モータースポーツから生まれ、モータースポーツと共に歩んできたサーキットの雄、『NISMO』の軌跡

  • SUPER GTでNISMOチームが走らせるMOTUL AUTECH Z

    SUPER GTでNISMOチームが走らせるMOTUL AUTECH Z


1984年9月。東京都・大森に誕生したNISMO(ニスモ)の愛称で親しまれる「ニッサン・モータースポーツ・インターナショナル」は、日産自動車 宣伝三課大森分室(通称:大森ワークス)の業務を引き継ぎ、100%子会社として誕生した。

厳しい排ガス規制への対応に迫られた1970年代を終え、1980年代になると国内自動車メーカーは高性能なスポーツカーなど数々の魅力的なクルマを販売し始める。さらにバブル景気に向けた景気向上を背景に、モータースポーツに参加する一般ユーザーが増えていた。そこで、ニスモは日産車でモータースポーツに参加するユーザーのためのスポーツキット販売や、サポートの窓口として営業を開始した。
同時に、日産・追浜工場にあった特殊自動車実験課(通称:追浜ワークス)が行っていた、レース車両開発業務もニスモが継承。名実ともにモータースポーツに特化した会社の船出であった。

創業の翌年となる1985年には、日産自動車のブランド力向上を目的として、グループCカーによる全日本耐久レース選手権。さらに、グループAカーにおけるツーリングカーレース等への参戦を開始することとなる。

1985年10月に富士スピードウェイで行なわれた『WEC世界耐久選手権』には、星野一義、萩原光、松本恵二がニッサン・シルビア・ターボCニチラ(マーチ85Gニッサン)のドライバーを務め、見事に総合優勝を果たした。翌年度から参戦することになる『ル・マン24時間レース』への出場、そして、長きに渡るCカーによるモータースポーツ参戦の礎となった。

ツーリングカーによる“グループA”のレースでは、1985年にスタートした全日本ツーリングカー選手権(JTC)にスカイラインRSターボ(DR30型)で参戦を開始。その後の、スカイラインGT-R(BNR32型)が大活躍をみせた黄金時代へと繋がっていく。このように、ニスモは日本のモータースポーツのハイエンドカテゴリーであったグループA、グループCのレースを軸とした、“日産ワークス”としての活動を精力的に推進していった。

そんな、モータースポーツ界で躍進するニスモの、チャレンジングな戦績の一部を紹介しよう。

【ル・マン24時間】苦難の連続も日本人トリオが表彰台をもたらす

  • 23号車R90CP

    長谷見昌弘/星野一義/鈴木利男組の日本人トリオが3位表彰台を獲得した23号車R90CP

1986年からル・マン24時間レースへ参戦を開始した。日産としては1960年代後半にも参戦を計画していたがこの時は断念、ついに念願のワークス参戦を実現させた。ニッサンR85Vアマダ(長谷見昌弘/和田孝夫/Jウィーバー組)とニッサンR86Vニチラ(星野一義/松本恵二/鈴木亜久里組)の2台体制で、エンジンは前年から導入したV型6気筒ツインターボエンジンのVG30を搭載。

サーキットトラックだけでなく、全コースの約2/3が一般道を利用するという性質上、事前テストの走行は不可能という条件下であり、各種のデータが揃っている常連の名門ワークスに対しハンデのある状況。そんな中、ニッサン86Vは予選で24番手を獲得している。そのニッサン86Vは決勝レースではリタイアしてしまったが、ニッサン85Vは総合16位完走という成果を上げた。

翌1987年には、700ps(予選時には1000ps)を発揮するレース専用エンジン「VEJ30(V型8気筒3.0Lツインターボ)」を開発、1988年はよりコンパクト化を進めた「VRH30」を投入、そして1989年には排気量を3.5Lにした新設計のVRH35エンジンを搭載、シャシーもマーチからローラ製に変更した3台のR89Cで参戦と年々改良を加えている。

その集大成となる1990年には、日欧米の日産3拠点から5台のワークスカーR90Cが投入され、予選ではポールポジションを獲得。決勝レースでは予選3番手の23号車ニッサンR90CP(長谷見昌弘/星野一義/鈴木利男組)が、日本車史上初の総合5位入賞を果たした。

  • 1995年のル・マン24時間で総合10位に入った22号車NISMO GT-R LM

    1995年のル・マン24時間で総合10位に入った22号車NISMO GT-R LM

1991年からルールが変更となったことで一時参戦を取りやめていた日産・ニスモチームだが、5年後となる1995年にスカイラインGT-R(BCNR33)をベースにした『ニスモGT-R LM』2台がエントリー。この参戦計画の面白いところは、ニスモファンの組織“クラブルマン”を発足させたことで、ファンは応援するだけでなく、チーム運営にも参加できるという企画も盛況であった。
レースの方は、22号車(福山英朗選手、近藤真彦選手、粕谷俊二選手)が総合10位(クラス5位)を獲得。

1997年には、ライバルチームがミッドシップレイアウトのカーボンモノコックシャシーを採用した戦闘力の高いマシンを投入していることに対抗し、英国のTWRと共同プロジェクトを組み、カーボンモノコックボディのGTマシン『ニッサンR390 GT1』を3台投入する。初年度は2台がリタイヤ、星野一義/E・コマス/影山正彦組23号車が総合12位でフィニッシュしている。
そして翌年、大幅な改良を施した4台のR390 GT1は、32号車(星野一義、鈴木亜久里、影山正彦)が総合3位を獲得。日本人のトリオの手により日産・ニスモのチームが初めてル・マンの表彰台に立つとともに、4台すべてが10位以内で完走を果たし、ライバルたちに大きな脅威を与えることとなった。

【グループA】無敵を誇ったスカイラインGT-Rがモータースポーツファンの心を鷲掴み

1985年。量産車によるグループA車両で競われる『全日本ツーリングカー選手権(JTC)』がスタート。当時の日本では“ハコ車”の最高峰のレースとして、日本中のクルマ好きを熱狂させた伝説のレースの一つだ。

ニスモは、初年度からDR30型スカイラインターボRSを投入。1986年にはマニュファクチャラーと鈴木亜久里によるドライバーと両チャンピオンを獲得した。
1987年の最終戦にはHR31型スカイラインGTS-Rが登場し、1989年には星野一義が6戦中4戦でポールポジョンを獲得。年間では3勝を挙げた長谷見昌弘/アンデルス・オロフソン組がシリーズチャンピオンに輝いきフォード・シエラ勢の3連覇を阻止することに成功した(マニュファクチャラーはフォードの3連覇)。

  • デビューイヤーにチャンピオンを獲得した12号車 カルソニックスカイライン

    市販車と同等の見た目で大人気となったグループAマシン(スカイラインGT-R)。レースファンを増やしただけでなく、同車の販売にも貢献。BNR32型の総販売台数は4万3661台を数えた

そして1990年に伝説が幕を開ける。スカイラインGT-R(BNR32)がデビューし開幕から全6戦ポールポジション、全勝の完全制覇を成し遂げ、5勝を挙げたカルソニックスカイラインの星野一義/鈴木利男組がチャンピオンを獲得。以降もこの快進撃は留まること知らず、その圧倒的な強さにフォード・シエラ勢はマシン変更や撤退を余儀なくされ、1992年からは実質スカイラインGT-Rのワンメイク状態に。結局デビューからグループAによる選手権が終了するまでの29戦全勝を記録した。

その後のツーリングカーレースとなる『全日本GT選手権(JGTC)』や、今に繋がる『SUPER GT』など、トップカテゴリーのレースシーンに於いて記憶にも記録にも残るチームとして、ニスモの活躍と人気は揺るぎないものとなっている。その象徴の一つが、“クラブルマン”を源流にもつ「日産応援団」だろう。2000年から本格的に国内での応援活動を続ける“私設応援団”は、日産・ニスモチームのマシン開発に懸ける情熱と、観るものを魅了する熱きレース魂があってこそだろう。

数々のワンメイクレースで走る楽しさも提供

  • K10型マーチによるワンメイクレース

    ローコストで本格モータースポーツに参戦することを可能とした、マーチ(K10型)によるワンメイクレース。

モータースポーツに参加するユーザーの支援として、創業の1984年からリッターカーでありながら基本性能に優れていたマーチ(K10型)によるワンメイクレースを開催。1987年には「マーチ・リトルダイナマイトカップレース」と称する全車レンタル方式のレースなども企画している。
このマーチのワンメイクレースはモータースポーツの登竜門として人気を博し、その後K11型、K12型と多くのアマチュアレーサーを育て、走る楽しみを提供してきている。

その他にも、全日本ラリー選手権や、ビッグレースのサポートとして開催されたJSS(ジャパン・スーパースポーツ・セダン)レース、全日本F3選手権など多数のカテゴリーに出場しているチームや、マシンの技術支援などにも取り組んでいる。

数多くのモータースポーツ参戦から得たノウハウを、ストリートカーに活かすべく、1993年にニスモの『コンプリートカー』計画がスタートする。
会社創立10周年に合わせて『10周年記念車』という形で、そのベースにはシルビア(S14型)が選ばれた。目標馬力は270psで、その名を『NISMO 270R』と命名。1994年に限定30台で販売された。

その後も、スカイラインGT-R(BCNR33型)をベースにした『NISMO 400R』(1995年)、BNR34型をベースにした『NISMO R34 GT-R Z-tune』(2004年)、フェアレディZがベースの『Version NISMO Type 380RS』(2007年)、GT-R(R35型)ベースの『NISSAN GT-R NISMO』(2013年~)等々、モータースポーツファン垂涎のコンプリートカーを続々登場させている。

これらのコンプリートカーは、民間で施工される、いわゆる“チューニングカー”とはひと味もふた味も違い、「走る、曲がる、止まる」の性能向上やバランスの最適化だけでなく、スポーティなエクステリアに於いても、レースカー直系の意匠を持ったデザインが採用されるなど、メーカー基準で仕立てられた全方位で隙のない、ニスモ謹製のチューンドモデルなのである。

レースシーンでの活躍や、コンプリートカーの展開に加えて、各種の『強化パーツ』や『復刻パーツ』にも触れておきたい。

市販車をベースに、スポーツ走行を前提としたカスタマイズを施していく際、エンジン内部のパーツであるとか、ミッションやクラッチ、デファレンシャルギヤなどの動力伝達系、さらには空力系など、さまざまなパーツをバランス良く強化していく必要が出てくる。
この「強化パーツ」というジャンルは、アフターパーツメーカーも精力的に取り組んでいるパーツだが、国内屈指の名チューナーを以てしても、『ココの部品はニスモじゃないと』と言わしめ、指名買いをする強化パーツの多さが、やはりニスモの秀でた開発力の高さを物語っている。

さらに2017年11月。純正部品の復刻生産を柱とした『NISMOヘリテージパーツ』が展開される。第二世代GT-R(BNR32/BCNR33/BNR34)の日産純正パーツが、部分的に製造廃止となり市場に供給されなくなってしまったからだ。
それら、製廃となってしまった“日産の純正パーツ”の中で、とくに流用や代用が利き難いパーツを選定・復刻することで、朽ちていくいっぽうだったクルマと、オーナーの救済として重宝されている。こうしたユーザーの想いを汲んで、しっかりフォローしてくれる姿勢も、ニスモが人気であり続ける所以だろう。

  • 日産GT-R NISMOスペシャルエディション

    日産GT-R NISMOスペシャルエディション

こうして躍進を続けているニスモは、2022年4月に「オーテックジャパン」と統合し、『日産モータースポーツ&カスタマイズ』となった。
新しくなった会社では、大割で言うと「モータースポーツはニスモ」、「カスタマイズはオーテック」といった立ち位置となり、ニスモ事業部、オーテック事業部として存続する。

ニスモとオーテックは、これまでも部分的に協業していたプロジェクトはあったが、今後はまさに一体となり、高いシナジー効果によってさらなる飛躍をしていくことは間違いない。これからも日産車ファンをワクワクさせてくれる、そんな商品のリリースを楽しみにしておこう。

(写真 日産モータースポーツ&カスタマイズ)

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