脇阪寿一 ドライバーズコラム 第1回 人生の分かれ道「スズキの営業マン」時代

脇阪寿一、GAZOOコラムに登場です。よろしくお願いします。

今回は、僕の人生の分かれ道。スズキ自動車の営業マンをしていた頃のお話です。懐かしい思い出です。当時、クルマ業界の良い事、悪い事、色々なことを勉強しましたね(笑)。陸運局に通いつめ、おばちゃんに色々な便宜を図ってもらったとかは言えません(笑)。

僕がスズキの販売店に就職したのは、ワゴンRが発売されるちょっと前の頃。
それまでは、アルトやセルボモードが主力商品で、尖った顧客層から支持されたジムニーやカプチーノ、個人事業主から圧倒的な人気のエブリイ、軽商用車のキャリイ、リッタークラスのカルタス、そして当時のRVブームに乗っかったエスクード、エスクード・ノマドを販売していた時代の営業マン。本当はまだあるよ、ハッスルとか…。でも、誰も知らんやろ!?(笑)。

当時の時代背景は、トヨタでもハイラックス・サーフが若者から支持され、上級車種のランドクルーザー80やランドクルーザープラドが売れていた頃ですね。
我々の仲間たちもそんなクルマに乗って、休みの日には海へ行ったり、スキーに行ったりしていた時代。

(トヨタ ハイラックス・サーフ 1989年01月~1995年01月)

↑この後、オーバーフェンダー付きのハイラックス・サーフが登場し、バカ売れ!

(トヨタ ランドクルーザー 1989年01月~1998年01月)
(トヨタ ランドクルーザー プラド 1990年01月~1996年01月)

その後、あの爆発商品ワゴンRの登場があるのです。
僕の販売店は奈良でも街中にあり、当時のダイハツとスズキのシェア争いの舞台は、ほぼ田舎の軽トラ、軽バンの軽商用車販売がそれを左右していましたが、我々の戦場は乗用車種争いで、売れ筋車種もアルトから、よりお洒落な方向にシフトしたセルボモードへ、そして新鮮な形、機能性、広い室内空間を持つワゴンRへと移行していきました。

懐かしいです。
その頃の各車種の印象は……

(スズキ アルト 1991年01月~1994年01月)

アルト――― ちょっと売りづらかったかな。アルトを買っていた方は大体がセルボモードに移行しましたから。それでも、俺んところは昔からアルトだ!って方には売れました。後は4ナンバー、貨物登録のアルトは税金も安く、社用車としての人気はありました。

アルトワークス――― 軽自動車にターボを積んだ化け物。なんせ速かった。その加速たるや!軽自動車ですから小さくコンパクト、パワーウエイトレシオとでも良いましょうか!?取り回しもよく、営業車に一台ありましたけど、朝から営業マンでこのクルマを取り合いです。ツートンカラーもこのクルマの特徴でした。
ただ、当時の軽自動車にしたら少し高かったですね。

(スズキ セルボ・モード 1990年1月~1998年1月)

セルボ・モード――― お洒落な常用軽自動車。スズキの販売戦略は定期的に特別仕様車を出す事。セルボモード何とかEditionが売れた印象。売れ筋カラーは緑のメタリック、OVPとか言う色だったと思う。紺色とかも人気なんですが、ソリッドカラーで傷が目立ちやすく、僕的にはあまり薦めてなかったのを覚えています。

(スズキ ジムニー 1981年01月~1998年01月)

ジムニー――― このクルマは難しかった。何が難しいって、このクルマを買いに来る方はだいたいこのクルマの事をよく知っているの。営業マン泣かせというか・・・。
2サイクルのジムニーを所有されてる方が、そろそろ…って来られてました。エスクードもそうですが、ヘリーハンセンとのコラボレーションモデルとかが売れましたね。

(スズキ カプチーノ 1991年01月~1998年01月)

カプチーノ――― スズキ軽自動車のオープンスポーツカー。僕はこのクルマを1台しか売ったことがありません。このクルマも速かった!売ったのはシルバー。
未だに覚えています。

エブリイ――― 何やかんやオプションつけたら値段がどんどん上がっていくんですよね。最後の値段交渉の時に、オプションをたくさんつけられる方々が多いから、これをサービスしてとか色々言われて苦労した思い出が…。
圧倒的に紺メタリックが売れました。

キャリイ――― 全国的にはスズキの登録台数を伸ばした車種。軽トラです。ですが、前に記した通り僕の戦場は街中で…。数台売っただけだったと思います。

(スズキ カルタス こちらは、1988年01月~2000年01月)

カルタス――― これもなかなか難しかった。値段的には軽より少し高くて(同じような値段もありましたが)、それでも室内空間は広いから良いのですが、問題は車庫証明。当時の奈良は、軽自動車は車庫証明を提出する必要がなく登録できましたから、車庫証明が必要になる普通乗用車は、しかもこのリッタークラスは税金も軽自動車よりかさむし…。うん、苦労した。

(スズキ-エスクード- こちらは、2000年式)

エスクード――― これは普通乗用車ですけど比較的売れました。トヨタのハイラックスサーフよりコンパクトで安い。あと強烈に覚えているのが、お客様からの要望で車検に対応したローダウン車を製作したこと。もう覚えてませんけど、仲間たちと協力して勉強、何やったかな!?強度計算書とか、色々つけて陸運局に登録に行くのですが、ものすごく時間を費やしたし、ディーラーでありながらこんな事をしたのは、我々以外で当時はなかったとおもいます。新車を1台売った粗利より、この時の作業工賃や登録代行料の方が多かったと思います。作業に費やした時間を考えたら、それでも所長から怒られましたね。

(スズキ ワゴンR 1993年01月~1998年01月)

ワゴンR――― 売れに売れました。納車待ちが当たり前。すぐ納車できるなら今すぐ買うよ!ってお客様も多数おられましたね。あとは、ダイハツのムーブとの競合。面白いのはね、ムーブを成約に行かれるお客様が最後にスズキの販売店に寄られて…。その逆もあるねんけど…。買うのはこのクルマで間違いない!!って競合車を確認に来られるの。そのお客様、成約に向かわれるわけやから、認印も登録に必要な住民票も、さらには手付金まで持参されてる訳。

ムーブを買いに行くお客様を、ダイハツには行かせずどうやってワゴンRを買ってもらうか!これはほんまに気合い入れて営業しましたわ。週末は営業に行かず、ショールームでこういった即決のお客様を狙ったもんです。ダイハツとのシェア争いもこのようなお客様は効くのよ!そら、ダイハツ買う予定のお客様がダイハツ買わずにスズキを買う訳やからね。ワゴンRは他の車種とは違った手法でクルマを売る必要がありましたね。

ハッスル――― 一台も売った事無い!! 心残り。成約間際まで行った。でもなぜか!?ホンダシビックに取られました。なんで!?そこと競合!?未だに謎!

このような時代背景、クルマと接しながら過ごした僕の若かりし時代。

「営業成績で負けたくない」「レース活動」「仲間たちと遊びたい」この3つに追われながら寝る時間を削るしか全てが成り立たなく、今から考えたら“遊び”を減らせば良いのにね。色々な方々の指導を頂きながらも、それができなかったのも若さゆえ、この時代はお金もなく、時間もなく、それでも内容が濃く素晴らしい“時”を過ごせたと今は思っています。

僕の営業スタイルは、もちろん即決も狙いますがお客様がお客様を連れて来ていただく営業スタイル。ですから、クルマが売れても、売れなくても、お客様の家や勤務先に顔を出しました。その際の些細な会話や頼まれごと、また時折突きつけられる無理を聞くことによって、「俺の、私の、信用できる、無理を聞いてくれる営業マン!」って自慢しながら人を紹介くださるのです。時には他のクルマを買おうとしている方にスズキを薦めてそれを買わせる方まで現れたぐらい(笑)。

本当にお客様に恵まれましたね。そのお客様に対しては色々やりました。軽自動車でありながら、今は当たり前ですが、希望ナンバーを取ってきたり、下取り車の価格が合わない時は、会社的にはNGでも直接買い手を見つけたり…、もういっぱい。

僕がプライベートで乗るクルマがないと、下取りで値段がつかないようなクルマを頂けるんです。「自分で保険だけ入って、検査満了日まで乗っていて良いよ!」って。これがありがたいの! 手足として気にせず乗れるし、古いクルマでしょ、だからマニュアルなの。カートに乗ってる時代はこのマニュアル車が良い練習になってね。

さっき書いた「仲間たちと遊びたい」って、働いてるのが奈良で、仲間たちは大阪なのね。仕事が終わってから少しでもたくさん友達と遊びたいから、法定速度内で、もう一度言うね!法定速度内で急いで奈良から阪奈道路を下って大阪に行くの。十分とは言えませんが遊んで帰る時は、少しでも睡眠時間が欲しいから、これもまた法定速度内で急いで帰るの。

ルートが阪奈道路でしょ、わかる人はわかりますよね!?そのうち「ボロい軽自動車に乗ったやつが法定速度内で阪奈道路を!」って噂になり、ロールバー付きのシビックやらに追いかけられて…(笑)。これもまた良い経験でしたね。 メンタル強くなりました!

そのうち…
全日本カートから全日本F3選手権へステップアップ。これが1995年、その年はF3と全日本カート選手権とスケジュールが重ならなかったら、両方エントリーしましたので、違う意味で時間がなくなり…。

問題発生です。

お客様から販売店に苦情が増えました。「脇阪が最近顔を出さない!!」って。別に他のお客さんのところに行って、そのお客様をないがしろにしてたわけではないのですが、レース活動もある程度はわかってもらっていたのですが…。

そんなのお客様には関係ないですよね。お客様のケアをできなくなったのは僕の責任。レース活動とスズキの営業マンの両立が難しくなり、レースで十分な収入があるわけではないですが、この頃、レース活動に集中する決心をしました。僕のお客様、今更ですがすいませんでした。

そこからは松本恵二さんと出会い、真の意味で僕のレース活動がスタートすることになるのですが、師匠には、何を言われようが、なんと言われようが、それが全て正しく、それについて行こうと思わせていただけたこの出会いに今でも心の底から感謝しています。

この道が正しかったのか!?
間違っていたのか!?(笑)
どう思う!?

でも、スズキ自動車で働いていた僕がレースの道に進み、嬉かった出来事が2つ。一つは、当時のショールームにはスズキのモータースポーツ活動で、モンスター田嶋さんが出場していたハイクスピークヒルクライム、カルタスの映像が当たり前に流れ、意識せずにも田嶋さんのお名前、お顔が頭に入り…。そのモンスター田嶋さんにイベントやJAFの表彰式でお会いできること。当時は、テレビの中の方でしたから。

あと一つ、最も大きな喜びはこちら
http://www.js-style.com/blog/2014/05/post_2004.html

ざ~って書きましたけど…。長く読んでいただいた皆様に感謝です。僕が奈良で営業マンを続けていくか、レースの世界に入っていくか!?その分かれ道、そんな時代の思い出です。

その後、色々な方々に出会い、ご指導いただき、続けてきた僕のレース人生。
目標を持ち、人の出会いに感謝し、ブレずに生きていくと苦労もありますが、良いこともたくさんあると思っています。若かりし頃の経験や出会い、その全てを糧にこれからも生きていこうと思っています。

皆さんもそうですよね!?

次回のコラムは、何を書きますかね!?

せっかくお誘いいただいたGAZOOのコラム、普段の僕のブログやTwitter、Facebookとは違った内容にしたいですよね。何かリクエストありますか!?

次回もお楽しみに! 今後ともよろしくお願いします。

[ガズー編集部]

MORIZO on the Road