オートモ号の真実(1925年)

よくわかる 自動車歴史館 第42話

見よう見まねで蒸気自動車を製造

初めて日本を走った自動車とされるパナール・エ・ルヴァソールの模型。(提供 トヨタ博物館)
山羽虎夫の蒸気自動車。

カール・ベンツがガソリン自動車の特許を取得した1886年は日本では明治19年、鹿鳴館(ろくめいかん)時代にあたる。前年には初の内閣が成立し、伊藤博文が初代総理大臣に就任。また東京では品川-赤羽間に鉄道が開通し、現在の山手線の原型ができた。憲法が発布されるのは3年後で、初の総選挙が行われるのはさらに翌年だ。街での主な移動手段は人力車だった。

日本はまだアジアの小国にすぎず、工業といえばようやく繊維業が発展しつつあった程度である。自動車工業が生まれるのははるかに先の話だが、クルマが初上陸したのは意外に早い。1898年、フランス人のテブネがパナール・エ・ルヴァソールを持ち込んでいる。オートバイはもっと早く、十文字信介が1896年にドイツのヒルデブラント・ウント・ヴォルフミュラー号を輸入している。

1903年、大阪で開かれた内国勧業博覧会に2台の自動車が出品された。ハンバーを持ち込んだジョージ・アンドリュース商会はデモ走行を披露し、観客の喝采を浴びた。岡山から来た実業家の楠健太郎と森房造もその中にいた。商売になると考えた彼らは購入を考えるが、価格は8,000円だった。巡査の初任給が8円だった当時では、とんでもない金額である。彼らは自分たちで自動車を作ろうと決意する。

岡山に帰ると、電機工場を営んでいた山羽虎夫に自動車製造を依頼する。自動車など見たこともなかった山羽は、神戸で商社に勤める兄のもとを訪ねた。そこにあった蒸気自動車を観察し、見よう見まねで製作を開始した。わずか半年で蒸気エンジンを作り上げ、1904年5月に試運転を行ったのである。シャシーとボディーはケヤキ材で、2気筒25馬力の蒸気エンジンを搭載した10人乗りのバスだった。

エンジンは快調で10km/h以上のスピードで走行したが、思わぬトラブルが発生した。タイヤが変形して走行不能になってしまったのである。空気入りのタイヤを製造できる工場はなく、ゴムを固めただけのソリッドタイヤを鉄板製のリムにボルト留めしただけの代物だった。国産車第1号は、量産化されることなく姿を消した。

国産初のガソリン自動車はタクリー号

吉田信太郎らが開発した“タクリー号”。
快進社が手がけた脱兎号。写真は1916年のもの。

1902年、自転車輸入を手がけていた双輪商会の社長吉田信太郎が仕入れのために渡米した。彼はニューヨークで行われていた第3回モーターショーに立ち寄り、日本にも近い将来自動車の時代がやってくると確信する。エンジンやトランスミッションなどの部品を購入して帰国し、オートモービル商会を設立してオートバイや自動車の輸入に乗り出した。ウラジオストックで自動車技術を学んでいた内山駒之助も合流し、自動車の製造を目指すことになる。

アメリカから持ち帰った部品を使い、内山は2台の自動車を製造する。それで自信を得た彼は、国産の部品でガソリン自動車を開発することを望んだ。そこに自動車好きで知られる有栖川宮威仁親王から依頼があり、1906年初頭から開発に着手する。有栖川宮家が所有していたダラックを手本にし、1年以上をかけて作り上げたのが国産吉田式自動車である。最高速度は16km/hで、ガタクリガタクリとのどかに走ったことから、タクリー号という愛称が付けられた。

エンジンは1837ccの水平対向2気筒で、出力は12馬力だった。模倣の域を出なかったものの、曲がりなりにも日本人が自力で製造したガソリン自動車といえる。1号車は有栖川宮家に納入され、その後計10台が製作された。中には、トラックに仕立てたものもあったようだ。タクリー号が走ったのは1907年で、その翌年にはフォードがT型の生産を開始している。日本で自動車製造の方法を模索していた頃、アメリカではすでに大量生産の時代に入っていた。

その後も自動車の製造に挑む者が現れたが、日本には金属や電気機器、さらにはガラスやタイヤなどの基礎的な工業力が育っておらず、苦戦を強いられていた。1911年になると、ようやく資本力の後ろ盾を得た自動車製造への動きが始まる。アメリカで機械工学を学んだ橋本増次郎が、東京・麻布に快進社自動車工場を設立したのだ。実業家の田健治郎、青山祿郎、竹内明太郎が経営に参加し、豊富な資金を得て開発を進めた。

快進社は、1914年の東京大正博覧会にV型2気筒エンジンを搭載する脱兎号(DAT Car)を出品する。DATとは、出資者3人のイニシャルを組み合わせたものだ。快進社はダット自動車製造へと発展し、合併や改組の後に日産自動車となった。

初めて輸出された日本車

日本初の量産車であるオートモ号。写真は、1999年に国立科学博物館とトヨタ博物館との共同プロジェクトによって復元されたものだ。
豊川順彌は、当時の日本の国情にあった小型車には空冷エンジンがふさわしいと考えており、オートモ号にも4気筒の空冷エンジンを搭載した。

これらの動きとは別に、乗用車の生産を目指していたのが豊川順彌である。三菱の創業者岩崎弥太郎のいとこである豊川良平の長男として生まれた彼は、幼い頃から陸軍工廠(こうしょう)や造船所を見て歩いたほどの機械好きだった。1912年、豊川は白楊社を設立して旋盤の製作などを始める。転機となったのは、1915年のアメリカ留学だった。機械工学を学ぶうちに自動車の魅力に取りつかれ、帰国して自動車製造を志した。

1921年、彼は2台の試作車アレス号を完成させた。1台は水冷1610ccエンジン、もう1台は空冷780ccエンジンを搭載していた。小型車には空冷のほうが向いていると考え、彼は空冷モデルを徹底的に研究してテストを重ねた。1924年には、東京から大阪まで40時間ノンストップの試験走行を成功させている。アレス号は、この年オートモ号と改名された。豊川家の祖先である大伴とオートモービルをかけたネーミングである。

1925年、東京・洲崎で行われた日本自動車競争倶楽部主催のレースに、オートモ号は唯一の国産車として参戦した。排気量ではるかに上回る外国車を相手に、わずか9馬力のオートモ号は奮戦して予選1位を獲得する。決勝では惜しくも2位に終わったが、3万人の観客から健闘をねぎらう大きな声援が送られたという。ちなみにこの時優勝したのは、アート商会が製作したカーチス号である。助手席にいたのは、この会社で修理工として働いていた若き本田宗一郎だった。

自信を持った豊川は、オートモ号の本格的生産を開始した。カタログには女優の水谷八重子を起用するという斬新な試みを取り入れていた。約300台が生産され、日本初の量産車と呼ぶにふさわしい実績を残したのだ。特筆すべきなのは、オートモ号が国内で販売されただけでなく、輸出されたという事実である。1925年11月、上海に向けて2台が海を渡った。もちろん日本車としては初めてのことだ。

しかし、オートモ号の販売は成功とはいえなかった。当時の日本の乗用車市場はアメリカ車にほぼ独占されており、経験も規模も劣る白楊社は対抗するすべを持たなかったのだ。1928年、白楊社は解散を余儀なくされる。それでも、苦心の末にオートモ号を製造したことは、日本の自動車産業にとって大きな資産となった。開発に関わった池永羆、大野修司、倉田四三郎らは後に豊田自動織機製作所自動車部に結集し、蓄えたノウハウを存分に発揮することになる。山羽虎夫から始まった数々の挫折は、後の成功への糧となったのだ。

1925年の出来事

topics 1

日本フォードがT型のノックダウン生産を開始

トラック仕様のフォードT型のシャシーをベースに製造された、円太郎バス。

1923年9月1日、首都圏は未曽有の大災害に襲われた。相模湾を震源とするマグニチュード7.9の地震は、東京を中心に甚大な被害を与えた。関東大震災と呼ばれるこの地震により約190万人が被災し、死亡・行方不明者は10万人を超える。全壊した建物は10万余、火事によって全焼した家屋は20万以上だった。

地震に対する備えの弱さが明らかとなり、復興にあたって都市計画が見直された。耐震化と不燃化の重要性が浮上し、災害に強い都市へと改造が進んだ。その中で交通機関としての価値が再評価されたのが、自動車である。鉄道が軒並み機能を停止する中、トラックやバスが輸送の主役に躍り出たのだ。

東京市では、市電が復活するまでの応急措置として、乗合自動車を走らせることにした。フォードからT型のシャシー約800台分を輸入し、バスのボディーを架装して利用したのだ。11人乗りのこの乗り物は、円太郎バスと呼ばれて東京の人々の貴重な移動手段となった。

この状況を見て、フォードは機敏に行動した。日本でもモータリゼーションが進むと考え、現地生産を行うことを決定したのである。1925年に横浜でT型フォードのノックダウン生産を開始し、販売を伸ばしていった。翌年にはGMも大阪に工場を作り、シボレーやビュイックなどの生産を開始する。またたく間に日本の自動車市場はこの2社の独占状態となり、ダット自動車製造や白楊社は厳しい状況に追い込まれた。

topics 2

クライスラー社設立

創業者のウォルター・パーシー・クライスラーと、最初の市販モデルであるクライスラー・シックス。

“ビッグスリー”と呼ばれるアメリカの自動車会社の中で、設立が一番遅かったのがクライスラーである。フォードが1903年、GMが1908年の創業なのに対し、クライスラーが名乗りを上げたのは1925年になってからだ。

後発であるがゆえに、最先端の技術を取り入れることに意欲的だった。初の製品となったクライスラー・シックスに量産車初となる四輪油圧ブレーキを採用し、安全性重視の姿勢を示した。レースにも積極的に参戦し、インディ500で最速記録を更新して性能の高さもアピールする。オールスチールボディーや油圧式ステアリングシステムの採用も他社に先駆けており、クライスラーは急激に業績を伸ばしてビッグスリーの一角に食い込んだ。

1934年に発表したエアフローは、世界の自動車メーカーを驚かせた。エアロダイナミクスを取り入れた流線型のボディーは誰も見たことのない形で、まるで飛行機のようだった。この形状によってエンジンをフロントアクスル前部に置くことになり、重量配分が改善されて室内空間が広がった。評価は高かったが、販売面では苦戦した。スタイルもテクノロジーも、先を行き過ぎていたのである。

それでも技術力を前面に押し出した戦略を進め、1950年代には高性能なHEMIエンジンでクライスラーブランドを高めることに成功する。業績は順調に伸びていったが、石油危機が立ちはだかった。ガソリン価格の高騰はクライスラーが得意にしていたフルサイズの豪華なクルマの売れ行きを激減させ、経営危機に陥る。

1980年代にはアイアコッカの手によって復活するが、その後も何度も危機に見舞われる。失敗に終わったダイムラーとの提携を経て、2014年からはフィアットの傘下となった。

topics 3

普通選挙法制定

普通選挙法は1924年6月に成立。幾度かの修正を経て、1925年5月5日に公布された。

大政奉還、王政復古によって生まれた明治新政府は、薩長(さっちょう)土肥の出身者によって要職を占められていた。西南戦争を経て士族の反乱が治まり、新しい政治の枠組みが整えられていく。しかし、藩閥政治に対しては自由民権運動が起こり、憲法の制定、議会の開設、言論の自由などの要求が掲げられた。

大日本帝国憲法が発布されたのは、1889年である。その翌年、初めて衆議院議員総選挙が行われた。ただし、選挙権を有していたのは45万人で、全人口の1.1%にすぎなかった。有権者の規定は「直接国税を15円以上納める25歳以上の男子」とされており、資産家の成人男性しか選挙に参加できなかったのである。

それに比べ徴兵制度による国防の義務はすべての男子に課せられており、権利と義務のいびつな構造は明白だった。自由民権運動と社会主義運動などから普通選挙実現の声が高まり、国会に普通選挙法案が提出されるが繰り返し否決される。

1910年代に入るといわゆる大正デモクラシーが活発になり、普通選挙への期待が高まっていく。全国で集会やデモが行われたが、普通選挙法が成立したのは大正も終わりの1925年だった。

実際にこの法律にのっとって総選挙が行われたのは、1928年、すなわち昭和3年だった。選挙権は25歳以上の男子とされ、有権者は全人口の20%にあたる1241万人に拡大した。普通選挙と言いながらも参加できるのは男子だけであり、女性の選挙権が認められたのは1946年である。

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[ガズ―編集部]

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