織戸学 ドライバーズコラム 第1回 プロドライバーとしての半生(前編)

みなさま、こんにちは!初めましてのほうが良いかな?
レーシングドライバーの織戸学(おりどまなぶ)です。通称、MAX織戸です。
しばらくの間、コラムを書くことになりました、よろしくお願い致しますね!

僕のことを知っている人も知らない人もいると思いますので、簡単に?レーシングの自己紹介を致します。

1968年12月3日生まれ A型の申年、千葉県は船橋市出身。
幼少時から、自転車で走り回る走り屋です。

実家は農家で、6歳上の兄がおり、幼少からバイクは乗り回しておりました、庭や裏庭で(笑)。
小学校2年の文集の将来の夢は?レーサーの“英雄”になりたいと書くほど、小さな頃からレーサーに憧れをもつ少年でした。その頃の好きな人は、野球選手の長嶋茂雄さんと日本一速い男の星野一義さん。スポーツは、野球をやっておりました。

中学生になり、いろんな著名人の伝記を読み、その中でも環境が星野さんに似ているものがあり、中学生の頃に家出をしたと書いてありましたので、僕も真似して自転車漕いで筑波サーキットまで家出をしました(笑)。しかも何回も!家出と言ってもプチですが…。

当時マッチさんと星野さんはレースでタッグを組み、「レースド日本」というレースをしていました。マッチさんは、当時から僕の憧れで、あまりにも格好よくて…。筑波サーキットで一度レースを観戦した時から、星野さんは、筑波にいったら毎日いると思っていました、バカです(笑)。

そんなことを繰り返し、高校生になり、夢は変わらずも、現実が見えてきて、高校卒業後は自動車整備の学校に進学しました。そこで整備の勉強、免許を取得しました。将来、自分の工場を持ち自分でマシンを製作してレースに参戦してみようと考えておりました。運命とはわからないものです。

学生時代は、バイクにハマっておりましたが、学校で見た土屋圭市さんのドリフトに目ん玉飛び出て、そこからはコレだ~!って思って、一生懸命に車の運転を練習しました。ただ、練習はジムカーナです。

まずは、基本!基本!と、近道はせずに遠回りのクルマの運転人生がスタートです。そんな甲斐もあり、20歳で初代ドリコンチャンピオンという、勲章を手にしました。そこで、当時審査員長をやられていたのが、現在GTA(SUPER GTを運営するGTアソシエーション)会長の坂東正明氏です。

その頃の僕は、千葉トヨペットに就職し半年で辞めて、ジムカーナショップ、バイク屋さんと転々としており、最後に就職したのが、近所でお世話になっていた自動車整備工場でした。ここで30歳まで修行し独立したいと考えていました。しかし、チャンピオンになったご褒美に主催者より100万円の中古車がもらえるということで、そこでAE86をもらい自らレーシングカーを作ろうと考え始めたのです。そこで坂東さん(前述)に連絡をとり、「レースをやりたいのでやり方を勉強したい」とお願いし、後日、坂東商会へ行きました。

これも実は大変で、アポをとって行くのですが、行っても居ないんです(笑)。千葉から坂東商会のある町田までですから、それなりに遠い。こんなことを5回ほど繰り返し、最後はこっちもムキになり絶対に会ってやる!って…。そしたら、初めて会った時に、「お前を試していたんだ」と坂東さんから…(苦笑)。

そこでいろいろ話をして、当時そんな気持ちはなかったのですが、坂東商会で働くことになりました。周囲から見たらシンデレラボーイに見えたかもしれませんが大変でしたよ。本当に一生懸命に働きました。レースをやるのはこんなにも苦労をしなくていけないんだな~って、毎日身をもって実感していましたから。悔しくて悲しくて泣いた夜も…(笑)

しかしその反面、レーシングカーは最高のマシンを用意して頂き、富士フレッシュマンに1991年デビュー。僕が21歳のころです。しかも、最も上のカテゴリーのNA1600という4AGフルチューニングエンジンにスリックタイヤです。

正直、1年目は何もわからず、周りからは怒られてドリフト禁止でした(笑)
2年目にはチャンピオンを獲得しましたが、レースの難しさや駆け引き、やって良いこと悪いことを、身をもって経験。大人への階段を登り始めました。

当時、坂東商会では、打倒ワークスチームを合言葉にグループAというカテゴリーにカローラAE92で参戦。このカテゴリーや車両は、そこから流行るであろう、鬼キャンの発信だったのか?グループA車両がすべて鬼キャンバーでした(笑)。

3年目の93年は、鈴鹿フレッシュマンに挑戦させて頂き、クラスはグループAの車両に大きなキャブを取り付け、N2カテゴリー。4AGで1600CCの4AGで250PSくらい出ていたと思います。まわりは、キンキンのAE86N2車両。

そしてドライバーも見た目の怖そうなキンキンの人たちが多かったですね。僕もパンチパーマにチョビ髭で参戦させてもらいました(笑)

このカテゴリーでは、レースは「押しの強さ」と「普段からの人間力の強さ」が必要なんだと実感させられました(笑)。今でも良い経験をさせてもらったな~と感謝しております。

94年からは、新たに始まったシルビアのN2レース。スーパーシルビアレースです。各レースに参戦させて頂きチャンピオンも多く取りました。

96年くらいからは当時のプロドライバーへの登竜門と言われたミラージュインターナショナルシリーズに参戦しました。参加台数も多く、参戦ドライバーは今の86N-ZEROのような豪華なメンバーです。ここでは、参戦1年目にシリーズ2位になりました。

参戦2年目にチャンピオンと、数々の結果が出始めたのも、多くの仕事や環境が僕を強くしてくれていたのでしょう。この頃でも、自分がプロドライバーになれるとは思っていませんでしたが、徐々に意識し始めたのも事実。プロドライバーになってみたいな~…と現実と夢の狭間にいた頃でしょう。

続く…。

MAX織戸

[ガズー編集部]