<自動車人物伝>バッティスタ・ピニンファリーナ(1930年)

よくわかる 自動車歴史館 第36話

馬車工房から始まったカロッツェリア

イタリアを代表するカロッツェリアとして、今日でも精力的に活動を続けるピニンファリーナ。写真は2013年のジュネーブショーに出展したコンセプトカー、セルジオ。
ダットサン・ブルーバード(410型)
ピニンファリーナがデザインを担当したプジョー406クーペ。リアタイヤの手前に、ピニンファリーナのエンブレムがあしらわれている。
ピニンファリーナといえば、長らくフェラーリ車のデザインを担ってきたことで有名。写真のF12ベルリネッタにも同社が携わっている。

イタリアの自動車産業は、デザインの面で常に大きな存在感を持ち続けてきた。多くのカロッツェリアが、魅力的なスタイルのモデルを送り出したからである。イタリア語でカロッツァは高級馬車を意味し、それを作る工房がカロッツェリアだ。もともとは上流階級向けに馬車を作っていたが、自動車が馬車に代わる交通手段として普及すると、クルマのボディーを架装するようになっていった。

他国にも同じような工房は存在していたが、ほとんどが消滅してしまった。しかしイタリアではカロッツェリアがデザイン会社として生き残り、イタルデザイン、ベルトーネなどが今も活動している。自動車に限らず、鉄道車両や航空機、家電や家具などのデザインをすることも多い。インダストリアルデザイン全般を請け負うようになっているのだ。中でもピニンファリーナは最大のカロッツェリアで、イタリアを代表する企業でもある。

ピニンファリーナは、イタリアの自動車メーカーではフィアットやアルファ・ロメオ、マセラティ、ランチアなどのデザインを請け負ってきた。フランスのプジョー、アメリカのGMやフォードなどとも関係が深い。日本のメーカーでは、日産のブルーバード410のデザインを手がけたことが有名だ。ホンダや三菱にも、ピニンファリーナがデザインしたモデルがある。

それでも、ピニンファリーナといえば、誰もが最初に思い浮かべるのがフェラーリだろう。1952年に両社の関係が始まり、現在に至るまで多くの魅力的なモデルをデザインしてきた。

1930年代に流線型のモデルを生み出す

バッティスタ・ピニンファリーナ
今日に受け継がれるピニンファリーナのエンブレム
ランチア・アプリリア・カブリオレ

ピニンファリーナは、ジョバンニ・バッティスタ・ファリーナによって1930年に創設された。当初の名称は、ピニン・ファリーナだった。これがピニンファリーナになるまでには、長い物語がある。1893年にピエモンテ州の貧しい家で11人兄弟の下から2番目の子として生まれた彼は、ピニンと呼ばれていた。長兄も同じジョバンニという名前で、区別するために愛称を使ったのである。

兄ジョバンニはスタビリメンティ・ファリーナという工房を始め、ピニンは11歳の時にそこで見習工として働くことになった。17歳になるとスタイリング部門と設計部門の責任者を任される。腕を磨いたピニンは、1930年にトリノで念願だった自分の工房を開いた。これが、カロッツェリア・ピニン・ファリーナである。製品には「ピニン」と「ファリーナ」の2つのエンブレムが付けられていたが、やがて1枚になって「ピニンファリーナ」がトレードマークになる。ブランドとしては、早い段階からピニンファリーナと認識されていたのである。

アルファ・ロメオ8C 2300クーペ・ヴィクトリアや、イスパノ・スイザ・クーペ・グランスポルトなどの高級車を手がける一方、フィアット508バリッラ・クーペといった小型車もデザインした。1930年代後半になると、ピニンファリーナは斬新な流線型のモデル群をたてつづけに生み出す。1937年のランチア・アプリリアは、風洞実験によって設計されたモデルである。これをベースにエアロディナミカと名付けられた流麗なボディーを作り出していった。フェンダーやグリル、ヘッドライトなどを統合し、クルマ全体が有機的なまとまりを持つ造形が試みられていた。

第2次大戦中は軍用トラックなどの生産に転じざるを得なくなるが、戦争が終わるとピニンは新時代のクルマ作りに向けて動き出した。ただ、1946年のパリサロンに参加しようとしても、敗戦国イタリアのメーカーは展示を拒絶されてしまう。彼は “自主的に”参加する道を選んだ。アルファ・ロメオ6C 2500 Sとランチア・アプリリア・カブリオレを運転して持ち込み、会場となったグラン・パレの玄関に並べて駐車したのだ。正式に展示されたモデルよりもこの2台が注目される結果となり、フィガロ紙は「悪玉ファリーナがプライベートサロンをオープン」と書きたてた。

習得した技術で独自モデルを開発

チシタリア202クーペ(提供 トヨタ博物館)
バッティスタ・ピニンファリーナ(左)とエンツォ・フェラーリ
(中央)、バッティスタの息子のセルジオ・ピニンファリーナ(右)。
フェラーリ212インテル・カブリオレ
フェラーリ400スーパーアメリカの前でポーズをとる、バッティ
スタ・ピニンファリーナ。

そして、1947年のチシタリア202が、ピニンファリーナの名を世界に知らしめることになる。チシタリアは1946年にピエロ・デュジオによって設立されたスポーツカーメーカーで、ダンテ・ジアコーザの設計したD46やポルシェ360チシタリアでレースに出場している。

デュジオがピニンファリーナに依頼したのは、空力性能に優れたクーペである。フェンダーとボディーをなめらかにつなげたチシタリア202のスタイルは革新的で、戦後の自動車デザインの方向性を決定づけたといわれる。ヴィラ・デステのコンクール・デレガンスではグランプリを獲得し、完成された近代的なフォルムは“動く彫刻”と評された。1951年にニューヨーク近代美術館で行われた展示会では優秀なデザインの8台に選ばれ、永久展示の指定を受けた。

この成功を見て興味をいだいたのが、エンツォ・フェラーリである。バッティスタもレースの世界で活躍を始めていたフェラーリに関心を持っており、いわば相思相愛だった。しかし、両人とも独自の思想を持つカリスマであり、顔合わせには困難が伴った。どちらも相手の本拠地に赴くことをよしとしなかったのである。二人の顔を立てるため、最初の会見はトリノとモデナのちょうど中間にあるトルトーナのレストランで行われた。

一度会ってしまえば互いに尊敬の念を抱くのに時間はかからず、フェラーリはピニンファリーナとの協力関係を築くことになる。それまではヴィニャーレやトゥーリングといったカロッツェリアに発注していたデザインを、ピニンファリーナに一任したのだ。最初に作られたモデルが1952年の212インテル・カブリオレで、均整のとれた上品な美しさを持っていた。同じ年にアメリカのナッシュとの事業提携が始まり、1955年にはプジョーとの協力関係を開始する。ピニンファリーナの名は、世界中に広まっていった。

これに答えたのが、イタリア大統領のジョバンニ・グロンキだった。「イタリアの産業とデザインを世界に知らしめた」ことを評価し、民事上、法律上のすべてにおいてピニンファリーナを正式名称とすることを認める大統領令を布告したのだ。ブランドと姓を一致させることは、バッティスタを支えてきた息子のセルジオが提案していたアイデアだった。カロッツェリア・ピニン・ファリーナは、これでカロッツェリア・ピニンファリーナとなった。

68歳になったバッティスタは、セルジオをマネージング・ディレクターに指名し、後継体制を整えた。1966年、大規模な研究調査センターを設立して年間25種のプロトタイプを製作する体制が整った直後、彼は永遠の眠りについた。72年の生涯は閉じられたが、ピニンという愛称はブランド名としてこれからも続いていく。

1930年の出来事

topics 1

ダットソン試作車が完成

1914年に脱兎号(DAT Car)を完成させていた快進社は、不況や関東大震災の影響で経営が悪化して1925年にダット自動車商会に改組し、さらに実用自動車製造株式会社と合併してダット自動車製造株式会社となっていた。「軍用保護自動車」の認定を受けていたダットが、量産設備を備える実用自動車と手を組むことで事業の基盤を固めようとしたのだ。

実用自動車ではアメリカ人技術者のウィリアム・ゴーハムの手によってリラー号が作られていて、そのシャシーにダットのエンジンを載せた小型乗用車を作ろうとした。内務省の進める自動車開発の構想に乗ろうとしたのである。エンジンは750ccだったが、内務省の方針は500ccの排気量に変わり、新たに水冷4気筒495ccのエンジンを製作した。

1930年に完成した試作車がダット91型である。最高出力は10馬力で、トランスミッションは3段だった。ボディーサイズは、全長2710mm、全幅1175mmという小さなもの。最高速度は約70km/hだったという。大阪~名古屋~焼津~東京間の運転テストを行い、耐久性を実証した。

この試作車は脱兎号よりも小さなサイズということで、DATの息子という意味でDATSONと名付けられた。しかし、この名前は評判が悪かった。SONが日本語の“損”に通じるから縁起が悪いというのである。そこで1932年に一文字変えてDATSUNとし、日出ずる国のクルマというプラスイメージに転換した。

ダット自動車が日産自動車となった際も、ダットサンのブランドは受け継がれた。その後NISSANブランドへの統一が進められて、ブランドとしては消滅する。しかし、新興市場向けの低価格ブランドとして復活することが発表され、インドやロシアなどで新ダットサンの製造・販売が開始されることが決まった。

topics 2

ベントレーがルマンで4連勝

1929年、1930年とルマンで連覇を果たしたベントレー・スピード6。

ルマン24時間レースが始まったのは、1923年である。フランスの片田舎で行われたイベントであり、第1回の参加車はフランス車30台に対して外国車は3台だった。そのうちの1台がベントレーである。

ベントレーは1919年に設立されたばかりの新興メーカーだった。創業者のW.O.ベントレーはレーシングドライバーをしていたこともあり、積極的にモータースポーツに参加する。ルマン24時間レースは、彼にとって格好のステージだった。

W.O.を支えたのは、「ベントレー・ボーイズ」と呼ばれるドライバーたちだった。自動車が好きな富豪の子息が集まり、ファクトリーチームとしてレースに参戦したのだ。ルマンでは、1924年の第2回大会で早くも優勝を飾っている。

一昼夜かけて公道を連続走行するという過酷なレースは注目を集め、ブガッティやアルファ・ロメオなどの強豪が参加するようになる。その中で、ベントレーは1927年から4連勝という強さを見せ、特に1929年、30年に出場したスピード6は最強のスポーツカーの名をほしいままにした。

しかし、大恐慌に発する不況の波にさらされ、ベントレーは経営危機に陥る。1931年にはロールス・ロイスに買収され、レース活動を休止せざるを得なくなった。

2001年、ベントレーはルマンに復帰した。1998年からフォルクスワーゲンの傘下に入り、レース活動が解禁されたのだ。アウディの開発したV8エンジンを搭載したマシンは、スピード8と名付けられた。2003年に総合優勝を飾り、73年ぶりに栄冠を手にしたのである。

topics 3

第1回サッカー・ワールドカップ開催

1904年に国際サッカー連盟(FIFA)が設立された。2014年には209の国と地域が加盟しているが、最初はフランス、ドイツなどヨーロッパの8カ国だけでのスタートだった。

世界選手権を行うことが要項に定められていたが、実際に世界大会が行われたのは1930年である。開催国はウルグアイで、参加したのは13カ国だった。地区予選はなく、すべて招待されたチームである。加盟国はヨーロッパから世界中に広がっていて、日本も前年に加盟していた。しかし、第1回大会に名を連ねたのはすべてヨーロッパと北米、南米の国だった。

この大会の出場国の中で、その後2014年大会まで連続で出場しているのはブラジルだけである。しかし、そのブラジルは第1回大会では1次リーグで姿を消している。決勝に勝ち残ったのはウルグアイとアルゼンチンで、開催国のウルグアイが初の王者となった。

第2次世界大戦のため1942年と1946年には中止となり、2014年のブラジル大会が20回目となる。これまでに優勝したのは8カ国で、ブラジルの5回が最多の記録である。

日本が出場したのは、1998年のフランス大会が最初だった。ブラジル大会で5回連続となる。

【編集協力・素材提供】
(株)webCG http://www.webcg.net/

[ガズー編集部]