東京モーターショーの思い出 ―大川 悠― (後編)

クラッシュしたマシンをアルミで修復

第13回東京モーターショーの模様

1965年秋、仕事として初めてモーターショーに行った。もちろん晴海の第13回だが、今回は船でなくて会社のクルマで行った。その数カ月前に、大学を中退して、自動車雑誌の『CAR GRAPHIC』編集部に転げ込んだばかりだったからだ。

あの頃、私生活はとても貧しかった。そしてあの時の晴海は今よりはるかに寒かったような気がする。キンモクセイの香りが漂う頃、モーターショーの季節になるのだが、昔の10月は本当に寒かった。
冷たいフロアに耐えている私の前には、トヨタ2000GTのプロトタイプがあった。プリンスは速度記録に挑むR380を展示し、ホンダはS360やS600を改善したS800の隣にN800なる最初の乗用車を展示した。そのほか、新型セドリック、スバル1000、コルト800、マツダ・ファミリアクーペなどが所狭しと乗用車館に並んでいた。

二輪や三輪、トラックではない自動車というものが、どんどん輝きを増してきていた。そして舞台の上の虚構の世界から、無理すれば何とか明日には手が届くのではないかと思えるほど近くなってきた。それを考えているうちに、いつの間にか寒さを忘れたような感じがした。

事実その翌年、66年のショーでサニー、カローラが注目を浴び、ホンダN360、スズキ・フロンテ、ダイハツ・フェローなどの本格的軽自動車が相次いで登場、いわゆる「マイカー元年」といわれるようになるのである。クルマは、架空の世界から、現実の社会に降臨し始めた。

逆風を超えて新しい世界へ

70年代に入ると、クルマとそれを取り巻く世界は大きく変化してくる。石油ショックや大気汚染法などの逆風が吹く一方、技術はどんどん革新し、デザインも多様化し、やがて日本車が世界を制する80年代へと突入していく。それに伴って、晴海の光景も変わっていく。マイカーへの熱気で100万人を超えた入場者が瞬間的に減ったこともあって、75年から2年に1度の隔年開催になる。

これはクルマに対する夢や情熱が冷めたからではない。自動車というものが、すでに日常生活の道具として社会の中に根付き始めてきたからで、わざわざショーに足を運ばなくても、普通の人々はそれを当たり前のこととしてクルマを買い求め、使っていた。
この流れの中で、輸入車もまたゆっくりと根付き始め、高級外車や個性的なクルマを希求する顧客層も年々増えた。モータースポーツが普及するにつれて、高度な技術を備えた高性能車やスポーツカーがショーではますます脚光を浴びるようになった。

80年代中期、再び来場者は100万人を超え、出品車両は大幅に増えた結果、ショー会場は89年から晴海を離れてより広大な幕張に移り、格段と規模を拡大することになった。

NAVIの萌芽(ほうが)

その少し前、80年代初期、ショーを取材しながら私はあることを考えつつあった。ショーというのは最新のクルマや技術を展示しているだけではない。その背後にある日本の社会をどこかで映し出しているのではないかということだ。いや、ショー会場だけではない。クルマそのものが、人の心や、その心を育む文化や社会状況と密接に結びつき、鏡のように示しているはずだ。ショーに来た100万人を超える人たちには、その数だけの生活と、その中でのクルマとの接点が存在するに違いない。

社会的、文化的存在としてもう一度クルマを考えてみるべきではないだろうか。何とかそういう世界に焦点を絞ったジャーナリズムが作れないだろうか。そんな過程を経て、自動車雑誌の『NAVI』が生まれたのは84年の春だった。

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[ガズ―編集部]