あの頃に思いを馳せる vol.2 ~F3時代 中嶋一貴選手~

わたしにとっては、10年、15年前はつい先日の話(笑)。まだ小学生でしたとか、そんなお話が聞こえてきそうですが、時間のある今、簡単に中嶋一貴選手の2005年くらいの時代を少し振り返ります。

2005年、トムスのF3ドライバー 左から中嶋一貴選手、JP・デ・オリベイラ選手、池田大祐選手
2005年、トムスのF3ドライバー 左から中嶋一貴選手、JP・デ・オリベイラ選手、池田大祐選手

2005年 全日本F3選手権(以下、F3)、現在、世界をまたに駆け大活躍中の中嶋一貴選手がF3の2年目のシーズンでした。チームメイトは、JP・デ・オリベイラ選手と池田大祐選手。オリベイラ選手は、とてもアグレッシブなドライバーというか強敵!池田選手も含め、シーズン中の3人が切磋琢磨し常にバチバチでした。

2004年のトムス、F3ドライバー 左から、番場琢選手、中嶋一貴選手、山本左近選手
2004年のトムス、F3ドライバー 左から、番場琢選手、中嶋一貴選手、山本左近選手

中嶋選手は、前年の2004年にフォーミュラトヨタからステップアップしF3へ。開幕戦で2連勝(1ラウンドで2レース開催)という衝撃的なデビューを果たしました。次の筑波サーキットで開催されたレースには、レースをこの目で見たくて現場に伺いました。普通に仕事でしたけどね。そこで中嶋選手、初見。あの2004年は、リチャード・アンティヌッチ、番場琢、山本左近の3選手がチームメイトで、トムスF3は4台体制でにぎやかでしたね。

中嶋選手は、今とかわらないですがとてもかわいらしい笑顔でね(笑)。お父様は言わずと知れた元F1ドライバーの中嶋悟さん。ご両親が確か筑波まで駆けつけていたはずです。コースサイドでご両親が観戦していたと、当時現場で伺いました。

中嶋選手は、2004年の開幕戦以降、なかなか勝てず、シーズン中、苦労しランキング5位で2年目へ突入でした。ちなみに、2004年は、シーズン8勝を上げた現在にニスモに所属するロニー・クインタレッリ選手がタイトルを獲得しました。

2005年は、チームの仕事で現場におりましたがスポーツランド菅生にうかがったときのすがすがしい空気がなぜか頭から離れません。そこへヨーロッパから日本に一時帰国?していた小林可夢偉選手がいらしてました。フォーミュラトヨタは見たことがなかったので、そのまま欧州へ修行に出た小林選手をこのコか~とお顔を拝見したのを記憶しています。坊主頭だったのは何か理由があったような…。

トムス山田淳エンジニアと…鈴鹿にて
トムス山田淳エンジニアと…鈴鹿にて

関谷正徳校長の下、トヨタ自動車の育成プログラムに選ばれたドライバーたちは、チャンスをものにするため、あちこちで頑張っていました。当時は、トヨタ自動車がF1に参戦していたので、ドライバー育成のゴールは、F1。F3のシーズンをだいたい2シーズン過ごすと、当時はまだ景気も良かったので戦績によっては海外へ出るチャンスもありました。レースだけではなく、英語の勉強も必須。話せないとヨーロッパには行かせてもらえなかったので、御殿場の英会話学校にみなさん通っていました。

レース村の御殿場には、育成ドライバーのみならず、たくさんの関係者がいて、知らない裏話などを耳にしては、ますます興味深くレースを眺め、いろいろ考えるようになりました。
ん?伝えられること、表に出して良いことは伝えた方がファンは喜ぶのではないかと。その頃からね。

当時、中嶋選手を担当していたエンジニアは、トムス山田健二さん。残念ながら、2018年に急逝されたのですが、彼がF3で日本人ドライバーを育成していました。日本に来てすぐに勝てるような実力のある外国人ドライバーをトムスはスカウトするのも上手でしたので、そちらの育成は、山田淳エンジニアが担当しすべてをまとめていました。

速いクルマづくりもチームは得意ですから、シリーズをけん引していました。毎年チーム内での争いも熾烈で、そのチームのバチバチは、それはそれはとても興味深くおもしろかったです。

写真真ん中が、武藤英紀選手
写真真ん中が、武藤英紀選手

外を見渡すと中嶋一貴選手のライバルには、ホンダの武藤英紀選手が対角にいました。彼は2006年にそのまま国内トップカテゴリーにステップアップし、2007年にアメリカへと活動の場を移します。

メーカーの育成ドライバーの指標的なポジションでしたね。中嶋選手は、F3でチームメイトのオリベイラ選手の後塵を拝するカタチでシーズンを終え、タイトル獲得ならずのランキング2位で2005年を締めくくりました。

スーツは、ドラマと同じです。ヘルメットはご自身のもの
スーツは、ドラマと同じです。ヘルメットはご自身のもの

同年、フジテレビの月9ドラマ「エンジン」がスタートしました。レーシングドライバーの主役は、あの木村拓哉さんで、その影武者を中嶋選手が務めました。赤いレーシングスーツは、トムスと同じ。黒いヘルメットに亀のマークがドラマ仕様でした。ドラマでは、チームやチームのピットなどが出てくると備品が同じでワクワクでしたね。チームのロゴもそのままでしたしね。富士スピードウェイを舞台に、エキストラとしてF3の関係者が多数出演したりで、毎週テレビを見るのが本当に楽しかったです。F1じゃなくF3っていうのを走ってる…というようなセリフがあって、苦笑いしたのを記憶しています。そうなんだよね、F3ってなかなかわかってもらいえないよねって。

中嶋選手が所属していたトムスは、2006年からフォーミュラ・ニッポン(現・スーパーフォーミュラ)に参戦したので、一年遅くドラマの話があれば、もっと迫力あるカテゴリーだったのなぁと当時思いました(ごめんなさい)。書いているうちに、いろいろ思い出しましたよ…。

スポーツランド菅生にて
スポーツランド菅生にて

中嶋選手は、SUPER GTにも参戦しています。 GT300クラスの31号車吉兆宝山 MR-Sで、aprというチームから、大ベテランの田中実選手とコンビを組み、第4戦菅生で優勝をしています。
現地におりましたが、表彰台で田中選手ととてもはしゃいでいたのを覚えていますね。あの頃から、シャンパンを振るのは得意だったかな?写真を撮りにピットに行ったのですが、デジカメかスマホの写真だったかもしれませんが、上記の写真を見るとホントあどけない(笑)。昔から変わらないと思っていましたが、時はしっかり流れていますね。

当時のTDPの育成ドライバーは、クルマに乗るチャンスをたくさん与えてもらっていたので、スポットでスーパー耐久に参戦したり、そこでも中嶋選手は優勝していましたが、イベントにも出演したり、当時から若手のドライバーもとても忙しくしていました。

2006年、中嶋選手は、ユーロF3シリーズに参戦するため、いよいよ海外に活動の場を移します。小林可夢偉選手、平手晃平選手、三羽ガラス?とちょっと古い言い回しですが、欧州で3人が戦うことになりました。Manor Motosportというチームに所属したのですが、シーズンの終わりに開催されるF3の世界戦にManor Motosportからマカオグランプリに参戦、トムスも日本から参戦するのでそれも見に行きましたね。んー、写真がなくて残念。

マカオで会うみなさんは若かったけど、たくましくなっててね、予選レースで小林可夢偉選手が優勝、平手選手が3位を獲得するなど、海外勢として参戦した彼ら育成ドライバーが誇らしかったです。英語も上手だったしね。中嶋選手の決勝はリタイアだったかな。たしか、F1デビューの決まっていたセバスチャン・ベッテル選手もいました。懐しいなマカオ。

中嶋選手は、2007年にはGP2にステップアップ、2007年のF1最終戦でウイリアムズからスポット参戦、とうとうF1デビュー。アレックス・ブルツ選手とスイッチし翌年レギュラードライバーのシートを獲得となりました。

その後は、リーマンショックなどもあり、2011年に国内に戻って来るのですが、良いときにF1を走れていたのかもしれません。リーマンショックよりも、今回の新型コロナウィルスの被害の方が甚大で、この先のモータースポーツの将来も見えてきません。危機であるのは確かです。活動の行方は見えませんが、モータースポーツの火が絶えないことを祈るばかりです。

では、また!

(写真 トヨタ自動車 大谷幸子、テキスト 大谷幸子)

[ガズー編集部]

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