英国車興亡史(1952年)

よくわかる 自動車歴史館 第8話

同じクルマが6種類

バンデン・プラ・プリンセス1100(1963年)

1990年頃、日本の若い人の間でちょっとしたブームになったのが、バンデン・プラ・プリンセスだった。性能的にはさほど見るところのない、クラシカルな英国車である。日本車は世界をリードする存在になっていて、快適でハイパワーなクルマはいくらでも安く売っていた。しかし、バブルを引きずる空気の中、他人とちょっと違ったクルマに乗りたいという欲求があったのだ。

1992年のトレンディードラマ『誰かが彼女を愛してる』では、中山美穂が演じるヒロインの愛車という設定になっていた。オシャレでかわいいというイメージが拡散し、見た目に引かれて購入した女性も多かった。トラブルや使い勝手の悪さですぐに持て余すケースが頻発していたようだが、60年代のクルマがファッション・アイテムとしてもてはやされたのである。

バンデン・プラは本革内装にピクニックテーブルまでつくという豪華仕様で、かなり高価だった。しかし、もう少し安く手に入れることのできる、同じような外見のクルマがあった。オースチン、モーリス、MG、ウーズレー、ライレーである。
スタイルとメカニズムは基本的に同じで、グリルとエンブレムだけが違う6モデルがあったのだ。これらはすべてADO(Austin Drawing Office Project)16という名のプロジェクトから生まれている。1958年に誕生したMINIがADO15で、その成功を受けての企画というわけだ。

ADO16を開発したのは、ブリティッシュ・モーター・コーポレーション(BMC)である。1952年にイギリスの2大自動車メーカーだったオースチンとナッフィールドが合併してできた会社だ。ナッフィールドはモーリス、MG、ウーズレー、ライレーが連合したもので、オースチンはもともとベルギーのコーチビルダーだったバンデン・プラを買収していた。所有していたブランドを活用し、1つのプロジェクトを6つのモデルに仕立てたのだ。

赤旗法で自動車産業の発展が遅れる

イギリスには多くの自動車メーカーが割拠していたが、経営基盤を固めるために合同が繰り返された。BMCは1966年にジャガーが加わってブリティッシュ・モーター・ホールディングス(BMH)になり、1967年にはさらにローバー、レイランドを加え、ブリティッシュ・レイランド・モーター・コーポレーション(BLMC)に発展する。

ガソリン自動車の揺籃(ようらん)期、イギリスはドイツやフランスに後れを取っていた。その原因とされるのが、赤旗法である。蒸気自動車を標的にして1865年に制定された法律で、極端な速度規制を定めるとともに、クルマの60ヤード前を人間が赤旗を持って触れまわらなければならないことを定めていた。ガソリン自動車にもこの法律は適用され、1896年に撤廃されるまでイギリスでは自動車産業の発展が妨げられていたのだ。既得権益を守ろうとする馬車業者による圧力だったといわれている。

ブルックランズサーキット

産業革命の先進地でもあり、法律撤廃以後は急速に自動車工業が発展する。研究開発のために高速走行ができる場所が必要だと考えたのが、富豪のヒュー・ロック−キングである。ロンドンの西にある領地の中に、高速テストコースを建設したのだ。1907年に完成したコースはブルックランズと名付けられ、世界初の自動車用常設サーキットとなった。
環境が整い、自動車メーカーが産声をあげ始める。デイムラーはドイツのダイムラーからエンジンの製造権を取得した会社で、後にジャガーに合流する。自転車メーカーだったヒルマンやサンビーム、羊毛刈り機メーカーだったウーズレーなども自動車に参入していった。ロールス・ロイスは資産家のチャーリー・S・ロールスとエンジニアのフレデリック・H・ロイスが、オースチンはウーズレーにいたハーバート・オースチンが立ち上げたメーカーだ。

今も輝く英国車ブランド

機械メーカーだったボクスホールはスポーツカーの製造に乗り出したが、1925年にGM傘下に入り、ドイツのオペルと一体になっていった。ヒルマンやサンビームなどは、ルーツグループとして集結し、大きな勢力となっていく。第2次大戦後には、BMCに次ぐ大規模な自動車メーカーになった。日本では戦後の自動車産業がノックダウン生産から始まり、日産がオースチン、いすゞがヒルマンと組んで生産技術を学んでいる。日本の復興期には、彼らがお手本だったのだ。しかし、1960年代になるとルーツグループはクライスラーに買収され、1977年には経営破綻してしまう。

超高級車のロールス・ロイスや小規模なスポーツカーメーカーを除くと、すべてのイギリスの自動車メーカーがBMLCに集約される形となった。台頭してきた日本車との競合に苦しみ、“英国病”と称される非効率な仕組みが経済を疲弊させていた。多くのメーカーが集まっても苦境を脱することはできず、破産寸前にまで追い込まれて英国政府によって国有化されることになる。

現在では、ジャガーとランドローバーは、インドのタタ自動車の所有するブランドとなっている。MINIはBMWのもとで新たなモデルを作り出した。ロールス・ロイスとベントレーは、それぞれBMWとフォルクスワーゲンの傘下に入った。MGやオースチンなどのブランドは、中国の南京汽車のもとにある。

  • イギリス発祥のブランド:ジャガー
  • イギリス発祥のブランド:MINI
  • イギリス発祥のブランド:ロールス・ロイス
  • イギリス発祥のブランド:ベントレー
ローバー416(ホンダ・コンチェルトの姉妹モデル 1989年)

80年代になって、オースチン・ローバーはジャガーと分離して再び別の会社になる。一時期はホンダとの提携で再生を模索したが、1994年にBMWに買収されることになった。しかし、2000年にローバーはわずか10ポンドで売却され、ランドローバー部門はフォードの手に渡った。BMWはMINIのブランドを手に入れ、40年作り続けられたモデルを一新した。今やBMWになくてはならないブランドに成長している。ほとんどのモデルが生産されているのは、現在でもイギリス国内である。

1952年の出来事

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ジャガーCタイプがディスクブレーキを装着

スポーツカーとして初めてディスクブレーキを装着してレースに出場したのは、ジャガーCタイプである。1952年にイタリアの耐久レースであるミッレミリアに参戦し、耐久性をテストした。ドライバーは、スターリング・モスだった。現在では乗用車にもディスクブレーキが装着されているが、当時は自己倍力作用を持つドラムブレーキが普通だったのだ。しかし、放熱性の悪いドラムブレーキは、レースで酷使するとフェードを起こしやすいという欠点がある。
ミッレミリアでは勝つことができなかったが、翌年のルマン24時間レースではその経験を生かしてワンツーフィニッシュを達成している。それ以降はディスクブレーキが主流となり、現在はモータースポーツではカーボンファイバーのディスクが使われている。

topics 2

国産スポーツカーのダットサン・スポーツ登場

日本で初めて“スポーツ”の名を冠したクルマは、1952年1月に発売されたダットサン・スポーツDC-3である。MGのTシリーズを模していたが、シャシーはトラック用のラダーフレームで、エンジンはサイドバルブの860ccという貧弱なものだった。生産台数はわずか50台だったが半分ほどしか売れず、残りはトラックに仕立て直されたという。
6年後の1958年に行われた「全日本自動車ショウ」に出品されたのは、改良型のS211だった。210セダンのシャシーにプラスチック製のオープンボディーを架装したもので、1リッターのOHVエンジンを載せていた。左ハンドル仕様のSPL212は、フェアレディの名で北米に輸出された。 DC-3は時期尚早の感が否めなかったが、このチャレンジが後に世界のスポーツカーに衝撃を与えるフェアレディZにつながっていったのだ。

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<世相>ラジオドラマ『君の名は』が大ヒット

TBSのテレビドラマ『半沢直樹』は平成期最高となる42.2%の視聴率で話題になったが、1952年のラジオドラマ『君の名は』はもっとすごかった。“番組が始まる時間になると銭湯の女湯から客が消えた”という伝説が残るほどである。
戦火の中でめぐり合った氏家真知子と後宮春樹が互いの名を知らぬまま数寄屋橋での再会を約して別れるが、なぜかいつもすれ違って会えないというストーリーだった。番組冒頭で流れた「忘却とは忘れ去ることなり。忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさよ」というナレーションが有名である。
松竹で映画化されると、ヒロインを演じた岸恵子がショールで首と頭を包んだスタイルが“真知子巻き”と呼ばれて大流行した。

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[ガズ―編集部]