パリ=ダカールラリー――砂漠の覇者Mitsubishi(1997年)

よくわかる 自動車歴史館 第13話

社員ドライバーの挑戦

日本では今もパリダカという名で呼ばれることが多いが、現在の正式名称はダカールラリー(Rallye Dakar)である。パリからスタートするコースで行われたのは、2001年が最後だった。さらに、2009年からはダカールとも縁がなくなった。現在は、アフリカではなく南アメリカにコースが設定されている。2014年は、アルゼンチンのロサリオを出発し、ボリビアを経てチリのバルパライソまでを2週間かけて走る。それでも、われわれ日本人はどうしてもパリダカと呼んでしまうのだ。それは、三菱パジェロ、そして篠塚建次郎の奮闘を忘れることができないからだろう。

1986年参戦の三菱パジェロ

篠塚が初めてパリダカに挑んだのは、1986年である。前年に俳優の夏木陽介がパリダカを走り、日本では大きな話題になった。夏木はダカールの1000キロ手前でリタイアしてしまい、次は完走を果たそうということで篠塚に白羽の矢が立った。しかし、彼にとってもラリーは8年ぶりのことだ。篠塚は三菱自動車の社員だった。学生時代にラリーを始め、腕を買われて三菱に入社した後は社員ドライバーとして国内外のラリーに参戦した。実績を重ねていったが、オイルショックと排ガス規制を受けて、三菱はモータースポーツから撤退してしまう。篠塚は営業部や企画部で一般社員として働きながら、チャンスを待っていた。

篠塚が出場したのは、市販車無改造のマラソンクラスである。街で普通に売られているパジェロに乗って、ゴールを目指した。自由に改造できるプロトタイプとの性能差は大きく、総合優勝は不可能だ。8年のブランクも大きい。それでも粘りの走りでクラス6位、総合46位という好成績を残す。パリダカ挑戦の機運は盛り上がり、翌年はプロトタイプで出場することが決まった。

1985年にパジェロは優勝を経験している。フランスの三菱自動車販売店であるソノートが、フランス人ドライバーの手で快挙を成し遂げていたのだ。1987年は「チームシチズン夏木」が編成され、監督が夏木、ドライバーが篠塚と彼の後輩である増岡浩のふたりということになった。ソノートが前年に使ったマシンを使っての参戦である。

冒険からスピード競技へ

成果は華々しいものだった。篠塚は、総合3位という望外の成績を収めたのである。日本ではこの快挙が大々的に報道され、パリダカは一気に最も有名なモータースポーツとなった。翌1988年、期待が高まる中で出場した篠塚は、前年を上回る2位という成績を得た。これを受け、パリダカ参戦は広告宣伝活動という枠組みを離れて正式な活動として承認される。三菱は会社を挙げて取り組む体制を整えたのだ。次に誰もが願ったのは、もちろん日本人ドライバーによるパジェロの優勝である。篠塚の勢いを見れば、それはすぐにでも実現すると思われた。しかし、砂漠の覇者になるのはそんな簡単なことではなかった。

初めてパリダカが開催されたのは、1978年の暮れである。パリのシャイヨ宮前の広場から、合わせて200台近くのオートバイと自動車がスタートを切った。ゴールは、海を渡ったアフリカにあった。セネガルの首都ダカールを目指し、約1万2000kmを走るのだ。ラリーの主催者は、ティエリー・サビーヌというフランス人である。前の年にアビジャン-ニースラリーに出場した彼は砂漠で遭難しかけて救出され、その経験に感銘を受けた。過酷な環境でサバイバルする素晴らしさを多くの人と共有するため、壮大な計画を構想したのだ。

ラリーという名で呼ばれるが、公道で行われるWRCのような競技とは異なるカテゴリーに属する。砂漠やジャングルなどの荒れ地を走破する長距離の競技は、ラリーレイド、あるいはカントリーレイドと呼ばれて区別されているのだ。パリダカは世界最大の砂漠であるサハラを制覇するコースであり、「世界一過酷なモータースポーツ」と称されたわけだ。

初期は冒険的な要素が大きかったが、ポルシェが959で参戦したあたりから激しいスピード競争が展開されるようになった。市販車とはまるで違う軽量な空力ボディーをまとい強力なエンジンを搭載したモンスターマシンが、砂漠を200km/h以上で突っ走るのだ。当然のことながら、危険は増していく。砂丘を越えたところに穴があれば、ジャンプしてフロントから落ちてしまうことだってある。実際に篠塚は1991年に190km/hで80メートル宙を飛んで9回転し、リタイアに追い込まれた。

フランス勢との戦い

1990年~1991年のパリ・ダカールラリーを制したシトロエンZX
1992年 初優勝した三菱パジェロ
1997年 日本人がパリダカ初優勝時の三菱パジェロ
篠塚健次郎氏

パジェロに立ちはだかったのは、プジョーとシトロエンだった。1987年から1990年までプジョーは4連勝し、1991年は同じPSAグループのシトロエンが同じマシンで参戦して優勝した。WRCの経験で得たノウハウをフルに生かし、すさまじいスピードで砂漠を駆け抜ける。マシンは激しく傷むが、大規模なサポートチームが砂漠の中に工場を出現させ、一夜にして新品同様のマシンに仕立て直すのだ。

三菱は本腰を入れて対策を講じるようになる。市販車をベースとして改造するのではなく、まったく新しい先行試験車を作り上げたのだ。ボディーはコンピューターでシミュレートしたエッグシェイプを採用し、最高速度を高めた。エンジン搭載位置はフロントミドシップとし、前後重量配分を50:50に限りなく近づけた。1992年、パジェロはついに優勝を果たす。1993年も制して連覇するが、ドライバーはフランス人だった。篠塚はそれぞれ3位、5位と健闘したものの、悲願は達成できなかった。1994年からは、シトロエンが3連勝して強さを見せつける。

篠塚が、そしてパジェロが相手にしたのは、ライバルチームだけではなかった。1994年には、砂嵐の中を30時間かけて2台のパジェロが砂丘を越えてチェックポイントに到達したが、不可解な理由でゴールがキャンセルされてしまう。努力が順位に反映されないという事態に、三菱は抗議して撤退を決めた。この時以外にも、不思議な出来事が起きていた。燃料タンクの容量から考えるととても走破できない距離を平然と走り抜けてきたマシンがあったと、篠塚は著書に書いている。

初参戦から12年目、ついにその時がやってきた。1997年はレギュレーションが大きく変更された。エスカレートする高速化に対処し、改造範囲に規制が加えられたのだ。シトロエンは撤退したが、新たな強敵としてジャン・ルイ・シュレッサーのバギーが浮上していた。トヨタや日産、韓国のサンヨンも万全の体制で挑んできた。迎え撃つ三菱はこれまでの苦労がうそだったかのように好調で、終盤に至っても1位から4位を独占していた。ここで総合1位にいた期間が一番長かった篠塚を優先するというチームオーダーが出された。

日本人のパリダカ初優勝は、最後は戦うことなく手に入った。しかし、それは12年間の試練と苦難のたまものなのだ。戦ったからこその勝利である。その後篠塚は会社から監督への転身を打診されたが、あくまで現役続行を望んだ彼は退社して日産からの参戦を選ぶ。勝利してもなお、戦い続けることを望んだのだ。

※2014年1月4日、「ダカールラリー 2014」が開催されます。今年も、トヨタ車体“チームランドクルーザー”が市販部門優勝目指し、ランドクルーザー2台で参戦します。是非、応援してください!
チームランドクルーザー[トヨタ車体]

1997年の出来事

topics 1

21世紀に間に合ったプリウス

21世紀に間に合ったプリウス

「21世紀に間に合いました」
初代プリウスのキャッチコピーには、誇らしげな気持ちが素直に表現されている。1995年の東京モーターショーに出展されたコンセプトカーが、実際に量産車として登場したのだ。

ガソリンエンジンと電気モーターという2つの動力源を備え、精密な仕組みでコントロールするハイブリッドカーである。燃費は10・15モードで28.0km/リッターと、当時としては驚異的な数字だった。ただし、215万円という価格は同クラスのカローラと比べると5割ほど高かった。

それでも環境問題がクローズアップされる中でプリウスは評価を高め、この年のカー・オブ・ザ・イヤーを受賞する。はじめは冷ややかな目で見ていた欧米の自動車メーカーも、しばらくすると追随せざるを得なくなったのだ。

topics 2

東京湾アクアラインが開通 

東京湾アクアラインが開通

東京湾を横断して川崎から木更津を結ぶ道路で、川崎側のトンネル9.6kmと木更津側の橋4.4kmで構成される。1987年に着工し、10年間で完成した。トンネルと橋の接続部分には人工島が作られ、海ほたるPAとして利用されている。

当初通行料は普通車で5050円とされたが、高すぎるとの声が多く4000円に減額された。さらに3000円に下がったところにETC割引で2320円とされ、2009年からは社会実験割引という名目で800円という大幅な値下げが実現した。

木更津ではアクアライン開通による地域の活性化が期待されていたが、逆にいわゆるストロー効果によって経済活動が衰退するという現象が起きた。開通後に、木更津駅前にあったそごう、西友、ダイエーなどがそろって撤退してしまったのだ。

topics 3

山一證券が破綻

山一證券が破綻

山一證券は日本の四大証券会社のひとつだったが、損失隠しの発覚がきっかけとなって経営破綻し、1997年11月に自主廃業に追い込まれた。かつては日本最大の規模を誇ったが次第に衰退し、高度経済成長期以降は常に4位の座にあった。

バブル崩壊で株価が暴落し、多額の損失を抱えることとなったが簿外債務の形で隠ぺいされていた。明らかな粉飾決算である。それに加え、総会屋への利益供与があったことも発覚した。コーポレート・ガバナンスがまったく機能していない状態で、破綻後に元経営陣が逮捕されて有罪となった。

最後の社長となった野澤正平氏の会見がテレビで流され、号泣しながら「私たちが悪いんです。社員は悪くありません」と叫ぶ姿が強い印象を残した。衰退する日本経済を象徴する映像だと受け止められたのである。

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[ガズー編集部]

MORIZO on the Road