詳しい話を聴けたり、体験した方にしか語れない、報道もされていない小さなエピソード、更に被害が特に無かった地域の人に求める事等、本当に、胸を打つ、そして大きく頷く話ばかりでした。

やはり、カメラが回っていたり、マイクを向けられている時と違う、心からの言葉を聴く事が出来たと思います。

そして、今の日本では、どこでも大きな自然災害に見舞われる可能性が有る事を踏まえて、その様な状況の時、人間は、どんな状態になるのか、災害に備えて、どんな物が必要か、どんな事に困るのか、被災した方でしか伝えられないリアルな提言も聞けます。

そのホテル(南三陸ホテル観洋)では毎日、このバスを運行していますので、ぜひ、参加して頂きたいと思います。

私は、ここに宿泊もしたのですが、他のスタッフの方にも何人か、お話を聞く事が出来ました。特に、局のアナウンサーから、このホテルに転職した方(実は転職サイトのCMにも出演していた方です)には声を掛けて頂いて、少し長い時間、話をして頂きました。元々新潟出身で新潟の局のアナウンサーをされていたそうですが中越地震の事も有り、何か出来る事はないかと、何と辞職して南三陸に移住してホテルのスタッフになったそうです。

震災後、数年勤務して、地元の人間の立場で痛感するのは、現状、10年後のビジョンが描けないという事だそうです。まだまだ今は防波堤建設や道路建設を含めて周囲は殆ど工事現場の様相ですが、それでも建物や道は数年後には、ほぼ完成するそうです。

でも入れ物が出来たとしても、「そこに入る人が居なければ意味が無い」。

「私は珍しく他の土地から、この南三陸に来ましたが、ここ何年かは地元に仕事が無いので工事に携わる人以外はかなりの人が県外や町の外に出ていってしまいました。しかも、今のままでは、その人達は、まず戻ってこないと思います」と切実な状況を話して下さいました。

今、頑張っている様々なお店や宿泊・住居施設は、主に工事関係の方で成り立っているそうで、これで工事が終わって、その人達が立ち去った後は、人自体が少なくなって、多くの商売が厳しくなるとの事です。

元々、三陸海岸が国定公園に指定されており観光が大きな産業である為、その不安は理解できます。特に元々観光業に携わっていた若い人は、観光客が戻ってくるまで何年も待つ訳には行かないので、移住したり、町の外で仕事に就いたり、南三陸に戻れるか分からない方が多いそうです。

ですから、とにかく観光客に来て欲しいとの事。「物見遊山でも、興味本位でも、何でも良いです。ここに来て、普通に楽しんで貰いたいです」観光客が大挙して来てくれたら、嫌でも人が必要になる。そこに雇用が生まれる。出て行った人たちも戻って来る。そして何より楽しんでいるお客さんの笑顔が私達のモチベーションになる。

そうおっしゃっていました。

私が話の最中に「明日の語り部バスで、お話を伺うのが楽しみです、というのは語弊が有りますね」と言ったら、そのスタッフの方は「安東さん!楽しみです。で良いんです!我々は一生懸命語ります。それを聴くのを楽しみにして欲しいんです。不謹慎という事に怯えて近付かない、というのが一番困るんです。」と大きな声で笑顔で、おっしゃったのが、とても印象に残りました。

皆さん、ぜひ、南三陸、そして周辺の女川等、被害の大きかった地域に“遊びに”行きましょう!

蛇足ですが、私、大好きな番組「孤独のグルメ」に出てきた女川のお店に、帰りに寄るのを秘かに楽しみにしていたのですが、移転の為の休業中でした…。ですから、また近い内に女川、南三陸、更に岩手県まで足を伸ばして取材、ではなく遊びに行きたいと思います。

それから、この事も、ぜひ、お話させて下さい。

今回私はクルマで一昨年に全線開通した常磐自動車道を使って千葉の自宅から南三陸に向かいました。

福島県に入って暫くすると、道路のわきに放射線の線量計が現れます。最初は0.1~0.2μ㏜/h(マイクロシーベルト)という数値が続きますが、浪江町、南相馬、という地名が看板に見えてくると、「これより帰宅困難地域です」と書かれたプレートが目に飛び込んできました。更に、オートバイは通行禁止(生身の身体で、そこを通過してはいけないという事でしょうか)の文字。

そして、その次の線量計の数値に目を疑いました。

3.7μ㏜ …その後も暫く高い数字が続きます。3.5、2.7、また3.7。でも、ある地域を過ぎると、また低い数字に戻ります。

現実を目の当たりにしました。

今、原発の事故による放射線で近付けない地域が、この国には存在する、という現実です。

ある人は、ある所で、福島原発の事故は「完全に管理下にある(Under Control)」と言いました。ここに住んでいらっしゃった方の心中、察するに余りあります。自然は美しく、牛などの動物は見えますが、人の気配が感じられないというのは、とても悲しいです。

この時期だけ、クローズアップされますが、いつでも構いません…。

自分の愛するクルマで(勿論レンタカーでも!)常磐自動車道を通って、現実を見つつ、茨城や福島や宮城、岩手等に“遊びに”行きませんか。僕は最低でも1年に一回はステアリングを、その方向に向けたいと思います。年を重ねる度に、その景色がより良くなっていく事を祈りながら…。

今回は長くなってしまいました。

最後まで読んで下さった方、有難うございます。


安東 弘樹

[ガズ―編集部]