<自動車人物伝>本田宗一郎(1946年)

よくわかる 自動車歴史館 第15話

テストライダーはモンペ姿

原動機付き自転車“バタバタ”(1946年)

1946年、浜松の街をけたたましい音を立てて自転車が走った。乗っているのはモンペ姿の女性で、後部には湯たんぽが取り付けられている。中には代用ガソリンの松根油が入っていて、陸軍の無線機発電用のエンジンを動かしていた。これが、本田宗一郎が作った最初の製品である。焼け野原の中でこのエンジン付き自転車は大人気となり、爆音のうるささから“バタバタ”と呼ばれるようになった。

さっそうと風を切って走っていたのは、さち夫人である。彼女が愛用していた湯たんぽを拝借して部品として使ったお礼なのか、“テストライダー”として起用されたわけだ。このエピソードは、カール・ベンツが作った三輪自動車でベルタ夫人が長距離走行テストを行った事実を思い起こさせる。本田宗一郎とカール・ベンツには、ほかにも共通点があった。父親が鍛冶屋だったこと、そして技術を体で覚えたことだ。ベンツは工業高等学校を卒業して、蒸気機関車の製造工場に職人として就職する。2年半の間、朝から晩まで働き続けるうちに、彼は自動車の構想をふくらませていた。

本田宗一郎は、高等小学校を卒業後すぐに上京して自動車修理工場ででっち奉公を始める。雑誌で募集広告を見て自ら手紙を送ったのだ。浜松の農村で生まれた宗一郎は、8歳の時に初めて自動車を見て自分でもいつか作ってみたいと思った。東京の本郷湯島にあったアート商会は、夢を実現するための第一歩だった。最初は子守ばかりさせられていたが、修理をまかされるようになると上達は早かった。彼は小学校6年生の時に蒸気機関を作って動かしたほどの機械マニアである。鍛冶屋のかたわら自転車屋を開業していた父の手伝いで、修理にも慣れていた。

ピストンリング製造での苦闘

自動車修理の技術を会得したことが認められ、21歳の若さでのれん分けを受ける。宗一郎は故郷に帰り、アート商会浜松支店を開業した。近くには自動車修理工場がまだ少なく、業績は順調だった。鉄製スポークの発明などで特許料を稼ぐようにもなり、25歳の時には50人もの従業員を抱える大工場に発展していた。青年実業家、発明家として、浜松では知らぬ者のいない存在となった。これが本人の言うところの“第一次黄金期”なのだが、これから何度も浮き沈みを経験することになる。

修理をしていることに満足できなくなってしまった宗一郎は、ピストンリングの製造に乗り出す。夢の始まりはいつか自分で自動車を作りたいというものだったのだから、彼にとっては自然な行動である。ただ、エンジンの内部で潤滑油を制御する部品のピストンリングは、高い精度と耐久性を求められる。無謀な挑戦だと猛反対を受けたが、彼は別会社の東海精機重工業を設立して日夜研究にいそしむことになる。しかし、簡単には成果は現れない。やがてアート商会が稼ぎだした金を、おおかた使い果たしてしまう。

3年後にようやく実用化のめどが付き、トヨタから3万本の注文が入る。しかし、サンプルとして提出した50本のピストンリングのうち、47本が不良品として突き返されてしまう。製造工程に問題があったのだ。研究を重ねて28件もの特許を取得し、安定した製品を送り出せるようになったのは2年後である。

技術的問題は努力によって解決することができたが、エンジニアの力ではどうすることもできない事態が迫っていた。日本は軍国主義の道を歩み、1938年には国家総動員法が発布される。1941年には太平洋戦争が始まり、統制経済の中で自由な研究開発は禁じられた。東海精機は軍需省の指示によりトヨタから40%の出資を受けることになり、宗一郎は社長を退任する。

浜松は空襲と艦砲射撃にさらされ、街は壊滅状態となった。終戦で平和が訪れたものの、経済は崩壊している。宗一郎が苦心して開発したピストンリングの需要は皆無だった。彼は会社の持ち株を45万円でトヨタに譲渡し、闇酒のどぶろくを作って飲むばかりの生活を送った。

50年を経て夢がかなう

無為な暮らしを脱し、再起してバタバタを作ったのは1年後である。原資の45万円で本田技術研究所を設立し、バラックの工場に工作機械を入れた。陸軍が残したエンジンを買い集め、客の持ってきた自転車に取り付けた。エンジンの在庫はすぐ底をつき、宗一郎はオリジナルのエンジンを開発する。1947年に生産を開始した2ストロークのA型エンジンは、50ccで0.5馬力という性能でよく売れた。小さな成功だが、世界のホンダはここから始まったのだ。

ホンダ・ドリームD型(1949年)
ホンダ・スーパーカブ(1958年)
ホンダは1959年にマン島TTレースに初出場。谷口尚己選手が「RC142」を駆って6位入賞を果たした。

「あくまでも人間さまが買ってくれる品物をつくりだすこと、より人間に奉仕する品物をいかにつくるかがわれわれの課題であるべきだ」
1963年に出版された著書『俺の考え』の中の言葉だ。もの作りの権化のような彼にとって、世の中になかったものを作り出すことは大きな喜びだったに違いない。ただ、この後の道のりは苦難の連続だった。

1949年に3馬力のD型エンジンを搭載した本格的二輪車ドリーム号を発売したが、売れ行き不振で資金繰りが悪化する。追い込まれたホンダに入社して危機を救ったのが、藤澤武夫だった。この後、“経営の藤澤”と“技術の本田”のコンビで会社を成長させていくことになる。銀行との交渉や販売店の拡大にたぐいまれな能力を示した藤澤のおかげで、宗一郎は技術開発に専念することができた。

OHVエンジンを載せたドリームE型がヒットし、カブF型エンジンが成功したことで、ホンダは日本最大のオートバイメーカーになった。1958年にはスーパーカブが発売されて世界を席巻し、1959年にはオートバイレースの最高峰たるマン島TTレースに参戦する。わずか3年でチャンピオンとなり、名実ともに世界のトップメーカーに踊り出たのだ。

この間も何度か経営危機に陥ったが、藤澤の獅子奮迅の働きで乗り切った。1963年、ホンダは四輪自動車の世界に進出する。宗一郎が子供の頃に思い描いた夢は、50年の時を経てついに実現した。

1946年の出来事

topics 1

パリサロンでルノー4CV発表

ルノー4CV

戦争が終わり、フランスでは復興に向けて新しい乗用車が待ち望まれていた。ルノーでは最初の生産車種として2リッターの中型車も候補にのぼっていたが、戦後の荒廃の中で必要とされるのは小型車だろうという意見が多数を占めた。

戦時中にすでに開発が進められていたのが、リアに760ccのOHVエンジンを搭載した大衆車である。1946年のパリサロンで4CVの名で発表され、1年後に発売されると3年のバックオーダーを抱える大ヒットとなった。

開発したのはルノー研究部門のフェルナン・ピカール技師だが、フランス占領軍のもとにあったフェルディナント・ポルシェ博士がサスペンションなどにアドバイスを与えたという話もある。フランスのみならずヨーロッパ各地で人気となり、日本でも日野によってライセンス生産された。

topics 2

富士と三菱がスクーター製作

スバル・ラビット
三菱シルバーピジョン

敗戦で進駐軍から飛行機の製造を禁止された中島飛行機は富士産業と改称され、細々と鍋や釜を製造するしかなかった。新たな製品を模索していた技術者が米軍のパウエル・スクーターを見て試作したのがラビットである。

陸上爆撃機「銀河」の尾輪を流用し、135ccの4ストローク単気筒エンジンを搭載していた。翌1947年から量産され、1968年まで製造された。1959年のテレビドラマ『少年ジェット』では主人公が乗っている。

ライバルとなったのが、三菱重工業(中日本重工業)のシルバーピジョンである。こちらは112ccの2ストローク単気筒エンジンを積み、人気を二分した。1964年に生産を終了している。

topics 3

天皇が“人間宣言”

進駐軍は1945年12月に神道指令を出し、国家神道を禁止した。これを受けて翌1946年1月1日に発布された昭和天皇の詔がいわゆる“人間宣言”である。天皇が“現人神”であることを、自ら否定する文言が含まれていた。

一般国民にとっては、この年2月から始まった天皇の全国巡幸が、天皇制のあり方が変化したことを実感させる出来事だった。昭和天皇は2月の神奈川県を皮切りに日本各地を訪れ、歓迎する人々に親しく声をかけた。戦前戦中は軍服姿だった天皇が背広に中折れ帽という服装で現れたことが、象徴天皇制を浸透させるのに大きな力となった。

巡幸は中断しながら1954年まで続けられ、天皇は延べ165日かけて沖縄を除く46都道府県を訪れた。

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[ガズー編集部]