<カーオブザセンチェリー>ポルシェ911(1963年)

よくわかる 自動車歴史館 第3話

半世紀を経ても頂点に君臨

ポルシェ911が誕生してから、今年(2013年)で50年である。今も変わらずに作り続けられているこの偉大なスポーツカーは、1963年のフランクフルト・モーターショーで発表されたのだった。破格の高性能が世界を驚かせたのだが、半世紀を経ても同じモデルが頂点に君臨していることが何よりも驚嘆に値する。とてつもない偉業と言っていいだろう。

それまで製造されていた356に代わるモデルとして開発されたのが911である。当初は開発コードの901をそのまま車名にしていたが、真ん中がゼロの三桁の数字を商標登録していたプジョーからの抗議によって911を名乗るようになった。水平対向エンジンをリアに搭載したGTというコンセプトは、356からそのまま受け継いでいる。しかし、フォルクスワーゲンを下敷きにしていた356とは違い、911はまったくの白紙から新設計されたモデルである。 

最も大きな進化は、OHV 4気筒からSOHC 6気筒となったエンジンだろう。2リッターで130psというパワーは現在の基準からすれば驚くほどの数値ではないが、軽いボディーと優れたトラクションを利して最高速度210km/hを実現していた。当初から排気量アップを前提とした設計で、その後3.6リッターまで拡大されることになる。 

1963年に日本でデビューしたクルマは、ダットサン・ブルーバード410、三菱コルト1000などである。東京モーターショーには、いすゞ・ベレット、プリンス・スカイライン、ダイハツ・コンパーノなどが出品された。日本車も少しずつ実力をつけていたが、同じ年に海の向こう側ではこの高性能で実用的なGTが華々しく登場したのである。

合理的なシステムに潜むデメリット

ポルシェの名は不世出の天才技術者フェルディナント・ポルシェ博士から来ているが、1951年に逝去した彼はもちろん911には関わっていない。博士が作り上げたのは、ドイツが誇る世界の大衆車フォルクスワーゲン・ビートルだった。その息子であるフェリー・ポルシェがビートルの思想を受け継ぎながら開発したスポーツカーが356であり、さらにその息子“ブッツィ”ことアレクサンダー・ポルシェが生み出したのが911である。

  • フェルディナント・ポルシェ(中央)とアレクサンダー・ポルシェ(左)、フェルディナント・ピエヒ(右)
  • アレクサンダー・ポルシェと1963年式ポルシェ911

初代ポルシェ博士は、25歳だった1900年にウィーンのローナー社で電気自動車を製作している。2年後にはガソリンエンジンとモーターを組み合わせたハイブリッドの元祖ともいうべきモデルを作り、早熟な才能を示した。1923年にはダイムラー・ベンツ社の技術部長に迎えられ、乗用車からレーシングカーまでさまざまなモデルを開発した。その後独立した博士は、小型経済車を開発しようとしてヒトラーの大衆車構想に巻き込まれていく。しかし、博士の理想が形になったのは、戦後になってからだった。 

最善を追求する技術者の血と魂は受け継がれ、ビートルから356を経て911が誕生した。この3台に共通するのは、空冷の水平対向エンジンをリアのオーバーハングに積んでいるという点だ。空冷エンジンは構造が簡単で低コストであり、水漏れの心配がないという利点があった。リアエンジン・リアドライブ(RR)は、プロペラシャフトを必要としない合理的な方式で、居住スペースを広くとることができた。エンジンの重量が駆動輪である後輪に加わるため、トラクションも強力である。しかし、その反面デメリットも抱えていた。 

RR方式は、ステアリングを切り込んだ以上にクルマが向きを変えてしまうというオーバーステアの傾向を持っている。ビートルではそれほど大きな問題とはならなかったが、高性能な911では過度なオーバーステアが致命的な事態を招くことになりかねない。操縦安定性の確保が、911の大きな課題となった。初期のモデルでは、フロントのバンパーの中に重りを入れるという苦肉の策が講じられた。

守り続けた理念と新時代に向けた改革

オーバーステアとの戦いは粘り強く続けられ、4WDモデルを除いて今もRR方式は守られている。一方、空冷エンジンは変更を余儀なくされた。騒音が大きい、ヒーターが効きにくいといった弱点はまだしも、排ガス規制に対応できなかったことが致命的だった。空冷では燃焼温度を一定に保つことが難しく、精緻なコントロールができないのだ。1998年に5代目となる996モデルに移行した際に、ついに水冷エンジンが採用されることとなった。

それでも、50年を経て今も911は基本的に同じメカニズム、同じフォルムを持ったクルマなのだ。もともとの設計思想が優れていたことが、長きにわたって作り続けることができた理由だろう。実は初代モデルと現行モデルを並べると形の違いが際立つのだが、それを相似形に見せてしまうのがデザインの妙なのだろう。

911以外のモデルへ切り替える試みも、常になされてきた。1976年にはフロントエンジン・リアドライブ(FR)モデルの924が発売された。その後944、968へと発展していくが、911に取って代わることはなかった。ラグジュアリーモデルの928も、また同じである。ポルシェの支持者は、RRで6気筒の水平対向エンジンを持つ911こそがポルシェであると信じてきたのだ。

1996年にデビューしたボクスターは、新たなユーザーをつかむことに成功した。ミドシップエンジンの2シーターオープンで、エンジンは水平対向のままである。2002年にはSUVのカイエンが発売され、ポルシェ社の屋台骨を支える商品となった。それでも、ポルシェといえば誰もがまず思い浮かべるのは、依然として911である。一貫してブレない姿勢がポルシェのブランドイメージを支えているのであり、その淵源(えんげん)をたどっていくと初代ポルシェ博士の技術者魂に行き着くのだ。

  • ポルシェ911(1996年モデル)
  • ポルシェ911の水平対向6気筒エンジン
ポルシェ928(画像は1980年モデル)

ポルシェ928

924に続き、FRレイアウトの928シリーズ。1978年当時、ポルシェのフラッグシップモデルとして登場。新開発のV型8気筒エンジン、排気量4500㏄の高級グランツーリスモモデルである。スポーツカーとして初めて1978年ヨーロッパ・カー・オブ・ザ・イヤーを獲得したクルマでもある。

カー・オブ・ザ・センチュリー(COTC)

20世紀で最も影響力のあったクルマを称えるために、世界中の自動車会社や専門家によって作られた自動車賞。700台のリストから選考され、1999年のフランクフルト・モーターショーで最終候補の5台が発表された。最終的な順位は、1位T型フォード、2位MINI、3位シトロエンDS、4位フォルクスワーゲン・ビートル、5位ポルシェ911だった。

1963年の出来事

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第1回日本グランプリ開催

日本で初めて行われた本格的な自動車レースで、会場は1962年に開業したばかりの鈴鹿サーキットだった。“グランプリ”を名乗っているが、F1選手権ではない。市販車を改造したツーリングカーやスポーツカーを排気量別にクラス分けし、2日間で11レースが行われた。正式名称は「第1回日本グランプリ自動車レース大会」というほのぼのとしたものだった。

“自動車レース”の存在すらほとんど知られていなかった中で、観客動員は20万人を超え、自動車がスピードを競うことの面白さを、日本人は初めて知った大会であった。

ツーリングカーレースのC-2クラス(400~700㏄)ではトヨタ・パブリカ、C-5クラス(1300~1500㏄)ではトヨタ・コロナ、C-6クラス(1600~1900㏄)ではトヨタ・クラウンが優勝し、トヨタ車が活躍したグランプリでもあった。

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ホンダがS500を発売

1962年、ホンダは四輪車への参入とF1参戦を発表する。翌年の第10回全日本自動車ショウ(晴海)には、スポーツカーのプロトタイプが展示された。二輪のレースではすでに世界的名声を得ていたとはいえ、スーパーカブが主力商品だった会社の事業としては無謀だと受け取る声が大きかったのは仕方がないだろう。

そんな中、1963年に登場したのがオープン2シーターのS500である。もちろんエンジンはDOHCで、チェーンで後輪を駆動するという凝ったメカニズムを持っていた。4連キャブレターを採用し、8000rpmという高回転で40psの最高出力を絞り出した。S500は1964年に排気量を増やしてS600となり、さらにS800へと発展していく。モータースポーツでも活躍し、トヨタ・スポーツ800と数々の名勝負を繰り広げた。

F1への挑戦も同時に進行し、1965年には初優勝を果たしている。レースで得られた技術が市販車へとフィードバックされ、性能を向上させていくというサイクルができていたのだ。現在につながるホンダスピリットは、この時代にすでに確立していたのである。

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<世相>ケネディ大統領暗殺

1963年11月23日、日本のお茶の間では多くの人々が初の日米宇宙中継を心待ちにしていた。ケネディ大統領から日本国民へのメッセージが送られてくる予定になっていたのである。しかし、実際に目にしたのは、“ケネディ大統領暗殺”という衝撃的なニュースだった。

この日、ケネディ大統領はダラス・トレードセンターで演説することになっていた。再選に向けての選挙活動の開始ということで、空港から演説地までパレードを行ったのである。大統領はオープンに改造されたリンカーン・コンチネンタルに乗り込み、沿道の人々に手を振りながらゆっくりと進んでいた。

防弾カバーを付けるべきだという進言は退けられ、大統領は親しみやすいイメージをアピールしたのだ。無防備なオープンカーは狙撃手にとって格好の標的となり、3発の銃弾が打ち込まれた。

大統領暗殺のニュースは瞬時に世界中に広まり、大きな反響をもたらした。各国から哀悼の念が寄せられ、冷戦のさなかにあったソビエト連邦は直後に関与を否定する声明を発表した。情報がリアルタイムで世界を駆け巡る時代が訪れたのである。

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[ガズ―編集部]

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