わたしの自動車史(前編) ― 吉田 匠 ―

吉田 匠(プロフィール)
1947年、埼玉県生まれ。1971年に二玄社に入社し『CAR GRAPHIC』編集部に在籍。同社での編集経験を経て1985年にフリーランスのジャーナリストとして独立した。特に輸入車、スポーツカーに深い造詣を持ち、今日でも自動車専門誌を中心に精力的に執筆活動を続けている。
360cc時代の軽自動車の傑作であるホンダN360。吉田家が選択したオプションは、3点式シートベルトとリクライニングシートだった。
日産チェリーGL。チェリーは日産にとって初のFF車だった。
コンパクトなハッチバックボディーが特徴のホンダ・シビック。GLは1972年に登場した上級グレードである。
ホンダS800M。写真は実際に僕が乗っていたS800Mそのものの現在の姿で、純正ハードトップをはじめとするスタイルは、ホイールなどの細部を除いて、当時と基本的に変わっていない。

団塊世代のなかでも最も人口の多い1947年に生まれた僕が初めてカッコイイと思った自動車は、アメリカ人の運転で家の前を通過する、50年代初頭のものと思われるアメリカ車だった。僕の家は当時、埼玉県の北部にあったのだけれど、その街外れに住んでいた進駐軍の将校らしき外国人がステアリングを握り、舗装路ながらあちこちに穴の開いたわが家の前の通りを、いかにも柔らかそうなサスペンションをフルに上下動させながら走っていくツートンカラーの巨大なアメ車が、そのクルマだった。

僕が子供の頃からクルマ好きだったのには、父親の影響もあった。祖父が海軍の将校だった関係で父は東京の都心で生まれ、かの麻布中学にかよっていたというが、若い頃に赤坂周辺のディーラー街を歩いて戦前車のカタログを集めていたというから、今でいうエンスーだったのだろう。
とはいえ、僕が子供の頃には父は田舎の中学校の理科の教師に落ち着いていたから、暮らしは特に豊かだったわけではなく、当然ながらわが家にクルマはなかった。当時の日本は、初代トヨペット・クラウンがあった同級生、S君の家のように自家用車を持っていた家なんて地方都市では数えられるほどしかない、清貧なる時代だったのである。

そんなわけだから、僕が中学生や高校生の頃には父は50ccや80ccのモーターバイクで通勤していたが、そんな吉田家が初めて自家用車を所有したのは高度経済成長期後期の1967年、一浪した僕がちょうど大学に入った年のことだった。クルマはその年に発売されたばかりのホンダN360で、それは僕が父に薦めたものだった。新しモノ好きだった父は、普通の大人だったら敬遠するはずの、当時の日本ではまだ珍しかった2ボックスのボディーに高回転型の空冷2気筒エンジンを収めて前輪を駆動する全長3mのホンダ製の白い箱を、ためらうことなく購入に及んだのである。
それ以来わが家の自家用車は、ホンダN600E、日産チェリーGL、ホンダ・シビックGL、それにダイハツ・シャレードと、当時の日本のメーカーが本気で生み出した2ボックスの小型FWD車を変遷していったが、そういった父親のクルマとは別に、僕が自分自身のクルマを初めて所有することになったのは、1972年初頭のことだった。

その前年の1971年4月、二玄社の『CAR GRAPHIC』=『CG』編集部に入社した僕は、自分で稼ぐことができるようになった途端に、もともと好きだったスポーツカーが猛烈に欲しくなった。そこで、自動車雑誌の売買欄をチェックした末に手に入れたのが1968年型ホンダS800Mで、その価格は今では信じられないけれど、たった30万円だった。とはいえ当方、初任給3万9800円の新米編集部員ゆえそんな大金の持ち合わせはなく、購入に際しては祖母からお金を借り、それを返済していったのである。

ところで、当時星の数ほどあったスポーツカーのなかから、僕がホンダS800を選んだ理由はいくつかあった。まず、1962年の東京モーターショーにS360とS500のプロトタイプがデビューしたとき、ついに日本からもマニア向けの高性能スポーツカーが誕生した事実に感激し、できれば将来それを自分のものにしたいと思ったこと、これが根底にあった。それに加えて僕は、わずか800ccの排気量ながらヨーロッパの1.3リッター級スポーツカーに優に匹敵するその高性能に引かれていたし、本田宗一郎御大が細部にまで口を挟みながら完成させたという、当時としてはモダンで機能主義的なSのスタイリングも、とても気に入っていた。

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[ガズ―編集部]

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