フォルクスワーゲン・ビートル(1947年)
よくわかる 自動車歴史館 第28話
国民車構想から生まれたKdF
第2次大戦でドイツの国土は荒廃し、産業は壊滅的な打撃を受けていた。自動車ももちろん例外ではない。連合軍の空爆は、工場をがれきの山に変えていた。しかし、その中から奇跡のようにドイツの自動車産業はよみがえった。戦争が終結した1945年、5月の無条件降伏から年末までに、1785台のKdFが製造されたのである。
KdFというのはKraft durch Freudeの略称で、“喜びを通じて力を”という意味だ。ナチス・ドイツのもとで国民の余暇活動を推進した組織の名であり、日本語では歓喜力行団と訳されている。ヒトラーは1933年に国民車構想を発表しており、大衆に広くクルマを普及させる構想を持っていた。優等民族であるドイツ人は誰もが豊かな暮らしを享受すべきであり、自動車を所有しなければならないと説いたのだ。国民の歓心を買うための、人気取り政策という意味合いが大きかった。
具体的な活動を担ったのが、KdFである。1938年に国民車はKdF-Wagen(歓喜力行団の自動車)と名付けられ、ニーダーザクセン州にStadt des KdF-Wagens(歓喜力行団の自動車市)を作って生産の基盤を整えた。これが、現在のヴォルフスブルクである。KdFは自動車購入のための積立貯蓄制度を設け、“自動車に乗りたいなら、毎週5マルク貯蓄しよう”と人々に呼びかけた。5マルクを払い込むとスタンプ帳に証紙が貼られ、満額の990マルクに達するとクルマを受け取ることができるという触れ込みだった。
しかし、KdFを受け取った人はひとりもいない。そもそも、生産すらしていなかった。工場で作られたのはキューベルワーゲンやシュビムワーゲンなどの軍用車だけであり、30万人以上が登録して積み立てた自動車購入のための資金は、すべて戦争遂行のために流用された。
ドイツの敗戦で、初めて国民車構想が日の目を見ることになった。進駐していたイギリス軍のアイヴァン・ハースト少佐が焼け残っていた自動車生産設備を見つけ、残っていた金型で小型乗用車生産を再開させたのである。
小型車開発を志したポルシェ博士
戦前のモデルであるにもかかわらずKdFは先進的な設計思想を持っており、必要にして十分な性能を安価に提供するというコンセプトを見事に具現していた。それも当然で、これはフェルディナント・ポルシェの作品なのだ。レースの世界で勇名をとどろかせていたポルシェ博士は、ファミリー向けの小型乗用車を開発する計画を持っていた。彼が属していたダイムラーではその構想は採用されず、独立してから発表したプロトタイプも、さまざまな困難に阻まれて生産には至らなかった。
ちょうどその頃国民車構想を発表したヒトラーが、ポルシェ博士に設計を依頼した。目的は異なるものの、自動車に求める要件は不幸なことに一致していた。1936年には最初のプロトタイプVW3を完成させ、1938年には最終型のVW38を披露している。ヒトラーが戦争をぼっ発させたのはその翌年で、量産化の目前でポルシェ博士の計画はまたもついえてしまった。
戦後ポルシェ博士が戦犯として収監されている間に、彼の手がけた画期的な小型乗用車はイギリス人の手によって命を与えられた。1946年までに1万台が生産され、1947年にはついに輸出が始まった。国民車にとどまらず、世界に向けた新世代の乗用車となったのだ。整備の手間の少ない空冷エンジンを採用し、RR方式をとることで室内空間を広くできる。軽量で堅牢(けんろう)なボディーは流線型で、ハイウェイで100km/h走行を可能にしながら燃費がいい。世界で受け入れられる条件はそろっていた。
ちなみに、ビートルというのはそのかわいらしい形状から英語圏で付けられた愛称である。KdFの名はさすがに使えないので、フォルクスワーゲン本社ではシンプルにタイプ1と呼ばれていた。同じフロアユニットを用いたキャブオーバー型のトランスポーター、俗にフォルクスワーゲンバスと呼ばれるのがタイプ2である。後にエンジンや外観に小変更が加えられると、フォルクスワーゲン1200などの記号的な名称が付けられることもあった。
1949年には、アメリカに進出する。大型車ばかりがもてはやされる国でも、ビートルは大きな人気を得た。小さくても安っぽくはなく、ヨーロッパの知的センスを感じさせる。燃費がよく、故障は少ない。セカンドカーとしての需要が掘り起こされ、爆発的な売れ行きを示した。戦争で戦った相手であっても、優秀な製品を作れば受け入れを拒む理由はない。
生産終了後も人々を引きつける魅力
アメリカ以外でもビートルの人気は高かった。早くからブラジルやメキシコでの生産が始まり、世界中に輸出されていった。時代の変化に合わせて、さまざまな改良が加えられた。当初1リッターだったエンジンは次第に拡大され、1960年代には1.3リッター、1.5リッターが主流となる。安全性を考慮してバンパーの形状が変更され、テールランプも大きくなった。1972年にはついにT型フォードが持っていた単一車種の生産記録1500万7033台を抜き、世界一の量産車となった。最終的には2100万台を超える台数が生産されている。
シンプルな構造だったことで、改造は容易だった。1970年代のアメリカ西海岸では、キャルルックが流行した。カリフォルニアで流行したカスタムのスタイルで、車高を下げたりルーフを切り取ったりする改造を施してポップなデザインに作り変えた。大排気量のエンジンに載せ換え、ドラッグレースを行うことも多かった。中にはピックアップやバギーにしてしまうなど、原形をとどめない大改造も珍しくなかった。
本家でも、ビートルをベースにして派生モデルが作られた。1948年には、早くもカブリオレをリリースしている。1955年には、カロッツェリア・ギアがデザインしたスタイリッシュなボディーを架装したカルマンギアがデビューした。性能的にはビートルとほとんど同等だったが、オシャレなクルマとして大ヒットした。
生産開始から20年を経ても、ビートルは世界中で数十万台の規模で売れ続けていた。とはいえ、さすがに設計の古さが目立つようになる。フォルクスワーゲンでは新型車を模索していたが、偉大な先達(せんだつ)のビートルに取って代わるモデルは現れなかった。ようやく世代交代を果たしたのは、初代ゴルフが登場した1974年のことである。その後の世界のコンパクトカーの基準となった革命的なモデルのおかげで、ビートルは役目を終えることができた。1978年に西ドイツでの生産が終了する。しかしまだ国外では需要が多く、メキシコでは2003年まで生産されていた。
1994年のデトロイトショーに出品されたコンセプト1は、来場者の目を驚かせた。それは、ビートルとそっくりな形をしたコンセプトカーだったのである。評判は上々で、1998年からニュービートルの名で市販化された。ベースとなっているのはゴルフIVだからFFで、RRだったビートルとはまったく別物だ。それでも、ダッシュボードに備えられた一輪挿しを引き継ぐなど、誰もがビートルの面影を感じられるようになっていた。ニュービートルの成功を受けて、BMWのMINI、フィアットの500など、かつての名車のイメージを生かしたモデルが作られるようになった。
ニュービートルは2012年にザ・ビートルへと代わり、今も作り続けられている。世界中で愛されたビートルのイメージは、誕生から70年を経ても人々を引きつけてやまないのだ。
1947年の出来事
topics 1
ガソリン不足で電気自動車「たま」誕生
終戦後の混乱は物資の不足を招き、ガソリン不足も深刻な問題だった。そこで動力を電気に求める発想が生まれた。立川飛行機の自動車開発部門が民需転換のために開発したのが、電気自動車だった。
1946年には試作車が完成していたが、工場がアメリカの管理下に置かれてしまう。自動車開発の道を絶たれたエンジニアたちは新会社の東京電気自動車を立ち上げ、開発を続行した。
1947年8月、「たま」と名付けられた電気自動車が登場する。工場の所在地が東京都北多摩郡府中町だったことにちなんでの命名である。最高速度は35km/hで航続距離は65kmだったが、当時ほかの工場で製作されていた電気自動車に比べればかなりの高性能だった。
モーターと制御機器は日立製作所、バッテリーは湯浅電池の協力を得て開発された。45万円という価格だったが、ガソリン不足の中では大きな価値があり、市場からは注目されていた。翌年には改良型の「たまジュニア」「たまセニア」を発売し、商業的な成功をおさめる。
最高速度55km/h、航続距離200kmまで性能を高めたが、1950年に起きた朝鮮戦争の特需で鉛価格が急騰し、電気自動車は価格競争力を失ってしまう。たま自動車と改名した会社はガソリン自動車の製造に転換し、富士精密工業と合流した。1952年にはプリンス自動車工業が発足し、さらに後には日産に加わっていくことになる。
topics 2
日産が戦後初の乗用車DA型を発売
1947年6月、日本の乗用車生産を禁じていたGHQが大型50台、小型300台に限って生産を許可する通達を出した。これを受け、トヨタは10月にSA型を発表し、乗用車生産への意欲を示した。
対する日産は、8月に完成させていた試作車をもとに、11月にダットサン・スタンダードセダンDA型を発表する。戦前型のシャシーにサイドバルブの722ccエンジンを搭載し、作りやすさを優先して直線的なデザインを採用していた。ごく少数が販売されたが、本格的な乗用車生産の開始とは言えない。
翌年、新たな設計で登場したのがデラックスセダンDB型だった。クロスレーに似たボディーは、中日本重工業が製造していた。1950年にはエンジンが20馬力の860ccへと大型化し、DB-2型になった。その後改良を重ね、1954年のDB-6型まで生産される。
1955年にデビューしたダットサン110が、真の戦後型乗用車と考えられる。この系譜はブルーバードへと続き、日産の中核車種となっていく。オースチンとの提携で技術を高め、ようやく純国産の乗用車を作り上げることができるようになったのだ。そこに至るまでには、戦前からのダットサンの伝統を受け渡すためにDA型、DB型で生産技術の継承が試みられていたのだ。
topics 3
日本国憲法施行
ポツダム宣言受諾によって日本は憲法改正の義務を負うことになり、連合国の監督のもとに新憲法の草案が作成された。明治に制定された大日本帝国憲法が効力を持っていたため、新憲法は改正という形をとる。1946年5月に開かれた議会で審議・可決され、11月3日に公布。翌1947年5月3日に施行された。この日は、憲法記念日として祝日になっている。
国民主権、基本的人権の尊重、平和主義が日本国憲法の3大要素と考えられている。前文には「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言」するとあり、「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」と理想主義をうたいあげている。
第1条は天皇の地位について定めていて、「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」となっている。これにより、国民主権が規定されている。
いくども議論になっているのは戦争の放棄を定めた第9条で、政治の場で大きな争点となってきた。憲法改定が政治課題になったことは多いが、実際に発議されたことは一度もない。
【編集協力・素材提供】
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[ガズ―編集部]
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