世界を驚嘆させたトヨタ2000GT(1965年)

よくわかる 自動車歴史館 第47話

日本グランプリ敗北から始まった極秘プロジェクト

トヨタ2000GT
当時の日本車離れしたスタイリングは、アメリカで研修を受け、コロナなどのデザインを手がけた野崎 喩によるものだった。
1964年の第2回日本グランプリの様子。この大会での敗北が、トヨタに高性能スポーツカーの開発をスタートさせる。

1964年に行われた第2回日本グランプリで、トヨタは一敗地にまみれた。前年に行われた第1回では、クラウン、コロナ、パブリカが優勝して圧倒的な力を見せつけたが、この時はパブリカのみの優勝に終わったのである。各メーカーがワークス体制を整えて全力で取り組むようになっており、簡単には勝てなくなっていた。

レース監督の河野二郎は、副社長の齋藤尚一から「どうせレースをやるなら、ルマン24時間レースまでは行けよ」と言われていた。しかし、世界最高峰の耐久レースに挑戦するには、技術も経験も足りなかった。河野は最初の目標として、世界に通用するトップレベルのスポーツカーを作ることにした。第2回グランプリを終え、彼はワークスドライバーの細谷四方洋を呼んで計画を打ち明けた。開発ドライバーをまかせたのである。

1964年11月1日、試作ナンバー280Aのプロジェクトがスタートする。エクステリアデザインは、アメリカのアートセンターで研修を積んだ野崎 喩に依頼した。エンジン設計は高木英匡、サスペンションは山崎進一が担当することになり、少数精鋭のスタッフで極秘のプロジェクトが動き出した。世界トップレベルの本格的スーパースポーツであること、GTレースに参戦しても通用するポテンシャルを持つことなど、高い目標が定められた。そして、同時に日常的なハイパフォーマンスカーであることも求めている。レースが目的なのではなく、あくまでも普段使いのできるスポーツカーを目指したのだ。

研究のために、ヨーロッパ製のスポーツカーが持ち込まれた。MGB、トライアンフTR2、アバルト・ビアルベーロ、ポルシェ911、ロータス・エラン、ジャガーEタイプなどである。日本のホンダS600も購入した。研究を重ね、基本コンセプトが固まっていった。純レーシングカーではないので、駆動方式はFRにし、前後の重量配分は50:50に近づける。サスペンションは、前後ともダブルウイッシュボーン。ブレーキは四輪ディスクでトランスミッションは5段。空力性能を上げるために、床下はフラットにする。

11月中に細部を詰め、12月初旬には5分の1全体図ができあがった。構想は固まったが、大事なパーツが残っていた。エンジンである。開発のパートナーとして選んだのは、ヤマハ発動機だった。

10カ月で試作車を完成させる

2000GTに搭載された2リッター直列6気筒DOHCエンジン。150ps/6600rpmの最高出力と、18.0kgm/5000rpmの最大トルクを発生した。
2000GTのインテリア。ウッドのインストゥルメントパネルには、楽器製造で培ったヤマハの技術が生かされた。
1965年の東京モーターショーにおいて、トヨタブースに展示された2000GT。
1967年の富士24時間レースにて、スポーツ800とともにチェッカーを受ける2台の2000GT。

楽器メーカーのヤマハ(日本楽器)は、1954年からオートバイの開発を始めていた。最初は楽器工場の片隅を借りていたが、初の市販モデルYA1の本格生産を始めた翌年にヤマハ発動機として分社化されている。オートバイに飽きたらず、1959年からヤマハはスポーツカーの研究に乗り出す。中心となったのは、三菱重工業出身の安川 力だった。いきなりDOHCエンジンを試すというチャレンジングな姿勢で、試作車のYX30で144km/hをマークする成果をあげる。日産からの要請で、2リッターDOHCエンジンを搭載したA550Xも試作した。ヤマハは、DOHCのエキスパート的存在になっていたのだ。

2000GTのエンジンについては、クラウンのM型6気筒をベースにヘッドをDOHC化することが決まった。ヤマハが培ってきた技術の蓄積が、日の目を見ることになる。1965年1月半ばからトヨタとヤマハとの共同作業が始まり、野崎、山崎、高木の3人は、毎週火曜日から金曜日までヤマハの設計室で作業をすることになった。ヤマハとの提携は、意外なところでもメリットを生む。インパネのウッドパネルは、ヤマハの母体である日本楽器のピアノ材を使うことになったのだ。共同作業は4月末まで続き、設計図が完成した。

試作車を引き取りに行ったのは、8月14日である。開発を始めてからわずか10カ月という驚異的な短さで1号車を仕上げたのだ。トヨタに戻ってすぐに試運転したというから、それなりの完成度だったのだろう。この年に行われた東京モーターショーに2000GTが出品され、低く構えた流麗なスタイルが人々を驚かせた。会場には、ホンダS800、いすゞ・ベレット1600GT、スバル1000なども展示されていた。ショーが始まる19日前に外国車の輸入が解禁されており、各メーカーは対抗するために魅力的な新型車を競って発表したのだ。トヨタが初の本格的純国産乗用車クラウンを作ってから10年、日本の自動車産業は欧米の強力なメーカーと争う時代に突入していた。

2000GTの次なる目標は、1966年5月の第3回日本グランプリに設定された。レースを通じて弱点の洗い出しと性能の向上を図ることにしたのである。第2回までと違い、細かいクラス分けをやめて富士スピードウェイを60周するメインレースに一本化されていた。開発陣は、レースのために軽量なアルミボディーのスペシャルマシンを用意した。しかし、プロトタイプレーシングカーの出場も認められていたので、市販化前提のスポーツカーである2000GTにとっては勝ち目のない戦いである。それでも、2台のプリンスR380に続いて3位でフィニッシュし、ポテンシャルの高さを見せた。

グランツーリズモとして開発された2000GTは、スプリントレースよりも耐久レースで真価を発揮した。2カ月後に行われた鈴鹿1000kmレースではワンツーフィニッシュを決め、翌年も鈴鹿500kmレースで優勝し、富士24時間レースではスポーツ800とともにデイトナフィニッシュを飾った。

スピード記録が証明した世界屈指の動力性能

茨城県谷田部町の高速自動車試験場にて実施されたスピードトライアルの様子。ここで2000GTは、3つの世界新記録と13の国際新記録を樹立した。
谷田部のスピードトライアルに挑戦した5人のドライバー。一番右にいるのが、当時のトヨタ・ワークスチームのリーダーであり、2000GTの開発に携わった細谷四方洋だ。
2000GTのシート。日本人には十分だった車内空間も、身長190cmに迫るショーン・コネリーには窮屈だったようだ。
本格的なプロトタイプレーシングカーであるトヨタ7。2000GTと同じく、開発にはヤマハも携わっていた。写真は1969年の富士1000kmレースのもの。

レースの合間に、2000GT はスピード記録に挑戦した。78時間1万マイルスピードトライアルである。茨城県谷田部の高速自動車試験場にマシンを持ち込み、国際記録の樹立を狙ったのだ。テストを行うとエンジンの焼き付きなどのトラブルが発生し、オイルポンプの容量を増やすなどして対策を行った。本番では1万マイルを平均時速206.18kmで走り抜き、3つの世界記録を更新した。この経験が耐久レースでの勝利を生み、さらに市販車の信頼性を高めたのだ。

スピードトライアルの準備を進めていた頃、もうひとつビッグなプロジェクトが飛び込んできた。日本が舞台となった映画『007は二度死ぬ』で2000GTを使いたいというのである。ただし、コンパクトな室内には大柄なショーン・コネリーが収まりきらないこともあり、姿が見えるようにオープンモデルに改造してほしいという要望だった。もともとオープンにする計画はなかったが、急きょ製作することになった。トヨペット・サービスセンターの綱島工場が引き受け、わずか14日間で完成させた。

姫路城で忍者がひそかに訓練を積んでいる場面などの荒唐無稽な日本趣味がちりばめられているが、2000GTの登場シーンは工業国として発展している日本を象徴的に示すことになった。運転するのはヒロインの若林映子であり、秘密兵器開発主任のQが作ったクルマではないので正式にはボンドカーではない。それでも、シリーズの中で2000GTはアストン・マーティンDB5やロータス・エスプリと比べても大きなインパクトを残している。

1967年5月、ついに2000GTは発売された。スタイルは、1965年に発表されたプロトタイプと大きくは変わっていない。Xボーンフレームに前後ダブルウイッシュボーンサスペンションを備え、ロングノーズショートデッキのファストバックボディーをまとっていた。エンジンは3M型1988cc直列6気筒DOHCで、最高出力は150psだった。最高速度は220km/h、0-400m加速は15.9秒と発表されたが、実際には少し違うらしい。細谷がテストすると最高速度が230km/h、0-400m加速は15.1秒だったが、バラツキがある可能性を考慮して控えめな数字にしたのだという。

価格は238万円で、高級車クラウンの約2倍である。簡単に手を出せる金額ではないが、盛り込まれた技術と手作りに近い製造工程を考えれば、バーゲンプライスといえる。1969年にフロントマスクの変更やATモデルの追加などのマイナーチェンジが行われ、1970年8月までに337台が製造された。ただ、2.3リッターSOHCエンジンを搭載したモデルが試作されたりしていて、実際に製造された台数はもう少し多いようだ。

2000GTの開発が一段落すると、今度は本格的なレーシングマシンのプロジェクトが始まった。主導したのは河野で、乗ったのは細谷である。そして、再びヤマハがパートナーとなった。圧倒的なハイパワーマシンを作り上げ、トヨタの技術レベルは大きく飛躍した。日本グランプリの敗北からスタートした挑戦は、伝説のグランツーリズモとレースの勝利に結実した。

1965年の出来事

topics 1

トヨタ・スポーツ800発売

2000GT に先駆け、1965年4月にスポーツ800が発売された。ベースとなったのは、小型大衆車のパブリカである。エンジンは排気量を790ccに拡大した空冷水平対向2気筒で、最高出力は45psだった。パワフルとはいえないが、最高速度は155km/hに達した。ライバルのホンダS600が145km/hなので、10kmも上回っている。

アドバンテージは、580kgという車両重量だった。アルミニウムやアクリルなどの素材を多用し、軽量化を図った。さらに、砲弾型のなめらかなボディーが空力特性の向上に貢献した。開発したのは戦争中に立川飛行機で戦闘機を設計していた長谷川龍雄で、実験を重ねて空気抵抗の軽減を目指したのである。

パブリカスポーツと呼ばれていた試作段階では、ルーフ全体を後方に滑らせるスライドキャノピーを採用していた。市販型では通常の2ドアにタルガトップという形に変更されたが、空力性能には妥協がなかった。サイドウィンドウには曲面ガラスを採用し、ヘッドランプをプラスチックのカバーで覆った。結果として丸くて愛らしいフォルムとなり、“ヨタハチ”の愛称で呼ばれるようになった。

形と排気音からはのどかなイメージを受けるが、スポーツ800はレースでも高い実力を発揮した。船橋サーキットでの生沢 徹のホンダS600と浮谷東次郎のトヨタ・スポーツ800の戦いは、今も語り草になっている。また、耐久レースでは低燃費を生かしてピットインの回数を減らし、無類の強さを誇った。

topics 2

富士スピードウェイ完成

1962年に鈴鹿サーキットが完成し、翌年には第1回日本グランプリが開催された。日本にもモータースポーツがようやく根付こうとしていた中、1963年に日本ナスカー株式会社が設立される。アメリカで人気のレースNASCARを日本で行うことが目的だった。

1964年1月にNASCARとの間に日本を含む極東での独占開催権の契約が交わされ、富士山を望む静岡県小山町に用地を取得する。NASCAR形式のレースということで、当然オーバルコースを建設するもくろみだった。しかし、取得した土地は傾斜地で、視察に訪れたスターリング・モスにオーバルに向かない地形だと指摘される。契約は白紙になり、ヨーロッパ型のロードコースが建設されることになった。

設計変更が行われたものの、コースにはオーバルとして計画された名残があった。1700m近いホームストレートの先に設置された30度バンクである。オーバルコースでは常に全開で走行するため、コーナーでの減速を極力避けるようにバンクが設けられる。1コーナーにだけ、当初の設計にあったバンクが残されたのだ。紆余(うよ)曲折はあったが、1965年に富士スピードウェイは完成する。

翌年にオープンし、5月には第3回日本グランプリが開催された。1971年からは富士グランチャンピオンレースが始まり、多くの観客を集めるようになる。ただ、30度バンクでは事故が多発して死者が出るケースもあり、1974年から使用されなくなった。1976年には、日本における初めてのF1レースが開催されている。

2000年になるとトヨタ自動車が三菱地所からサーキットを買い取り、2005年に大幅な改装を終えてリニューアルオープンした。2007年から2年間は、再びF1が開催された。

topics 3

“元気ハツラツ!”オロナミンC発売

1961年に大塚製薬から初めての炭酸栄養ドリンク剤が発売された。その名はグルクロン酸ビタミン内服液で、なんとも堅苦しいネーミングだった。1965年になって、親しみやすい名前が与えられる。それがオロナミンCで、大塚製薬のヒット商品であるオロナイン軟こうから“オロナ”、ビタミンCから“ミンC”を取って組み合わせたものだった。

オロナミンCを全国区にしたのは、CMキャラクターの大村 崑である。当時人気絶頂だった彼の「うれしいとめがねが落ちるんですよ!」という決めゼリフは、キャッチコピーの「元気ハツラツ!」とともに流行語になった。眼鏡を下にずらした大村 崑がオロナミンCのビンを握りしめたホーロー看板は、日本中どこに行っても見ることができた。

栄養ドリンクというと中年男性向けというイメージが強いが、1970年代に入ると子供や女性向けの新しい飲み方を提案して打開を図る。CMでは、大村 崑が子供たちにミルクで割る“オロナミンミルク”や卵黄と混ぜて飲む“オロナミンセーキ”を作ってあげるシーンがあった。そして、大人はウイスキーやジンと混ぜて飲むのである。

その後は読売ジャイアンツの選手がCMに登場し、「オロナミンCは小さな巨人です!」と叫ぶバージョンが多く作られた。1990年代には、SMAPの『オリジナル・スマイル』に乗せて若き日の木村拓哉が登場するCMもあった。ジャニーズタレントの起用はその後も続き、滝沢秀明や錦戸 亮も出演した。2011年からは嵐の櫻井 翔がイメージキャラクターを務めている。

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[ガズ―編集部]