わたしの自動車史(前編) ― 大川 悠 ―
つい最近、現在の自宅、神戸市東灘区の住宅街で、珍しいクルマを見つけた。駐車場の片隅でカバーに隠れていたそのクルマは、間違いなく古いシボレーだった。正確に言うと、1939年のシボレー・マスターデラックスである。見た瞬間からすごく懐かしかった。ブガッティやアルファのような名車ではなくて、戦前のごく平凡なアメリカ製大衆車だが、その民具のように素朴な雰囲気を前に、昔の記憶がよみがえってきて涙が出そうだった。
幼児の頃、つまり1940年代末期、私の家にはこれによく似たシボレーがあった。腐ったフロアに20センチ四方ぐらいの穴が空いていて、そこから激しい勢いで後ろに流れる地面が見えたという風景がなぜか脳裏に残っている。
これは会社のクルマだった。祖父が地方都市で事業を経営していて、その社用車だったが、ワンマンでいい加減な経営だったから、まあ私用車のようなものだった。やがて私が小学校の頃、つまり1950年代半ば、祖父は東京から、運転手とともに奇っ怪なクルマで帰ってきた。緑色のナマズのような大きなクルマ、それは1947年のカイザーだった。ほとんどの方がご存じないと思うが、第2次大戦でもうけたアメリカの鉄鋼会社が戦争直後に興した自動車会社がカイザーで、やがては吸収合併されて歴史の中に消える。
その47年カイザーは、お世辞にもカッコイイとは言えなかった。というより、むしろ醜悪に近かったが、戦後という新しい時代の息吹にあふれていたし、まだ見ぬアメリカという国の豊かさや前向きな明るさを全体で表現していて、私は一瞬にして魅せられた。
中学生になった頃までには、私はすっかり自動車少年になっていた。カイザーは自宅隣接のガレージに収まっていたから、大人用の自動車教本を見てあちこちをいじり回っていた。そしてある日、ついに見よう見まねでエンジンを掛け、ガレージの戸を開け放ち、ギアをローらしきところに入れてクラッチを離すと、クルマはずるずると狭い前庭を抜けて前の道路に滑り出た。初めてクルマなるものを運転した瞬間だった。
前の道路に真っすぐ出たまではいいのだが、問題はバックできなかったことだ。コラムのシフトレバーをどう操作してもリバースに入らない。ということは6mほどの前の道路を直角にふさぐ格好で、クルマは動かなくなってしまったのである。ついに家の人間に見つけられ、電話で運転手を呼んだ。押っ取り刀で駆けつけた運転手によれば、リバースに入れるにはコツがあるのだという。今にして思えば、緑のナマズは多分30分ぐらいは道路をふさいでいたはずだが、警官も来なければ苦情もなかったような気がする。つまり道路というのがそのくらいすいていた時代の話である。
もちろん家人からは散々怒られた。だが、その夜、私は街で撮影したクルマの写真を集めたアルバムの見返しページにこう書いた。「いつの日か、クルマを持つことを誓う」。中学1年生のこの夜、私の人生は決まったのである。
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[ガズ―編集部]
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