2輪や3輪も!? 三菱自動車の黎明期を「三菱オートギャラリー」で振り返る

愛知県岡崎市にある三菱自動車の博物館「三菱オートギャラリー」が、2017年5月22日(月)にリニューアルオープン。「三菱の自動車のはじまり」「時代を駆け抜けた車たち」「極限に挑戦した車たち」の3つのゾーンに再編成され、新たにカフェも併設された。今回はその中から、「三菱の自動車のはじまり」ゾーンを紹介したい。自動車メーカーとしての三菱が生まれるまでの足跡がそこにはあり、通り一遍の自動車ファンでは知らなかったであろう驚きと楽しみが詰まっていた。

日本初の量産型乗用車、三菱・A型がすべてのはじまり

このゾーンに入ってまず目を惹くのは、展示エリア中央に鎮座する「三菱・A型」。日本初の量産型乗用車だ。残念ながら展示されているのは実車ではなく7/10サイズのスケールモデルだが、それでも当時の空気感を十分に感じることができる。

自動車事業の第一歩とも言える、日本初の量産型乗用車「三菱・A型」のスケールモデル
自動車事業の第一歩とも言える、日本初の量産型乗用車「三菱・A型」のスケールモデル

三菱・A型の設計図が残っていなかったため、写真などの限られた資料から苦労して1972年に1/1スケールモデルが復元されたとのこと。2017年7月の取材時点では1/1モデルは貸し出し中で、代打を務めていたのがこの7/10サイズのスケールモデルということだ。展示に映えるようレッド&ブラックのツートンで塗装されているが、本来はブラック1色だったそうだ。これがまさに、三菱自動車としての第一歩と言える。しかし当時は三菱自動車という会社はなく、三菱造船が生産に当たっていた。なお、1/1サイズのスケールモデルも貸出期間が終了次第、こちらに展示される予定。

戦後は航空機用資材を活用して市民の足を提供

三菱・A型で自動車メーカーとしての一歩を踏み出し、1934年に三菱造船は三菱重工業と改称され、軍用車などの生産に力を入れた。そのあとに訪れた第二次世界大戦のためだが、敗戦により軍需がなくなると、再び市民へと目が向くことになる。そして1946年に生まれたのが「C-10型シルバーピジョン」と「みずしま」だ。

航空機の素材を使って作られたスクーター、シルバーピジョン
航空機の素材を使って作られたスクーター、シルバーピジョン

シルバーピジョンの名前の由来は、フロント部にあしらわれた平和の象徴である鳩のマーク。戦争が終結して使い道がなくなった、航空機用のアルミ合金を多用しているのが大きな特徴だ。セルモーターなどないのは当然だが、なんとキックスターターさえついていない。“押しがけ”が唯一の始動方法だ。オートギャラリーにはC-10型シルバーピジョンのほかに「C-35型シルバーピジョン」、「シルバーピジョン ゲール10」、「シルバーピジョンC-140」が展示されており、戦後の市民の足として2輪車が多用されていたこと、それを三菱が提供していたことがわかる。

あえてレストアを施さずに展示されているオート三輪トラックみずしまTM3C
あえてレストアを施さずに展示されているオート三輪トラックみずしまTM3C

2輪車とならんで戦後の市民の足を支えたのが、オート三輪だ。三菱も1946年にオート三輪の「みずしま」の生産を開始している。その大きな特徴は、フロントウィンドウと幌屋根を備えること。当たり前のように思える装備だが、2輪車をベースにして生まれた当時のオート三輪の多くは、屋根や風防を備えていなかったのだ。よく見るとフロントウィンドウには小型ながらワイパーも備わっている。ただし、内側のレバーで左右に動かす手動式だ。手動式といえば、当時は方向指示器も手動式だった。

撮影のため、方向指示器を動かしてもらうことができた
撮影のため、方向指示器を動かしてもらうことができた

なお、展示されている個体は群馬県の農家で発見され寄贈されたもので、痛みが少なかったことから、当時の空気を感じてもらうためにあえてレストアしないことにしたという。刻まれた歴史を感じることができる、貴重な車両だ。

スクーターだけではなく、アルミ合金で自転車も作っていた

2輪車のコーナーでひときわ異彩を放っていた1台がこちら。1947年に生産開始した自転車、十字号だ。こちらも初期のスクーター同様に、アルミ合金が多用されている。

アルミ合金を多用して作られた自転車、十字号
アルミ合金を多用して作られた自転車、十字号

自転車ブームの近年ではアルミフレームの自転車は珍しくもなくなったが、1947年からすでにあったのだと知ると感慨深いものがある。フレームデザインもなかなか斬新だ。また、航空機用の素材であったアルミ合金を多用しているだけではなく、リベット留めの工法などに当時の三菱が持っていた技術を見て取れる。

航空機と同様にリベット留めで製作されたフレームも間近に見ることができる
航空機と同様にリベット留めで製作されたフレームも間近に見ることができる

ジープのノックダウン生産を経て、本格的な乗用車づくりへ

2輪車、3輪車と市民の身近な足を提供するのと並行して、三菱は1946年からバスの生産も再開している。しかし、乗用車の生産はもう少しあとになってからだ。三菱重工業が分社化して生まれた中日本重工業が米ウィリス社とジープのノックダウン組立契約を結んだのが1951年、ノックダウン組立が本格化したのは1953年のこと。1952年に少数生産されたJ1型、J2型に次いでJ3型と呼ばれるモデルだ。社名も中日本重工業から新三菱重工へと変わっていた。

展示されているのは、民間需要に応えて開発された三菱・ジープCJ3B-J10型
展示されているのは、民間需要に応えて開発された三菱・ジープCJ3B-J10型

展示エリアに鎮座するジープは、1955年に製造されたいわゆるJ10型。民間需要に応えてJ3型ジープのフレームとボディを延長し、6人乗り仕様にしたものだ。ジープの組立てで乗用車生産技術を得た新三菱重工は、ついにオリジナルの小型乗用車である「三菱・500」の発売に至る。1960年のことだった。

1960年に発売された三菱・500
1960年に発売された三菱・500

21psを発生する500ccエンジンを搭載した三菱・500はレースにも参戦し、1962年の第9回マカオグランプリでは750cc以下クラスで1位から3位を独占した。レースで性能と信頼性の高さを証明した三菱・500の価格は39万円から。1960年の発売当時には破格の値段だったというが、いまいちピンとこないだろう。同年の大卒初任給が1万6千円だったので、月給約25ヶ月分に当たる。2016年の大卒初任給の平均が20万3千円だから、単純に25ヶ月分で換算すると約500万円にあたる。これでも破格と言われたのだから、当時の乗用車がいかに高嶺の花であったかわかるというものだ。

その後、三菱は1962年に「コルト600」を、1963年には「コルト1000」を発売している。そして1964年には高級車「デボネア」を発売。さらに1969年には「コルトギャラン」を発売して、近代自動車史へと続く道筋を歩み始めたのだった。

(重森大+ノオト)

[ガズー編集部]