わたしの自動車史(後編) ― 渡辺敏史 ―

トヨタ・セルシオ(1990年)

僕が出版社にアルバイトとして出入りするようになったのは1988年のこと。時バブルの真っ盛り。それを追い風にしたとはいえ「シーマ現象」が流行語になるほどですから、いかに日本のクルマに勢いがあったかがうかがい知れます。そして89年には、トヨタがセルシオを、日産がスカイラインGT-Rを、マツダがユーノス・ロードスターをそれぞれリリース。花の82年組か第2次ダイナマイト打線か……の勢いで、日本のメーカーが完全に世界を制圧したかにみえたのがこの時でした。

あの時、これらの開発陣にあったものはなんだったのか。たとえばユーノス・ロードスター。市場そのものは死に筋もいいところだった絶滅種のライトウエイト・オープンスポーツ、その復活を後押ししたのはまず開発陣の「絶対面白いはず」とか「だって俺が欲しいし」とか、そういう情熱だったのだろうと思います。

そして、その渦が大きくなっていく過程でも目指す楽しさに対する想いがスタッフの間で共有できていた。だからこそ、ピーンと一本筋の通ったプロダクトができたのでしょう。GT-Rの場合はそれがポルシェという具体的な、かつ現在進行形の目標であり、ライバルを芯の芯まで知り尽くそうとしたことが、現場の意思疎通を明快にする一助となったことはいうまでもありません。 個人的には、それと同じくらい筋の通ったプロジェクトだったと思うのが初代セルシオです。トヨタエンジニアリングの集大成にして、それまでのトヨタを超える使命も帯びた一世一代のプロジェクトに1000人ものエンジニアが束ねられた。果たしてなぜセルシオはうまくいったのでしょうか。

カテゴリーのライバルはGT-Rにもまして強力。その中で、セルシオは確実に勝る突破口を絞り込みました。快適性の要となる音・振動の徹底的な排除です。ここで開発陣で共有されたキーワードが「源流」というもの。騒音の要因に遮音材でふたをあてまくるのではなく、まず原因を突き止める。振動の原因を突き止めたらマウントやバランサーで対処するのではなく、発生源そのものの工作精度を高める。洗剤のCMではありませんが、自分らの仕事は元から絶ってナンボという考え方が、隅々に行き渡っていたわけです。

もちろんこれは、何もかもを一からすべてしつらえた初代セルシオだからできたことかもしれません。もしくは、現在の解析技術があれば原因はすぐに突き止められ、定量化され比較され、最小限の工数で対処が考えられる。意思統一の機会など持たずとも、数値目標で開発効率は劇的に向上しています。 が、出来上がったクルマに、かつてのセルシオほどの鬼気迫るものは感じられないのはなぜか。思い浮かぶ理由は、比較対象も含めたクルマへの畏敬です。知らない相手を愛せなければ、それを目標にする身内もまたしかり。生産性で恋愛は語れませんが、現在の日本車の開発においては、カタチを生まない仕事の量が圧倒的に少ないのではないでしょうか。

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[ガズ―編集部]

MORIZO on the Road