ノックダウン生産の時代(1953年)
よくわかる 自動車歴史館 第29話
欧米に追いつくための選択
日本でノックダウン生産が始まったのは、1925年のことである。1905年から日本への輸出を始めていたフォードは、アジア最大の経済大国となった日本を重視し、横浜にT型フォードの工場を建てて現地生産に乗り出したのだ。部品はすべて本国アメリカから運び、組み立てのみを行った。当時の日本の技術水準では、精度の高い部品を製造することはできなかったからだ。1927年にはGMもシボレーのノックダウン生産を始める。
日本の自動車市場は、またたく間にフォードとGMに席巻されていった。道を走る自動車は増えてきたものの、そのほとんどはこの2社の製品だった。フォードの工場は年産1万台の規模に達し、輸出も行うようになる。それでも日本は工場として利用されているだけであり、自動車の製造技術を学ぶことはできていない。
この状況に危機感を持ったのが、トヨタの創業者である豊田喜一郎だった。彼は国産乗用車の開発を目指して研究に没頭する。ようやく国産車の生産が軌道に乗りかけた頃、フォードとGMのノックダウン生産は終了する。日米関係の悪化を受け、両社は操業停止を余儀なくされたのだ。
戦争が終わると、日本では自動車の生産がGHQから禁止された。それどころか、戦時中は自動車会社が軍用車を生産していたこともあり、工場が接収されるおそれさえあった。そんな状況でも、自動車産業再興への模索が行われていた。トヨタはSA型、日産はダットサンDB型を発表し、乗用車生産に乗り出した。しかし、欧米との技術レベルの差は歴然としていた。戦争中には民生用自動車の開発がストップしていたので、またゼロから始めなければならない。
経済復興を急ぎたい政府は、海外メーカーとの提携で技術移転を図るよう働きかけた。ノックダウン生産を行うことで、欧米との差を縮めようとしたのだ。戦前と違い、部品を製造する工場は育ってきているので、ただの下請けにはならないと判断した。その結果、日野がルノー公団、日産がオースチン、いすゞがルーツと提携することが決まる。トヨタはこの路線に乗らず、アメリカ車の研究を進めて独自開発する道を選んだ。
日野、日産、いすゞが欧州メーカーと提携
3社のうち日野といすゞは戦前のヂーゼル自動車工業から発展した会社で、もともとはトラックを製造していた。乗用車製造の経験はないが、新たな分野に挑戦しようとしていた。1953年、3社がノックダウン生産を開始した。
日野が組み立てたのは、戦後フランスで大人気となっていた4CVである。748ccの直列4気筒OHVエンジンをリアに搭載した小型車で、リアはスイングアクスル、フロントはウィッシュボーンの四輪独立懸架を採用していた。収監中だったフェルディナント・ポルシェ博士が設計にアドバイスを与えたという話もある。広い室内と強力な動力性能、快適な乗り心地が評価され、ヨーロッパ各地、さらにアメリカにも輸出された。1961年の生産終了までに、合計110万台以上を販売したヒット作である。日野ルノーは73万円からという価格の安さもあり、タクシーとして広く利用された。1963年までに、約3万5000台が作られた。
日産は、オースチンのA40サマーセットを生産した。1.2リッター直列4気筒エンジンを搭載したセダンで、日野ルノーよりひとまわり大型だった。価格は111万4000円である。日本にはすでに多くのオースチン車が走っていて、ブランドは知られていた。本国でモデルチェンジがあり、1955年からはA50ケンブリッジの生産に切り替えた。ボディーはさらに大型化し、エンジンは1.5リッターに拡大された。日産はこのモデルチェンジも大過なくこなし、自動車製造のノウハウを身につけていった。
いすゞが組んだルーツグループは、ヒルマン、サンビーム、タルボといったメーカーが合同した会社である。いすゞが生産したのは、ヒルマン・ミンクスだった。当初採用していたのは1.3リッター直列4気筒のSVエンジンだったが、1955年に1.4リッターOHVに変更されている。このクルマも1956年にモデルチェンジを経験し、1964年まで生産された。
いずれも最初は多くの部品を輸入していたが、徐々に国産化比率を高めていった。日野ルノーは1958年、日産オースチンは1958年、いすゞヒルマンは1957年に完全国産化を成しとげている。ノックダウン生産で、ヨーロッパの先進技術を学んでいったのだ。
習得した技術で独自モデルを開発
海外メーカーと提携しなかったトヨタは、1955年にクラウンを発表する。アメリカンスタイルのボディーに1.5リッター直列4気筒OHVエンジンを積み、リアはリーフリジッド、フロントはダブルウィッシュボーンの独立懸架を採用していた。堅牢(けんろう)な作りと柔らかな乗り心地が好評で、タクシー業界に広く受け入れられていった。ようやく純国産の乗用車が、世界と伍(ご)して戦える水準になったのである。
ノックダウン生産で腕を磨いた3社は、習得した技術を生かしてオリジナルのモデルを開発していた。部品の国産化率は100%になっており、独自開発のクルマを生産する基盤は固まっていた。日野が1961年に発売したのが、コンテッサ900である。駆動方式はRRで、ルノー4CVと同じだ。ミケロッティのボディーデザインは繊細で、伯爵夫人の意味を持つ車名にふさわしい優雅さを持っていた。1964年にはエンジンが大型化され、コンテッサ1300となった。日野は1966年にトヨタと提携してバス、トラックの製造に特化することになり、1967年にコンテッサの生産を終了したのを最後に乗用車は作っていない。
日産はオースチンの組み立てと並行してダットサンブランドの乗用車を生産していた。1955年の110、1957年の210には、オースチンから吸収した技術がつぎ込まれていた。そして、A50に代わるモデルとして1960年にデビューしたのがセドリックである。モノコックボディーに71馬力の1.5リッター直列4気筒OHVエンジンを積んだ意欲的なモデルで、トランスミッションは4段だった。当時としては非常に進歩的なクルマであり、オースチンから学んだものは大きかったのだ。
いすゞは、ヒルマンの生産がまだ続いていた1962年、独自モデルのベレルを発売した。クラウンやセドリックと同じクラスの中型セダンで、ガソリンエンジンに加えディーゼルエンジンも採用していた。商業的にはさほど成功したとはいえず、ヒルマン・ミンクスでの経験が生かされたといえるのは、1963年発売のベレットだろう。日本初のディスクブレーキを備えたスポーティーなモデルで、翌年に登場したGTは60年代の名車として名を残している。
戦前のフォードとGMのノックダウン生産は、日本の自動車産業にほとんど恩恵を与えなかった。その点、戦後の1950年代に行われた欧州メーカーとの提携はまったく様相が異なる。彼らの進んだ技術を学んだことで、日本のメーカーは急速に世界の水準に追い付くことができた。その後世界を席巻するに至る日本車の実力は、この時に鍛えられたのである。
1953年の出来事
topics 1
自動車産業展示会開催
現在は隔年で開催されている東京モーターショーは、1954年に日比谷公園で開催された全日本自動車ショウが第1回とされる。その前年、“第0回”ともいうべき自動車イベントが開催されていた。バス事業50周年を記念して開かれた自動車産業展示会である。
上野公園の動物園前広場が会場で、主催したのは日本乗合自動車協会だった。実際に運営していたのは六日会で、1951年に自動車会社の宣伝担当者が集まって発足させた親睦と情報交換のための組織である。日産自動車、トヨタ自販、いすゞ自動車、日野ヂーゼル工業、民生デイゼル工業、三菱ふそうの6社が参加していた。
会の趣旨は、「メーカーが共同して、自主的に国際的にも通じるモーターショーを開催し、国産車のPR とモータリゼーションの推進をはかるべきである」というものだった。彼らは会社の垣根を越え、自動車のイベント実現のために協力したのである。
展示会に並べられたのはバスやトラックが主体だったのはもちろんだが、トヨペットSFK型セダンやプリンス・セダンなどの乗用車も展示されていた。このイベントの経験を生かして翌年行われた全日本自動車ショウには自動車メーカー8社が参加し、部品や用品の会社を含めると254社が参加した。
topics 2
シボレー・コルベット発売
1953年、GMが独自に開催していたモーターショー「モトラマ」に展示されたのが、シボレー・コルベットのプロトタイプである。アメリカ車にそれまでほとんど存在しなかったスポーツカーで、白いFRPボディーをまとった軽量なオープン2シーターは熱狂的に歓迎された。
コルベットのコンセプトを提案したのは、GMのデザイン部門を仕切っていたハーリー・アールである。彼はヨーロッパから軍人たちが持ち帰ったMGやアルファ・ロメオなどのヨーロッパ製スポーツカーに触れ、大いに感銘を受けたという。アメリカでもスポーツカーを作る必要があると考え、秘密裏にプロジェクトを進めた。
ゼロから設計する資金はなかったので、エンジンやギアボックスは量産モデルのものを流用した。スチール製のバックボーンフレームに量産車初となるFRPボディーを採用し、2シーターのオープンスポーツに仕立てあげた。当初は直列6気筒だったが、強力なV8エンジンを積むと爆発的な人気を呼び、パワフルな小型スポーツカーとして地位を確立していく。
1954年にはフォードが対抗馬のサンダーバードを発表し、ハイパワー競争が繰り広げられることになる。コルベットは1963年にフルモデルチェンジされて2代目となり、スティングレイと呼ばれたエッジのきいたデザインでさらに人気を拡大していった。
topics 3
吉田茂首相“バカヤロー解散”
1951年、吉田茂は首相としてサンフランシスコ講和条約を締結し、アメリカとの間に安全保障条約を結んだ。内閣の支持率は高く、政権の運営は順調に見えたが、ワンマンな性格は敵を作ることも多かった。鳩山一郎が公職追放を解除されると抗争が再燃する。
事件が起きたのは第4次吉田内閣の時で、1953年2月28日の衆議院予算委員会での出来事だった。社会党右派の西村栄一議員との質疑の中で、席に戻る際につぶやいた「ばかやろう」という声がマイクに入ってしまい、西村議員が激高した。吉田が発言を取り消してその場は収まったが、後でこの発言が議会軽視だとして懲罰委員会にかける動議が提出される。
懲罰は課されなかったものの、その後提出された内閣不信任案が鳩山らが脱党して賛成したことにより可決され、吉田は衆議院を解散した。発端となった発言を冠して、これがバカヤロー解散と呼ばれる。
実際には西村議員とのやりとりはただの口げんかのようなもので、政治的な対立から暴言を吐いたわけではない。興奮したあまりの失言が、党内抗争に利用された形である。
4月19日に行われた選挙で自由党吉田派は議席を減らして過半数を割りながらも第一党となり、第5次吉田内閣が成立する。しかし、その後造船疑獄での指揮権発動がきっかけとなって世論の反発が強まり、反吉田派が結集して不信任案提出の構えを見せたことで総辞職を余儀なくされた。
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[ガズ―編集部]
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