自動車の未来のために歴史を知ってほしい   ―― 徳大寺有恒 ――

日本車が歩み始めた1955年

私が運転免許を取得したのは、1955年のことだった。この年、トヨタから初代クラウンが発売されている。日本の自動車史にとって、クラウンは大きな意味を持っている。
初めての純国産高級車であり、このクルマによってヨチヨチ歩きだった自動車工業がようやくしっかりとした歩みを始めたのだ。

クラウンは代を重ねて現在も造り続けられており、昨年14代目となった。初代からそろそろ60年になるが、今でもクラウンは日本を代表する高級車だ。その足跡をたどれば、日本の自動車史が俯瞰(ふかん)できると思う。日本の自動車産業は戦争で壊滅的な打撃を受けた。復興しても、欧米のクルマははるか彼方(かなた)に仰ぎ見る存在だった。
トヨタは2008年に初めて世界自動車販売台数で1位を獲得するが、当時そんなことを想像した人は誰一人としていなかった。

敗戦の年、私は国民学校1年生だった。セミ取りばかりしていた少年が、進駐軍の乗ってきたジープを見てカッコいいなあと思った。祖母の住んでいた横浜に行くと、軍人の家にビュイックやオールズモビル、スチュードベーカーといったクルマが並んでいた。特に私が気に入ったのが、パッカードである。これが世界一のクルマだと信じて疑わなかった。

その頃は自動車雑誌などなかったし、ましてや今のようにインターネットで簡単に調べ物ができるはずもない。かっこいいクルマを見つけても、それが何なのかわからないことも多かった。学校の勉強なぞはてんで好きではなかったが、クルマのことは一生懸命に学んだものだ。好きなクルマのことは、その来歴やメカニズムなどすべてを知りたくなってくる。知識が増えていくにつれ、自動車の好みも変わってくる。キャデラックの華麗さに憧れ、ロールス・ロイスの偉大さに驚嘆した。スポーティーなMGやエレガントなジャガーにほれ込んだ。

先人たちの経験に学ぶ

私は戦後の日本自動車産業の発展を、同時代人としてつぶさに見ることができた。クラウン誕生からでも58年、家にあったシボレーやフォードで遊んでいた子供時代から数えれば、70年近く自動車とともに生きてきた。ありがたいことだが、それでも自動車の歴史全体から見れば、半分程度にすぎない。カール・ベンツが初めてガソリン自動車を造ったのは1886年で、もうすぐ130年が過ぎようとしている。

今、自動車は曲がり角を迎えている。ガソリンエンジンという、自動車の根幹にあった動力機の代替技術が探られているのだから、相当な激動だ。10年後、20年後に自動車がどう変わっているのか、まだ明快な答えは用意されていない。技術がどう発展するか、世界経済はどうなっているかなど、さまざまな要因が関わってくるからだ。

それでも、未来を予見するために、間違いなく役に立つ方法がある。それは、歴史を振り返ることだ。先人たちの経験に学ぶことは、これから先の選択に明るい光を当ててくれる。歴史の中には輝かしい栄光があり、それを上回る惨憺(さんたん)たる失敗の連続がある。要は成功に学び、失敗を繰り返さないことだ。

戦後の日本自動車史を見るだけでも、さまざまな転換点があった。他の自動車会社が欧米のクルマのノックダウン生産を行っていた時に、トヨタが独自生産にこだわってクラウンを生み出したこと。そのトヨタが満を持して世に問うた合理主義の塊である斬新なパブリカが、商業的に失敗したこと。一つの成功、一つの失敗が、クルマ文化の方向性を決定したのだ。

1989年という特別な年

そして、歴史の中に埋もれてしまったクルマを見つめ直すのも大切だ。世界トップクラスの技術を盛り込んだ大衆車だったが、コロナの前に敗れ去った日産ブルーバード510。先進的なFF車として世界にその名を轟(とどろ)かせたスバル1000。ドライバーズカーの先駆けであったいすゞ・ベレット。そして、プリンス自動車は名車スカイラインを生みながらも、会社自体が日産に吸収されてしまう。これらのクルマの1台でも別な運命をたどっていたならば、日本の自動車史は今とは違うものになっていたかもしれないのだ。

私が『間違いだらけのクルマ選び』を上梓(じょうし)したのは、1976年のことである。幸いにして、この本は正続合わせて100万部を超えるベストセラーになった。病気で入院していた時に書きためていた原稿がもとになっているが、回復してからフォルクスワーゲン・ゴルフを買い、全面的に書き換えた。その頃の国産車と比べ、ゴルフは革命的といっていいほど進んでいた。日本人が乗るなら国産車が一番だという趣旨だったのに、書き直したら正反対の主張になっていた。あの本が日本車の成長に少しでも寄与したのだとしたら、こんなにうれしいことはない。

日本車が最大瞬間風速を記録したのは、1989年だと思う。トヨタからセルシオ、日産からGT-R、マツダからユーノス・ロードスターが登場した年だ。あれからもう、四半世紀が過ぎようとしている。言ってみれば、すでに歴史の一部になっているわけだ。これらのクルマたちが世界の自動車メーカーに与えた影響は、多大なものがある。日本車の品質のよさは、世界中が手本にするようになった。

青春時代に日本車の後進性を嘆いていた私にとっては、これはとてもうれしいことだ。これから発売されるクルマにも、今まで培ってきた歴史の重みが確実に宿っている。若い人には、ぜひ自動車の歴史を学んでほしいと思う。そうして、自動車がどこへ進んでいけばいいのか、未来のことを考えてもらいたいのだ。

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『間違いだらけのクルマ選び』

『間違いだらけのクルマ選び』の刊行と同時に、自動車評論家・徳大寺有恒が誕生した。トヨタのレーシングドライバーだった杉江博愛は、引退後にカー用品会社「レーシングメイト」を設立したが、1969年に経営が破綻。その心労もあって、病に倒れてしまう。病床で書いたのが、当時のトヨタのワイドバリエーション戦略を批評した約300枚の原稿である。

草思社から出版することとなったが、原稿は全面的に書き直すことになった。フォルクスワーゲンがビートルの後継として1974年に発売したゴルフを購入し、自動車に対する考え方を変えたのだ。「ぼくは人生であんなにすごいクルマを経験したことはそれまでなかったし、おそらく、もう将来もないんじゃないかと思う」と、『ぼくの日本自動車史』の中で書いている。

杉江がすでに自動車評論家として原稿を書いていたことに配慮し、出版社は著者名を隠すことを提案した。徳大寺有恒というペンネームは、こうして生まれたのである。『間違いだらけ〜』は爆発的に売れ、正続あわせて100万部を超えるベストセラーとなった。ゴルフを基準として日本車の問題点を鋭く論じ、自動車マニアだけでなく広く一般の読者に支持されたのだ。

『間違いだらけ〜』はその後毎年版を重ねて部数を伸ばし、日本の自動車界に大きな影響力を持つようになる。徳大寺有恒は自動車評論家の第一人者として活躍するのみならず、ファッションや男の生き方などにまで批評の幅を広げていった。

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プリンス・スカイライン

初代スカイラインは、富士精密工業から1957年に発売された小型乗用車である。前輪がダブルウィッシュボーン、後輪がド・ディオンアクスルという当時としては凝ったサスペンションを持ち、1.5リッターの4気筒OHVエンジンを搭載した。プリンスという名が影響したわけでもないだろうが、皇太子明仁親王(今上天皇)が愛車として使用していた。

富士精密工業は、軍用機を製作していた中島飛行機と立川飛行機の血筋を引く。GHQの軍需産業解体政策により、両社は民需製品を手がけることになる。飛行機のエンジンを設計していた技術者たちが、自動車の開発に力を注ぐようになったのだ。

立川飛行機は電気自動車を開発し、1947年にたま号を発売した。その後ガソリンエンジン車を開発し、1952年にプリンス・セダンを発売する。1954年に中島飛行機から分かれた富士精密工業に吸収合併され、1961年にプリンス自動車工業が成立する。

プリンス・スカイラインは1963年にフルモデルチェンジを受け、2代目となる。その3年後には、通産省(当時)の自動車業界再編計画の影響もあり、プリンス自動車工業は日産に吸収合併される。すでに開発が進んでいた次期スカイラインは日産に引き継がれ、3代目は1968年に日産スカイラインとして登場することになる。これがいわゆるハコスカで、翌年には直列6気筒エンジンを搭載したGT-Rがデビューした。プリンス自動車には、ほかにもグロリア、クリッパー、マイラーなどがあったが、日産が現在でも製造しているのはスカイラインのみである。

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NAVI TALK

『間違いだらけ〜』から8年後、さらに徳大寺有恒の名を世に知らしめたのがNAVI TALKだった。1984年に創刊された自動車雑誌『NAVI』の名物記事で、自動車評論家の館内端、創刊編集長の大川悠と座談会形式で新車を批評した。徳大寺が商品企画、館内が先端技術、大川がデザインとそれぞれ得意分野があり、1台のクルマをさまざまな角度から分析した。

スペックを中心に語るのが常識だった自動車評論に文化的な視点を持ち込んだことは、読者から新鮮な驚きを持って迎えられた。早い時期から“クルマの白物家電化”に警鐘を鳴らしていたことでも知られる。折しもニューアカデミズム全盛の時期であり、時にクルマからはるかに遠く離れて政治や社会にまで話題が及んだ。

欧米のクルマ文化に後れをとっているとして日本車に厳しい指摘をすることも多々あり、抗議される場面もあった。しかし、自動車メーカーからは好意的な関心を寄せられてもいて、徳大寺が後に明かした話によると、セルシオを開発中の技術者がNAVI TALKの収録の場に同席して会話を聞いていたという。

日産スカイラインGT-Rやホンダ・プレリュードといった人気車にも辛口の評論をぶつけることがあったが、反面、世間的には軽視されていたクルマにも目を向けた。ホンダ・コンチェルト、トヨタ・アバロンなどを絶賛したが実際には販売は振るわず、NAVI TALKで褒められると売れないというジンクスがささやかれたともいわれる。

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[ガズ―編集部]