日本初の「オフ会」は明治41年だった

クルマの楽しみとして、気の合う仲間とのドライブがあります。ネットではなく実際に会うのでオフ会とも呼べるもの。そんな仲間とのドライブツアーが日本で初めて行われたのは、明治41年(1908年)のことだといわれています。どんなドライブツアーで、どこに向かったのでしょうか。また、仲間とはどんな会話が繰り広げられたのかを紹介します。

「日本の交通安全祈願発祥の地」となる谷保(やぼ)天満宮

東京都国立市にある谷保(やぼ)天満宮。「谷保天満宮は東日本で最も古い天満宮であり、関東の三大天神のひとつとなります」と谷保天満宮の菊地茂さんは説明してくれました。そして、この谷保天満宮は「日本の交通安全祈願発祥の地」といわれています。その理由は、明治41年(1908年)に、日本初の自動車によるドライブツアーの目的地になったから。

「谷保天満宮は、甲州街道に面しており、江戸時代から参勤交代での休憩場所となっていました。また、甲州街道を下っていくと、この先は多摩川の渡し場になっており、クルマでは、ここから先に行けなかったのですね」と谷保天満宮の菊地さん。

遠乗り会で天満宮にやってきたのですから、参加者が帰路の無事を祈願するのは当然のこと。そのため、この地が「日本初の交通安全祈願発祥の地」と呼ばれることになったのです。

東京国立市、甲州街道沿いにある「谷保天満宮」。東日本エリアで最も古い天満宮。(写真:鈴木ケンイチ)
東京国立市、甲州街道沿いにある「谷保天満宮」。東日本エリアで最も古い天満宮。(写真:鈴木ケンイチ)

「自動車の宮」様と呼ばれた有栖川宮親王殿下が主催

では、日本初のドライブツアーとはどのようなものであったのでしょうか。発案者は皇族である有栖川宮威仁親王(ありすがわのみや たけひとしんのう)殿下です。殿下は、当時「自動車の宮様」と呼ばれるほどのクルマ好きで、英国ダラック社製の自動車を輸入し、あちこちにドライブを楽しんでいました。当時の新聞記事によると、日光や会津地方への遠乗りなど、あちこちをドライブしていたようです。面白いのは、自ら運転席でハンドルを握って付き人を客室に乗せたり、故障のときに自ら修理を行うこともあったようです。

そんな有栖川宮親王殿下の声がかかって遠乗り会、いわゆるドライブツアーが開催されたのが明治41年(1908年)8月1日。集まったのは11台。有栖川宮親王殿下の愛車、ダラック号を筆頭に、フィアット、フォード、メルセデスなどの車名が記録に残っています。また、ここに3台のタクリー号という日本製のクルマが参加していたことにも驚きです。自動車がダイムラーとベンツによって発明されたのが1886年、日本に初めてのガソリン・エンジンのクルマが上陸したのは明治31(1898年)といわれています。つまり、ガソリン自動車上陸後わずか10年で日本製の自動車が生産されていたのです。

運転席に座るのが有栖川宮親王殿下。クルマは英国ダラック社製。
運転席に座るのが有栖川宮親王殿下。クルマは英国ダラック社製。

日比谷をスタートして新宿を経て甲州街道を西に

スタート地点は、日比谷公園。そこに午前8時半に集合し、揃って有栖川宮邸に参邸。有栖川宮親王殿下はハンチング姿で自らハンドルを握って、真っ先に出発。新宿を経由して、甲州街道を西進します。当然、自動車なんて珍しい時代ですから、当時の人々は大騒ぎ。沿道には国旗を掲げた人がたくさん集まったとか。

最初の集合地点となった日比谷公園にも、たくさんの見物者が集まった。
最初の集合地点となった日比谷公園にも、たくさんの見物者が集まった。

そして甲州街道を下って、多摩川の渡しのある立川に到着したのが午前11時。そこで休憩した後に、1里(約3.9㎞)ほど引き返して、谷保天満宮へ。そして一同は、谷保天満宮にある梅林の木陰の中に設置された食卓でランチとなりました。

多摩川の河川敷からの土手(現在の立川付近)を上る自動車。
多摩川の河川敷からの土手(現在の立川付近)を上る自動車。

遠乗り会の開催日は、夏の盛りの8月1日。当時のクルマにはクーラーなんかありませんし、道路も舗装されていませんから、参加者はみな土埃や汗で大変なことになっていたでしょう。当時の新聞記事にも「一同付近を流れている清水で出発以来の汗とホコリをぬぐい、にわか作りの食卓についた」「食卓の設けられたのは一方は梅林に連なって日影の洩れぬ涼しいところ、特に殿下よりお弁当を賜り、ビールやサイダーは傍らの清水に投げ込んで冷こくなっているのも嬉しい」「風に揺れて食卓の上へ木の葉の落ちるなども却って趣が深い」などと紹介されています。

谷保天満宮の梅林の中に設置された食卓。手前の右側が有栖川宮親王殿下。
谷保天満宮の梅林の中に設置された食卓。手前の右側が有栖川宮親王殿下。

日本初となる自動車のオーナーズ・クラブも発足

また、このランチの後、参加者による演説が行われます。まず、陸軍の長岡少将からは「軍隊では将来、クルマを砲車にも輸送車にも使いたい」などと述べ殿下に対して万歳三唱、その後、クルマに対して万歳三唱をされました。続いて、第一生命保険を創業した実業家の矢野恒太氏が自動車倶楽部「オートモビル・クラブ・ジャパン」の設立を提案して、賛同を得ます。このクラブの誕生も、当然、日本初といえるものでしょう。さらに矢野氏による「馬車や人力車を自動車のような文明的なものに変えなければならない。しかし、現在の自動車は高すぎる。いかに安く作ることを研究するのが急務」との言葉には、一同拍手をもって賛同したというのです。

しかも、用意周到というか、「オートモビル・クラブ・ジャパン」の頭文字だけ青く抜いた旗が用意されており、帰り道は参加したクルマにクラブの旗がはためいていたとか。午後2時に谷保天満宮を出発した一同は、有栖川宮邸に到着後、殿下より氷水などのお振舞を受けた後、午後4時半に解散になったそうです。この日のイベントの記事が複数の新聞にあるように、当時としては、非常に珍しく大変注目されるものだったのでしょう。

8月開催の第1回の遠乗り会は大成功。そのため、各方面より第2回目開催の催促が殺到したそうです。約3か月後となる11月6日に、今度は大宮方面への遠乗り会が開催されました。そして、集まったのは19台。当時の新聞には「東京の自動車ほとんど全部を網羅する」との記載があります。当時のクルマは、それほどに少なかったことが分かります。参加した車両は、東京自動車製造所(タクリー号)、フィアット号、フォード号、パッカード号などの名前が連なっていました。

日本初の遠乗り会、いまでいうドライブツアー、もしくはオフ会が開催された明治41年(1908年)。タクリー号という日本初のガソリン車はありましたが、その後、日本に自動車メーカーが本格的に誕生するのは昭和になってから。日本の自動車産業は黎明期というよりも、まだまだ夜明け前といった状況だったのです。しかし、そんな状況でも、クルマのポテンシャルを見抜き、普及を望んだ人たちがいました。そんな人たちがいたからこそ、今の自動車王国ニッポンがあるのではないでしょうか。

<関連リンク>
谷保天満宮
http://www.yabotenmangu.or.jp/
オートモビル・クラブ・ジャパン
https://acj1908.com/

(取材・文・写真:鈴木ケンイチ 資料・写真提供:谷保天満宮・村井達哉 編集:奥村みよ+ノオト)

[ガズー編集部]

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