ガソリン自動車誕生(1886年)

よくわかる 自動車歴史館 第11話

新しい動力源を求めて

カール・ベンツ
ゴットリープ・ダイムラー
ニコラス・アウグスト・オットー

メルセデス・ベンツといえば、誰もが知るドイツの自動車ブランドだ。ならばそれを製造・販売しているのはメルセデス・ベンツ社なのかというと、そうではない。会社の名前は、ダイムラー社(Daimler AG)なのだ。ブランド名と会社名が異なっているが、どちらもガソリン自動車の誕生に関わった人物に由来している。19世紀末、世界を変えることになる新しい乗り物をつくろうとしていたのが、カール・ベンツゴットリープ・ダイムラーだった。 

19世紀のはじめにトレビシックが発明した蒸気機関車はスティーブンソンによって改良され、ヨーロッパやアメリカでは人員や貨物を輸送する実用的な手段となっていた。一方、1769年にキュニョーが先鞭(せんべん)をつけた蒸気自動車も、少しずつ技術開発が進んでいた。さらには、電気自動車の可能性を探る動きもあった。

しかし、そこに飽きたらずに新たな道を求める技術者たちがいた。蒸気機関車は1次元の動きしかできないので、自由なモビリティーとは言いがたい。蒸気自動車は大きくて重く、電気自動車は航続距離に難点がある。すべての問題を解決するには、新しい動力源を開発する必要があった。

1860年、フランスのエティエンヌ・ルノワールが「ガスエンジン」の特許を取った。石炭ガスをシリンダー内で燃焼させて動力を取り出すもので、初めて実用的な内燃機関を作り出したのだ。機関外部の熱源を利用する蒸気機関に比べ、はるかに軽量でコンパクトなシステムにすることが可能になった。ただ、まだまだ技術的課題は多く、安定して稼働させるのは難しかった。熱効率が悪く潤滑油が大量に必要だったため、“回転する油の塊”と揶揄(やゆ)されていたという。

ドイツ人のニコラス・アウグスト・オットーは、ルノワールのガスエンジンを研究し、効率を高めた機関を開発してビジネスを成功させた。さらに強力な動力を得るため、彼はボー・ド・ロシャが提唱していた4ストロークエンジンに活路を求めた。1877年、現在もオットーサイクルという名で呼ばれる効率的な内燃機関を作り上げて特許を取得する。

近くで別々に研究していたベンツとダイムラー

ウィルヘルム・マイバッハ
ダイムラーとマイバッハが開発した4ストロークエンジン
エンジン式木製二輪車 ニーデルラート(1885年)

オットーのもとで研究開発を進めたのが、ダイムラーウィルヘルム・マイバッハだった。彼らはオットーから離れてカンシュタットで研究を重ね、1883年に熱管点火方式の改良型エンジンを完成させる。1885年、さらに改良されたエンジンを木製の二輪車に載せ、テスト走行を成功させた。これが「ニーデルラート」である。

一方、カンシュタットからほんの数十キロしか離れていないマンハイムでは、カール・ベンツがエンジン会社を設立して研究を進めていた。先祖代々鍛冶屋を家業としていたベンツ家だったが、彼の父親は故郷を出て機関車の運転士になった。当時最先端の職業だったはずである。2歳の時に父は事故が原因で亡くなってしまったので、彼には父の記憶がない。

しかし、技術者魂は受け継がれる。幼いころに描いた絵はすべて蒸気機関車だったし、ギムナジウムに入った頃には、近所の人が壊れた時計を持ってくると即座に直してしまう腕を身につけていた。息子が役人になるように願っていた母親も、彼の才能を知って高等工業学校に転学することを許さないわけにはいかなかった。そこで出会ったのが、新しい動力である内燃機関である。

鍛冶屋の血が流れているから、現場で学ぼうという意欲があった。そして、父の運転した蒸気機関車を作りたい。彼が選んだ結論は、蒸気機関車を製造する工場に就職して旋盤工になるというものだ。昼は工場で職人の腕を磨き、夜は新しい乗り物の形を頭の中で考える。この時期に手で覚えた機械の感覚と青年の理想が融合し、未来を変える構想が育まれていたのだ。
1871年、ベンツは独立して事業を始める。オットーが特許を持っていた4サイクルエンジンを回避し、2サイクルエンジンの開発に没頭する。彼が培ってきた技術力は十全に発揮され、小型軽量でパワフルな製品が完成する。1886年のカールスルーエ博覧会で絶賛されたエンジンは好調な売れ行きを示し、事業は順調に発展する。

しかし、ベンツが求めたのは、あくまでエンジンで走る乗り物なのだ。定置式の2サイクルエンジンでは、重すぎて乗り物に載せることはできない。ちょうどその頃、オットーが取得していた4サイクルエンジンの特許が無効とされた。ベンツは軽量なガソリンエンジンの開発に乗り出したのだ。

ベンツの初の顧客はフランス人

ベンツ・パテント・モートルヴァーゲン(1885年)
ベンツ・ヴェロ(1894年)
ダイムラー・シュトゥルラートヴァーゲン(1889年)
ダイムラー・メルセデス35hp(1901年)

ベンツの頭脳と工作技術をもってしても、エンジン駆動の自動車を造るのは簡単ではなかった。最重要課題が軽量化と高回転化であることはわかっていた。それを実現するためには、確実で強力な点火システムを採用しなくてはならない。ベンツが選んだのはダイムラーの熱管式とは異なり、電気式だった。バッテリーと変圧器を組み合わせて高圧電流を発生させ、改良した気化器を使って安定した燃焼を連続して起こすことが可能になった。
ほかにも課題はあった。ガソリンの燃焼によって発生する熱を冷却する装置が必要だった。発生した動力を伝達するために、必要な時は駆動力を切る仕掛けもなくてはならない。コーナリング時に動力を地面に伝える後輪の内側と外側で回転数が異なるという問題も放置できなかった。

困難な課題をすべてクリアし、ベンツはガソリンエンジンで走る三輪自動車「パテント・モートルヴァーゲン」を作り上げたのだ。
1885年に試運転に成功し、1886年に特許が認められた。これによって、ベンツは世界初のガソリン自動車を造ったエンジニアという栄誉を得たのだ。

“馬のない馬車”を、人々がすぐに受け入れたわけではない。悪魔の乗り物として恐れるものもいたし、将来性に疑問を投げかける論調もあった。
そんな中、1987年にはパリからやってきたフランス人が興味を示して購入する。小規模ながら、自動車がビジネスになったのだ。

その後ベンツは「ヴィザヴィ」「ヴェロ」などのモデルを発表し、順調に販売を伸ばしていく。ダイムラーも「シュトゥルラートヴァーゲン」で自動車販売に乗り出した。ダイムラー車の顧客だったエミール・イェリネックが提案したのが、クルマに「メルセデス」という名をつけることだった。ダイムラーではいかにも堅く、自分の長女の名でもある女性名にしたほうがイメージがいいというわけだ。

1902年にメルセデスという名称はダイムラーによって正式に商標登録される。そして、第1次大戦後の不況の中、ダイムラーとベンツが合併してダイムラー・ベンツ社が誕生する。ダイムラー社のメルセデス・ベンツには、自動車誕生の記憶が組み込まれているのだ。

1886年の出来事

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カプローニ伯爵誕生 

カプローニ伯爵誕生

スタジオジブリの宮崎駿監督にとって最後の長編アニメーションとなった『風立ちぬ』は、ゼロ戦(零式艦上戦闘機)を開発した堀越二郎が主人公だった。宮崎作品なのだからただのリアリズムであるはずはなく、人物造形は史実とは大きく異なっている。
少年時代から堀越が夢の中で幾度となく出会ったのが、イタリアのジャンニ・カプローニ伯爵だった。彼は実在の人物で、1886年に生まれている。彼は航空工学や電気工学を学び、航空機を製造するカプローニ社を創業した。第1次世界大戦では、爆撃機を設計・製造している。
映画の中に出てきた3階建ての飛行艇も、実際に作られたものだ。映画で描かれたとおり、実際にも試験飛行で墜落して湖に沈んでしまった。その後自動車エンジンの製造も手がけるが、すでに会社は消滅している。

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帝国大学誕生

帝国大学誕生(東京大学総合図書館 画像提供)

1886年は、年号で言うと明治19年にあたる。維新後の混乱も収まり、近代国家として発展していこうという機運が高まっていた。国家を支える人材を育てるため、教育のシステムを整備することが重要な課題となった。同じ年に、小学校令や中学校令も施行されている。
この時点では、帝国大学は1877年に設立された東京大学だけだった。東京開成学校と東京医学校が合併したものである。帝国大学令によって大学院と5つの文科大学が定められ、近代的な大学の体裁が整えられた。

2番目の帝国大学が京都に設立されたのは、11年後の1897年である。その後東北帝国大学、九州帝国大学などが作られ、地方でも高等教育を受けられるようになった。戦後に国立学校設置法によって改組されたが、今も旧帝大は日本の最高の教育機関として威信を保っている。

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コカ・コーラ誕生

コカ・コーラ誕生

コカ・コーラと自動車は、同じ年に生まれた。1886年、アメリカジョージア州の薬剤師ジョン・S・ペンバートンが調合したシロップがコカ・コーラと名付けられたのだ。今に至るもレシピは非公開である。
水で割ったものがソーダファウンテンで提供され、1杯5セントだった。その後炭酸水で割るようになり、人気が高まっていった。1895年には全米で販売が開始され、国民的飲料に成長していく。
さらに普及を後押ししたのは、ボトリング方式の採用だった。各地のボトリング工場とフランチャイズ契約し、1916年には瓶の形が標準化された。キャデラックが部品の標準化を達成したのは、1908年である。自動車産業が生んだ方式が、食品産業にも及んだのだ。

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[ガズー編集部]