ダカールラリー 取材同行の旅No.3

2009年から南米大陸へ舞台を移したダカールラリー。今回で38回目を迎え、クロスカントリーラリーの頂点として世界中から挑戦者がやってくるモータースポ-ツだ。はじまりは1978年12月26日にフランス・パリのトロカデロ広場をスタートした182台のクルマ、バイク、トラックがサハラ砂漠に挑み、セネガルの首都、ダカールに74台がゴールしたところから。通称「パリダカ」で親しまれたラリーは、現在どのようなモータースポーツなのか。

日本における「パリダカ」のルーツとは

その前にまず日本でパリダカールラリーがどのようにして知られるようになったか。1970年代後半、ヨーロッパからアフリカへ渡るラリーが自動車専門誌、「カーグラフィック」で紹介された。テレビでは、TBSの朝の情報番組「おはよう720」でカローラとクラウンの2台のトヨタ車が旅をしながら世界の今を伝える海外レポートのコーナー「キャラバンⅡ」が子供から大人まで大人気となった。第1弾はポルトガル・リスボンから東京まで72,000km、14ヶ月の旅。第2弾はアラスカから南北アメリカ大陸縦断の86,000km、14ヶ月の旅をカローラとクラウンで。そして第3弾はトヨタ・マークⅡとトヨタ・ハイエース(途中でトヨタ・セリカとトヨタ・タウンエースにバトンタッチ)でアフリカ大陸をスタートし、サハラ砂漠を縦断。その後欧州、中東、南アジア、オーストラリア大陸を縦断し日本へゴールする130,000kmの旅。また日本テレビでは海外取材番組「楽しい世界の旅」が始まり、テレビクルーがクルマで旅をしながら撮影する番組が大人気だった。これらテレビ番組の運行管理やドライバーをしていたのが、現在、自動車環境評論家としてプリウスで世界中を旅し、日本でもPHVプリウス、MIRAIで走り、エココンシャスなヒト、コト、モノを紹介し、未来のモビリティについて提言する横田紀一郎さんだ。
1979年から1980年にかけ「キャラバンⅡ」第4弾はヨーロッパ大陸を走っていた。12月にパリに入ったところで、第2回パリダカールラリーのスタートに遭遇し、日本で初めてパリダカールラリーを日本に伝えた。また同時期に「楽しい世界の旅」取材班は、アフリカ大陸を走っていて、アルジェリアでこちらも偶然、パリダカールラリーに参戦していた冒険者たちと遭遇した。このふたつの偶然の出会いから、もともとサハラ砂漠でレースを企画したいと思っていた横田さんは、長年サハラ砂漠をはじめ世界中をクルマで走ってきた仲間たちとともにTeamACPを立ち上げ、第3回パリダカールラリーに日本人チームとして初参戦した。その初参戦したクルマは、なんとトヨタ・スターレット(KP61)とトヨタ・ランドクルーザー60(FJ60)だった。

日本人として初めてパリダカールラリーに参戦したTeamACP(右から久保田勝さん(車内)、根本純さん、大柿裕さん、横田紀一郎さん、伊藤英明さん)
トヨタ・ランドクルーザー60は競技に参加しながらトヨタ・スターレットを撮影、フォローした

小さな国の小さなクルマが起こした奇跡

1981年1月1日、フランス・パリのトロカデロ広場のスタートポディウムに、日本人チームとして初めて立った横田紀一郎さん率いるTeamACP。スターレットもランドクルーザー60も市販車無改造クラスにエントリー。特にスターレットの挑戦にヨーロッパのメディアは驚き、「小さな国の小さな男たちが小さなクルマでやってきました」と紹介。すぐリタイヤするだろうと思われていたが、170台が出場したオート部門は60台のみが完走。スターレットは見事完走し、市販車無改造クラス唯一の完走ということでヨーロッパのメディアは大々的にその栄誉を報じた。ヨーロッパの自動車文化に対し、日本車の耐久性の高さを日本人が証明した快挙。これも世界中を走ってきたTeamACPメンバーの経験と執念が、スターレットを完走に導いた。主催者は敬意を払い、翌年のスタートにTeamACPを最初に紹介するという最高の待遇をするほどだった。

サハラ砂漠の難所。この砂丘の登りを2WDで登ることは至難の業。スタックしてはサンドラダーを使って、少しずつ前進していく
アルジェリアの大砂丘群、グラン・デルタ・オキシデンタルをまるでサーフィンをするかのように走るトヨタ・スターレット

創成期のころのパリダカのナビゲーション

この頃は、フランスのパリをスタートし、地中海を渡りアフリカ大陸へ。サハラ砂漠を越えセネガルの首都、ダカールにゴールすることから、パリダカールラリーと呼ばれていた。ほぼ1月1日にスタートし、期間は約3週間、距離は7,000km~12,000km。GPSの民間利用などできない時代だったから、ナビゲーションは、ルートブック、コンパス(方位磁石)、距離計、地図でルートを見つけながら走った。天体との位置関係から自分の位置を割り出すために六分儀を使う選手もいた。陸を走るというより外洋を船で航海するような感覚だ。だから選手の砂漠や自然に関する経験値がとても重要であった。
またこの頃のルートは、単に砂漠を縦横無尽に走るのではなく、その昔、村と村を結ぶ道が砂漠化で埋もれ、なくなってしまったところをルートにし、たくさんの競技車で走ることで道を復元する意義を持っていた。その年のパリダカールラリーが終わると、翌年に発行されるミシュランマップには、そのルートが道として表記されるようになった。

現在のダカールラリーとは

基本的には、スタート地点からルートブックを見ながら、競技区間(SS)と移動区間(リエゾン)を走り、途中指定されたチェックポイントを通過して指定されたゴール地点に向かうことは昔も今も同じ。簡単に言えば、東京タワー下から1台ずつスタートし、首都高、中央高速を河口湖ICで降りて、樹海付近からSSがスタートし、樹海のなかを走り、富士山を越えて、途中、富士山五合目にチェックポイント(CP)があってそこでスタンプを押してもらい、東名高速御殿場ICがSSのゴール。そこから東名高速がリエゾンで大阪の通天閣下がその日のビバークがあるゴールといった具合だ。主催者から前日に配布されるルートブックを読み込むことが、ルートをしっかり見つけることと、ルートに潜む危険を事前に確認する上でとても重要だ。
まずルートブックだがいくつか例をあげよう。

そしてコ・ドライバーの仕事場を紹介しよう。基本的には、距離計、GPS(それぞれ2機装備する選手も多い)が装備される。距離計は2段式が一般的で、SSスタート時からトータル距離を出しておく段と、区間ごとにリセットして区間を計測する段に使い分ける。リセットボタンは足元にスイッチを装備したり、手でスイッチを持つタイプなど、コ・ドライバーの好みでスイッチをつける。また先行車に追いついたことを知らせるサンチネル(このスイッチを押すと、先行車の車内にフラッシュライトとビープ音が鳴り知らせる)のスイッチがあったり、ドライバーの代わりにホーンを鳴らすボタンがあったりと、やることも多い。

上段の電卓のように白いボタンに数字が書いてある装置が距離計。その下がGPS。GPSとロールバーの間にあるLEDがちりばめられたライトは、後続の接近を知らせるサンチネルのフラッシュライト

アフリカ大陸がステージであった時代は、大砂丘を登れない場合、迂回したり選手が独自のルートを見つけて走ることもできたり、意図的にミスコースさせるようなロードブックもあったが、南米大陸はSSに近いところに国道や住宅があったりするため、ルート上に必ず通過しなければならないウェイポイントが多くあり、ロードブック通りに通らなければならない。それだけにミスコースはしにくいが、ウェイポイントが走りにくい場所にあったり、先行車が掻きむしった凸凹の多い走りにくいルートを行かなければならないなど、違った難しさがある。マシンにかかる負担、衝撃も大きくなった。また1本道が多く、先行車の巻き上げる砂煙で視界が悪く抜きにくい。アフリカ大陸時代のパリダカとは、まったく違った難しさがあるのが、今のダカールラリーだ。

(写真:Team ACP)
(テキスト/写真:寺田昌弘)

[ガズー編集部]

MORIZO on the Road