スーパーカーの青春(1975年)

よくわかる 自動車歴史館 第44話

最高速で争ったフェラーリとランボルギーニ

ランボルギーニ・カウンタック。写真は1988年~1990年にかけて生産された最終モデルで、ランボルギーニの誕生25周年を記念した25thアニバーサリー。
12気筒エンジンをミドシップ搭載し、最高速度302km/hをうたったフェラーリ365GT4BB。
365GT4BBの改良モデルとして、1976年に登場した512BB。日本におけるスーパーカーブームと時代が重なるのは、365GT4BBよりむしろこちらで、1981年にはエンジンにインジェクションを採用した512BBiに進化する。

1975年1月、『少年ジャンプ』で新連載が始まった。走り屋の風吹裕矢が公道でライバルたちとバトルを繰り広げる『サーキットの狼』である。当初はあまり注目を集めることもなく打ち切られそうになったが、突然人気が爆発してジャンプの看板マンガとなった。子供たちを引きつけたのは、作品の中に登場するエキゾチックなクルマである。道を走る乗用車とはまったく違うスタイルを持ち、とてつもないスピードを誇るマシンはスーパーカーと呼ばれ、マンガの枠を超えて大ブームとなった。

スーパーカーには、明確な定義があるわけではない。大ざっぱに言えば、非現実的なデザインで未来の乗り物のようであり、レーシングカー顔負けの速さを持つクルマのことである。フェラーリやランボルギーニなどのイタリア車が多く、中でも誰もが認める代表的な存在といえば、ランボルギーニ・カウンタックとフェラーリ365GT4BBだろう。

1974年に登場したカウンタックは、ガルウイングドアというわかりやすい奇抜な見た目で子供たちの心をとらえた。『サーキットの狼』では悪役である“ハマの黒ヒョウ”の愛車だったが、ガンディーニのデザインしたウエッジシェイプのボディーは水際立っていた。V12エンジンをミドに搭載し、300km/hという最高速度を持つことも大きな魅力だった。子供たちは、排気量やエンジン出力、最高速度などのスペックを、すべて丸暗記していた。

新興勢力のランボルギーニに対し、老舗のフェラーリが黙っているわけにはいかない。カウンタックのプロトタイプが発表されたのは1971年3月で、その半年後にフェラーリはBBを発表した。こちらも12気筒エンジンをミドに積み、示された最高速度は302km/hだった。意地にかけても、最速のロードカーという称号を守らねばならなかったのである。

軽量なヨーロッパ、ラリーのストラトス

1966年にデビューしたロータス・ヨーロッパ。当初はルノー製の1.5リッターOHVエンジンが搭載されていた。
ラリーでの勝利を目標に開発されたランチア・ストラトス。ランチアによる世界ラリー選手権(WRC)のメイクス・タイトル3連覇(1974~1976年)に貢献した。
イタリアとアメリカの合作であるデ・トマソ・パンテーラ。アメリカ市場での販売に主眼を置いて開発されたもので、1990年代まで生産された。
1975年にデビューしたポルシェ911ターボ。デビュー当初は260psだった最高出力は、1977年には300psに向上。モデル末期に登場した「ターボS」は330psを誇った。

ただ、カウンタックもBBも最高速度の数字はあまり意味のあるものではなかったようだ。実車でテストすると、どちらもカタログ通りのスピードは出なかったという。現在では300km/hオーバーのセダンもあるくらいだが、当時はこの速度域が夢の領域だったのである。スーパーカーを名乗るには、ぜひともクリアしておきたい数字だった。

ただ、そこまでの最高速度が出なくても、スーパーカーとして認められていたクルマもある。風吹裕矢の愛車であるロータス・ヨーロッパは、最高速度が200km/hにも満たない。それでも、軽量を利して大排気量のマシンと戦う姿が共感を呼び、人気が高かった。わずか1.6リッターの直列4気筒エンジンだから戦闘力が高いとはいえなかったが、全高わずか1080mmの低く構えたスタイルは異次元の走りを思わせたのである。

マセラティのボーラとメラクも、憧れのクルマだった。エンジンはV8とV6で少々見劣りしたが、ジウジアーロの手がけた美しいデザインがそれを埋め合わせて余りあった。ちょっと異色だったのは、ランチア・ストラトスである。世界ラリー選手権への出場を前提に開発されたマシンで、独特なシルエットを持っていた。曲がることを最優先していたので、ホイールベースは2180mmと極端に短かった。そのおかげで、宇宙船のような雰囲気をまとうことになったのである。

デ・トマソ・パンテーラは、イタリアとアメリカが合体したスーパーカーだった。デ・トマソはすでにマングスタでフォードのエンジンを採用していて、パンテーラにもフォード製の5.8リッターV8エンジンを搭載した。これによってライバルの半分ほどという価格を実現し、親しみやすいスーパーカーとなった。

ドイツからは、ポルシェがスーパーカーの列に加わっている。『サーキットの狼』で風吹裕矢のライバルである早瀬左近が乗っていたカレラRS2.7が代表的な存在だろう。今でも人気の高い“ナナサンカレラ”で、ダックテール型のスポイラーと派手なデカールが特徴である。さらに、75年にデビューした930ターボも人気だった。

子供たちが押し寄せたスーパーカーショー

スーパーカーの先駆け的な存在であるランボルギーニ・ミウラ。写真は1971年に登場した最終モデルのSV。

スーパーカーブームはまたたく間に広がり、テレビではゴールデンタイムに『対決!スーパーカークイズ』(東京12チャンネル)という番組が高視聴率をあげた。男子小学生の間ではスーパーカー消しゴムが大流行し、あまりの過熱ぶりに持ち込み禁止にする学校も現れた。スーパーカーを扱う輸入車ディーラーには、日曜日になるとカメラを持った子供たちが押し寄せるようになった。

最も有名なディーラーだった横浜のシーサイドモーターは、サンスターとタイアップして商品のパッケージに付いている応募シールを集めて送ると入場券がもらえるイベントを企画した。東京・晴海で行われたスーパーカーショーには、4日間に46万人もの来場者が押し寄せた。スーパーカーショーは毎週のように全国で開催され、目を輝かせた子供たちが集まった。

しかし、ブームが去るのも早かった。1977年の後半になると、スーパーカーショーの入場者は目に見えて減っていった。『サーキットの狼』は舞台を公道から本来のサーキットに移して本格的なレースを題材にするようになり、人気は以前ほどのものではなくなっていった。連載は1979年に終了し、シーサイドモーターは1980年に倒産した。

『サーキットの狼』の作者である池沢さとし(現在は池沢早人師)は、連載の2年前に作品を持ち込んでいた。しかし、高価な外国製スポーツカーに興味を持つ子供は少ないと編集部は判断して保留にしており、ようやく1975年に連載が始まったのだ。このタイムラグは、スーパーカーにとっては致命的なものだった。

スーパーカーの起源ともされるランボルギーニ・ミウラのデビューは、1966年である。独特なヘッドランプデザインや流麗なスタイルが、特別な存在であることの証しだった。古いのでスペック的には劣るが、このマシンは別格の扱いだった。正式には1台しか作られていない派生型のイオタなどは、ほとんど神話の世界のクルマのように思われていた。この魅力的なマシンに刺激され、フェラーリやマセラティなどがスーパーカーをこぞって開発していったのである。

その後、1973年のオイルショックで、高価なスーパーカーは厳しい環境に置かれることになる。世界的に景気が後退し、販売台数が激減した。さらに排ガス規制が厳しくなり、対応するためにエンジンの大幅なパワーダウンが避けられなかった。日本でブームが始まった時、スーパーカーにとっては試練の時代が始まっていたのである。

かつてのスーパーカーのスペックは、現在では平凡なものになってしまった。今では、フェラーリやランボルギーニ、ポルシェなどは、ごく当たり前に額面通り300km/hで走行できるクルマを販売している。ブガッティに至っては、最高速度415km/hのモデルまで用意している。日本でも、レクサスLFAや日産GT-Rなど、世界のトップレベルに肩を並べるモデルが存在する。

それでも、70年代のスーパーカーは、今も特別な輝きを放っている。それは、クルマの青春時代にしか現れない、奇跡のような幸福の時間だったのである。

1975年の出来事

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フロントエンジンのポルシェ924がデビュー

ポルシェ911が発売されたのは、1964年である。2リッターの空冷水平対向エンジンをリアに積むスポーツカーは、優れたハンドリングとトラクション能力で世界を驚かせた。その後も改良を重ね、性能を向上させていった。

その魅力に陰りはなかったが、1車種に頼り切る体制は健全とはいえない。ポルシェは、フォルクスワーゲンと共同開発した914を1970年から販売する。ただ、これはミドシップの2シーターであり、広範なユーザーを得ることは難しかった。

914に代わるモデルとして期待されたのは、1975年に発売された924である。FRというオーソドックスなエンジンレイアウトを取り、4名乗車のスペースを確保していた。もともとはフォルクスワーゲン、アウディと共同で開発を進めていたモデルで、部品は流用されたものも多い。それによってコストダウンが可能となり、911よりも安い価格を設定することができた。

1977年にはV8エンジンを搭載する928が登場し、この2モデルを主力車種に仕立てていこうという意図があったようだ。しかし、ポルシェ=911と考える人は多く、スムーズに移行させることはできなかった。

924は1983年に944へと発展し、さらに1991年に968となる。しかし1995年に生産は終了し、翌年発売されたモデルはミドシップのボクスターだった。928も一代限りで1995年に歴史を閉じている。

topics 2

“真っ赤なコスモ”でロータリー復権

マツダは社運をかけてロータリーエンジンの開発を行い、苦難の末に量産化に成功した。1967年にコスモスポーツを発売し、世界でトップのロータリーエンジン技術を誇るようになった。マツダは将来のエンジンはロータリーが主流になると考え、ファミリア、サバンナ、カペラとロータリーエンジン搭載車種を増やしていった。

1973年にオイルショックが発生すると、風向きが変わる。燃費の悪いロータリーエンジンは、ガソリン価格高騰によって評判を落としていった。厳しくなった排ガス規制に対応しようとするとさらに燃費が悪化し、ロータリーエンジン搭載車の売り上げは激減した。

コスモスポーツは1972年に販売が終了していたが、1975年にコスモの名を継ぐモデルが発表された。それが、コスモAPである。コスモスポーツとはまったく似ていない角張った形で、高級スペシャリティーカーとなった。APというのはantipollutionの略で、低公害・低燃費を意味していた。

レシプロエンジンも用意されたが、最上級グレードには13B型ユニットが搭載され、ロータリーの優秀性をアピールした。以前のモデルよりも燃費は約40%改善されていて、パワフルさと低燃費を両立させたとして高い人気を得た。イメージカラーは赤で、“真っ赤なコスモ”が流行語となるほどのインパクトだった。

topics 3

3億円事件が時効に

1968年12月10日、東京の府中刑務所裏の通りを現金輸送車が通りかかった。そこに白バイに乗った警官が現れ、輸送車を停車させた。爆発物が仕掛けられているという情報があるというのだ。しばらくするとクルマの下から煙が上がり、運転手を避難させて警官は輸送車を安全な場所へと移動させた。

しかし、実は白バイの警官は偽物であり、彼は輸送車を運転して3億円とともに姿を消してしまったのである。遺留品が大量に残されていたので犯人逮捕は容易だと思われたが、捜査は行き詰まってしまった。モンタージュ写真が公開されても、有力な情報は出てこなかった。

警察は威信をかけて真相解明に乗り出し、延べ約17万人の捜査員が投入された。容疑者リストに載せられたのは11万人、近隣住民への聞きこみは13万世帯に及ぶ。捜査にかかった費用は9億円を超えたといわれる。

窃盗罪の時効は7年で、1975年12月10日に刑事時効が成立した。1988年には、民事でも時効となった。犯人がわからなかったことで想像の余地が大きく、小説や映画、テレビドラマで何度も取り上げられている。沢田研二、織田裕二、ビートたけし、宮崎あおいと、バラエティーに富んだ顔ぶれが犯人役を務めた。

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[ガズ―編集部]