F1―ホンダの世界制覇とセナプロ対決(1990年)

よくわかる 自動車歴史館 第4話

1987年のF1ブーム

世界最高峰の自動車レースであるF1は、日本では長らくレースマニアだけのものだった。1950年のシルバーストンサーキットで始まった由緒あるシリーズだが、その意義を知る者は少なかった。しかし、1987年に突然状況が変わった。自動車にそれほど関心を持たない層にまでF1の名は知れ渡り、女性ファンが急増したのである。その立役者となったのが、 アイルトン・セナだった。

この年から、鈴鹿サーキットでの日本グランプリがF1カレンダーに加えられた。1976年と77年に富士スピードウェイでF1選手権が開催されて以来、10年ぶりのことである。1960年代にワークス体制で参戦していたホンダは、1983年からエンジンサプライヤーとして復帰していた。ホンダエンジンの性能は高く、1987年にはウィリアムズとロータスの2チー ムにエンジンを供給していた。

チーム・ロータスには、日本人初のレギュラードライバーとなる中嶋悟が加入した。日本のエンジンに日本人のドライバーということで、一般マスコミにも大きく取り上げられることになった。彼のチームメイトが、ブラジル人のアイルトン・セナである。天才的なドライビングテクニックを持つだけでなく、哀愁をたたえたルックスの彼は、またたく間に高い人気を得たのだ。

F1ブームを後押ししたのは、テレビでの中継だった。深夜の録画放送ではあったが、フジテレビ系で全戦が放映されたのである。当時レース中継を担当していた古舘伊知郎がセナを“音速の貴公子”と呼び、その名は広く浸透した。

16戦中15勝の圧倒的な成績

時はあたかもバブル景気のまっただ中にあった。ジャパンマネーはF1をも席巻し、日本企業のロゴマークがマシンのボディーにおどっていた。不動産会社がまるごとチームを買収した例さえあった。バブルの気分は華やかなF1の世界と マッチし、オシャレなイメージを発散していた。 

ホンダのターボエンジンは、圧倒的な戦闘力を誇っていた。高速サーキットのシルバーストンで行われたイギリスグランプリでは、1位から4位までをホンダエンジンを搭載したマシンが独占した。ウィリアムズ・ホンダにはナイジェル・マンセルとネルソン・ピケという傑出した力を持つドライバーがいて、マシンの力をフルに引き出していた。ホンダ勢に対抗できたの は、マクラーレン・ポルシェに乗るアラン・プロストだけだった。

この年はネルソン・ピケがチャンピオンとなり、ウィリアムズ・ホンダがコンストラクターズタイトルを手にした。しかし、ウィリアムズとホンダの契約は終了し、翌年からホンダはマクラーレンにエンジンを供給する。そして、セナはロータスを離れてマクラーレンに移籍することになった。最強のエンジンと最強のドライバー2人を獲得したマクラーレンは無敵の強さを誇り、シリー ズ16戦中15勝という圧倒的な成績を残したのだ。

しかし、“プロフェッサー”の異名を持つプロストと天才肌のセナが並び立つのは難しかった。エースドライバーを決めずに“ジョイントナンバーワン”というチーム体制をとったが、両者とも自分が優先されるべきだと考えていた。2台でのバトルが毎回のように繰り広げられ、チームとしての協同体制を築けていなかった。第13戦のポルトガルグランプリでは互い に幅寄せをするという明らかな妨害行為があり、対立は決定的なものとなる。

鈴鹿を舞台にしたセナプロの接触劇

1989年、ふたりの確執はさらにヒートアップする。第2戦のサンマリノグランプリでセナがプロストをオーバーテイクしたことが、大きな問題となったのだ。“スタート直後のコーナーまでは互いに勝負しない”という取り決めがあったが、その解釈が2人で異なっていたのだ。セナが謝罪する形でいったんは和解するが、不協和音は治まらなかった。シーズン途中でプロ ストはフェラーリへの移籍を発表する。

日本グランプリを控え、プロストは獲得ポイントでセナに対して16点リードしていた。逆転するためには、セナは鈴鹿と最終戦のオーストラリアグランプリで勝つしかない。予選では1.7秒の差をつけてセナがポールポジションを獲得するが、スタートでプロストが先行する。そして47周目、シケインでセナがプロストのインを突くとプロストと接触し、2台はコースアウトし てしまう。両者リタイアならばタイトルが決まるプロストはマシンを降りたが、セナは諦めずにレースを再開し、トップでチェッカーを受けた。しかし、コース復帰時にシケインを通過しなかったことがペナルティーとされ、彼は失格を宣告される。

1990年も、やはりセナプロ対決が続いた。セナがドライバーズポイントを9点リードして日本グランプリを迎え、今度は両者リタイアでセナのチャンピオンが決まる状況だった。前年の因縁を抱えたふたりがどんな戦いをするのか注目されたが、あっけなく決着がついた。スタート直後のコーナーで2台が接触し、レースを終えたのである。セナは後にこの接触が故意だったことを認めている。

1993年にウィリアムズに戻ったプロストは、4回目のタイトルを獲得して引退した。翌年はセナがウィリアムズに復帰したが、第3戦のサンマリノグランプリで悲劇が起きた。高速コーナーでクラッシュし、帰らぬ人となったのだ。ホンダはすでにF1から撤退していたが、かつてのチームメイトを悼んで本社のショールームにセナのマシンとヘルメットを展示した。

ホンダは2000年にF1に復帰し、2006年からはワークス体制となった。トヨタも2002年からF1に参戦し、日本の 大メーカーが最高峰の舞台で覇を競うことになったのだ。しかし、両チームともめざましい成績を残すことができないまま、リーマンショックから始まる不況の波に飲まれる形で撤退してしまう。

ホンダは、2015年からエンジンサプライヤーとしてF1に復帰することを発表した。あの熱い戦いがまた見られるかもしれない。

1990年の出来事

topics 1

ホンダNSX発売

ホンダNSXが発表され世界に大きな衝撃を与えた。アルミニウム製の軽量ボディーのミドにV6エンジンを積んだ2ドアクーペで、海外の高性能スポーツカーに肩を並べる性能を持っていた。それを800万円という低価格で市場に投入したのだ。 バブル景気にわいていたこともあり、注文が殺到して供給が間に合わない事態を引き起こした。

topics 2

軽自動車規格改定

軽自動車の規格改定が行われ、排気量の上限が550ccから660ccに引き上げられ、強力なパワーを得て大きなボディーを持つことが可能になった。現在主流となっているトールワゴンの元祖は、1993年に発売されたスズキ・ワゴンRである。高さが2メートルまでという規格にそって室内スペースを拡大し、使い勝手をよくしたことでユーザー層は大幅に広がった。その後1998年には衝突安全性も考慮され全長と全幅が広げられ、現在に至っている。

topics 3

ゴルバチョフがソ連初代大統領に

第二次大戦後はアメリカとソビエト連邦という2つの大国が自由主義陣営と社会主義陣営を率いて対立する冷戦構造が続いていた。一党独裁体制の弊害で経済的に疲弊していたソ連を立て直そうと、1985年に共産党書記長に就任したゴルバチョフはペレストロイカ(改革)とグラスノスチ(公開)を掲げて政治の民主化を推し進めた。 社会主義国で次々に民主化運動が始まり、1989年にはベルリンの壁が崩壊する。ソ連の中でもバルト三国などで独立運動が進められ、共産党の権力は弱体化していった。1990年になると一党独裁の放棄と大統領制の導入が決まり、ゴルバチョフがソ連の初代大統領に就任する。 ゴルバチョフは米ソ首脳会談で軍縮を推進し、複数政党制を実現させるなど大きな足跡を残した。ゴルバチョフは大胆な政策転換を行って新しい体制を築こうとしたが、国内の混乱が広がっていき、自ら進めた民主化によって権力の座を追われることになった。

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[ガズ―編集部]

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