現地生産と国内空洞化(1988年)
よくわかる 自動車歴史館 第50話
“自主規制”では解決しなかった日米貿易摩擦
1981年から始まった日本車メーカーの対米輸出“自主規制”は、日米自動車貿易摩擦を解消したわけではなかった。それは緊急避難的な対症療法にすぎず、アメリカの自動車産業が抱える問題の構造は何ら変わっていなかったからである。ビッグスリーは利幅の大きい大型車を売ることで収益を高める戦略を長年続けていたが、その方法が通用しなくなったのだ。1973年、1979年と2度にわたって石油危機が発生し、ガソリン価格の高騰から消費者は燃費のいい小型車を求めるようになっていた。“ガスガズラー(ガソリンがぶ飲み車)”とやゆされる大型車はまったく売れず、低燃費で高品質な日本の小型車に人気が集まった。
“自主規制”によって品薄になった日本車には、プレミアム価格が付けられるようになった。1万2000ドルのトヨタ・クレシーダ(マークII)が1万7000ドルで売られる例すらあった。中古車価格も急騰し、1年落ちのクルマに新車販売価格以上の値札がついた。さらにレーガノミクスによる円安が為替差益を生み出し、日本車メーカーに莫大(ばくだい)な利益をもたらした。
対するアメリカの自動車会社は、小型車需要が増大していることがわかっていても指をくわえて見ているしかなかった。小型車製造のノウハウがなく、部品メーカーも対応する体制が整っていなかった。ビッグスリーは、大きなエンジンを積んだ大型車が好まれてガソリン価格が安いという、アメリカ特有の状況に慣れきっていた。国内ばかりに目を向けていた彼らは、グローバル化の波にさらされることになったのである。
危機的な状況に陥ったのは、1929年の大恐慌以来のことだった。大幅減産と人員整理は避けられない。クライスラーは12万人の従業員を5万人に減らし、フォードは18あった工場を8つに集約した。それでもフォードは提携先だったマツダのメインバンクである住友銀行から資金援助を仰がねばならず、クライスラーに至っては政府から15億ドルの融資保証を受ける事態となった。
5倍の開きがあった日米の労働生産性
状況を打開するために、日本の自動車メーカーがアメリカに進出して生産することを求める声が強くなった。メーカーや政府だけでなく、全米自動車労働組合(UAW)も雇用確保のために対米進出を要求した。日本の通産省(当時)も、事態を重く見て2大メーカーのトヨタと日産に対米進出するよう圧力をかける。しかし、両社は現地生産に積極的ではなかった。
アメリカ下院の貿易小委員会は、1980年6月に日米貿易摩擦に関する報告書(バニック報告書)を発表している。トヨタと日産が対米進出に消極的な理由を分析し、打開策を提案したのだ。そこで指摘された問題点は、7項目にわたった。
1. 賃金レートの高さ。
2. 労働力の質の低さ。
3. ストライキが多発する。
4. メーカーと部品業者の連携が希薄である。
5. 為替レートが不安定である。
6. 初期投資が巨額で、利益が得られる保証がない。
7. ビッグスリーが本格的に小型車を生産すると、供給過剰になる。
実際のところ、1979年における自動車労働者の賃金を比較すると、アメリカは日本のほぼ2倍だった。1台あたりの組み立て時間は日本が半分以下で、労働生産性は約5倍の開きがある。そして、労使の関係は日本のように友好的なものとはいえなかった。不確定要素が多く、簡単には進出を決断できない事情があったわけだ。ただ、自動車に先だって対米進出を果たしていた電機メーカーのソニーや松下電器は、同じような条件の中で成功を収めていた。バニック報告書では、それを理由にして日本の自動車メーカーが対米進出することの正当性を力説している。
最初にアメリカでの乗用車生産を表明したのは、1979年に二輪車の工場を稼働させていたホンダだった。ホンダは乗用車でも輸出依存度が高く、規制のリスクを考えると現地生産を増やすことは合理的だったのである。日産もテネシー州に工場を建設し、トラックの生産を始めることを発表した。一方、トヨタはフォードとの間で合弁生産を行う方向で交渉を重ねていたが、車種選定で折り合いがつかず、破談になってしまう。
代わってトヨタに提携を打診してきたのは、ゼネラル・モーターズ(GM)である。GMはいすゞ、スズキと提携していたが、トヨタと組むことで本格的に日本のメーカーとの合弁を進めようとしたのだ。1984年にトヨタとGMが50:50の出資比率でニュー・ユナイテッド・モーター・マニュファクチュアリング(NUMMI)を設立した。カリフォルニア州にあったGMのフリーモント工場を活用し、まずはシボレー・ノバの生産を始めた。
この経験をふまえ、トヨタはケンタッキー州にトヨタ・モーター・マニュファクチュアリングUSA(TMM)、カナダにトヨタ・モーター・マニュファクチュアリング・カナダ(TMMC)を設立する。1988年、TMMからカムリ、TMMCからカローラがラインオフした。1957年に初めて対米輸出を開始してから30年余を経て、アメリカでの現地生産が実現したのである。
全世界規模でのコンペティションが常態に
1980年代の日本メーカーの動きをまとめると、日産は1983年にダットサントラックのアメリカ現地生産を始め、その後セントラ(サニー)、アルティマ(ブルーバード)を追加。ホンダは1982年からアコード、1989年からシビックの生産を開始した。三菱はクライスラーとの合弁で、1988年からエクリプスの生産をスタート。マツダは1985年にミシガン州で工場を稼働させ、1992年からはフォードと提携してプローブの生産を行うようになった。スズキはGMと提携し、カナダのオンタリオ州でエスクードとカルタスを生産した。スバルもいすゞと合弁会社を作り、共同でインディアナ州に進出している。
現地生産は軌道に乗り、輸出と合わせて日本の自動車メーカーはシェアを拡大していった。もちろん、恩恵は日本だけにあったのではない。アメリカにとってもメリットは大きかった。雇用の改善に寄与し、経済成長にも効果があった。さらに重要なのは、ビッグスリーが効率的な日本的生産方式を取り入れたことである。フォードはマツダから、クライスラーは三菱から、生産技術やQC(品質管理)サークル活動、部品調達システムなどを学んでいった。非効率になっていた大量生産方式を一新し、作業現場で設備を有効活用できる柔軟な体制を取り入れていった。外部の部品工場との協業も含め、生産方式の改革が進んだのだ。
また、日産は同時期にイギリスにも現地生産拠点を設置。1986年にブルーバード(オースター)の生産を始め、それをイギリスとヨーロッパ各国で販売した。1990年代に入ると、もはや自動車産業は国の枠を離れて全世界的な展開をするのが常識となりつつあった。日本からわざわざ輸出するより、マーケットに近いところで生産する方が合理的であると分かり、日本の自動車メーカーは大市場である北米やヨーロッパに積極的に進出した。また、労働賃金の安い南米やアジアでの生産も広がっていった。特に2000年代に入ると、中国での自動車生産が急拡大する。
こうした中、2002年にはホンダがタイでアジア向けに生産していたシティを輸入し、フィット・アリアとして日本で販売するという逆転現象が起きた。2010年にフルモデルチェンジした日産マーチも、国内では生産されず、日本で販売されるのはタイ製のモデルとなっている。さらに三菱が2012年に発売したミラージュは、世界各地で販売されるすべてのものがタイで生産されている。もはや「日本メーカーのクルマ=日本車」とは言えない時代なのだ。
日本の国内自動車生産は、1990年の1390万台でピークに達した。輸出台数が最高だったのは1985年で、673万台である。どちらもその後は減少傾向にあり、代わりに増加したのが海外生産だ。2013年は963万台の国内生産に対し、海外生産は1687万台にのぼる。輸出台数は467万台だった。日本の自動車産業は輸出によって発展してきたが、1980年代を境に海外進出での規模拡大に大きくかじを切った。
生産拠点が国外に移転することで、日本国内ではその分生産能力が過剰になる。雇用が失われ、競争力の劣る企業は倒産に追い込まれる。グローバル化に伴う産業の国内空洞化が問題となった。自動車の部品メーカーの中には、自らも海外に進出することでサバイバルを図るケースも多い。全世界規模でのコンペティションが常態となったのだ。
それでも日本の自動車産業が競争力を保っているのは、日本的生産方式をさらに磨き上げることで生産効率を高めているからだ。労働賃金は東南アジアや中国よりも高いが、トータルでは日本での生産が低コストを実現することもある。自動車産業が国の枠を超えてグローバル化することはもはや避けることはできない。そして、日本では少子化が進んで近い将来労働人口が減少することが確実となった。こうした状況に対応し、世界と日本の実情に合わせて自動車産業の構造を変えていくことが求められている。
1988年の出来事
topics 1
好景気で“シーマ現象”発生
1988年の新語・流行語大賞で、新語の金賞に輝いたのは“ペレストロイカ”だった。ゴルバチョフ書記長が主導したソビエト連邦の政治改革を示す言葉で、ベルリンの壁崩壊に象徴される社会主義体制の終焉(しゅうえん)を促した運動だった。ほかには、“アグネス論争”“しょうゆ顔・ソース顔”などの言葉が選ばれている。そして、流行語部門の銅賞が“シーマ(現象)”だった。
この年1月に日産が発売した高級車が、セドリックシーマ/グロリアシーマである。セドリック/グロリアと同じプラットフォームを使うが、3ナンバー専用の上級車種という位置づけである。エンジンは3リッターV6で、自然吸気とターボの2種が用意された。
バブル景気を背景に、高級車市場は活況を呈していた。月間販売台数で、トヨタ・クラウンがカローラを上回ることもあったほどである。クラウンやセド/グロはワイドボディーの3ナンバー車を販売していたが、それに飽きたらないユーザーも多かった。3ナンバー枠を本格的に生かしたモデルが求められていたのだ。
メルセデス・ベンツやBMWなどに対抗し得る高級国産車の登場に、人々は飛びついた。豪華な内装にドアミラーワイパーまでが装備され、時代の気分にマッチしたのである。255psのターボエンジンを搭載した最上級グレードのタイプIIリミテッドに人気が集中し、注文しても手に入れるまでに半年待たねばならなかった。
高価で高級なものを求める心情は、クルマに限らず消費全般を覆いつくしていた。シーマ現象という言葉は、バブル景気を正確に表現していたのである。
topics 2
エンツォ・フェラーリ逝く
1988年のF1イタリアGPでは、フェラーリがワンツーフィニッシュを飾った。この年はアイルトン・セナとアラン・プロストを擁するマクラーレン・ホンダが圧倒的な強さを見せ、16戦中15勝を記録している。苦杯をなめたのはこのレースだけだった。フェラーリには、どうしても負けられない理由があった。
イタリアGPに先立つ8月14日、エンツォ・フェラーリが90年の生涯を閉じた。偉大なコメンダトーレの死を悼み、ゲルハルト・ベルガーとミケーレ・アルボレートは万感の思いを胸にサーキットを駆け抜けた。観客席には「エンツォ死すとも、ティフォシは忠誠を誓う」との横断幕が掲げられた。
1898年にモデナの板金工の息子として生まれたエンツォは、1920年にアルファ・ロメオのテストドライバーとなる。1929年になると自らのレーシングチーム「スクーデリア・フェラーリ」を設立し、アルファ・ロメオのレース部門として活動を始めた。
第2次大戦後、フェラーリは自動車の製造を始める。F1やルマンなどのレースに参戦し、勝利を重ねることで名声を獲得すると、販売するロードゴーイングカーに人気が集まる。自動車販売で得た資金を使い、高性能なレーシングカーを作って勝利するというサイクルを確立した。
エンツォは死の直前まで自らレースを指揮し続けたという。彼の描くビジョンに沿って、優秀な技術者が美しいクルマを作り上げた。死後も彼の理想は受け継がれ、創業55周年の2002年には、彼の名を冠した限定モデルが発売された。
topics 3
リクルート疑惑で政界大混乱
1980年代に入ると、出版業界にリクルート旋風が吹き荒れた。就職情報誌の『From A』『とらばーゆ』、中古車情報誌の『カーセンサー』、旅行情報誌の『エイビーロード』などが軒並み売れ行きを伸ばし、書店の棚を占領した。出版元のリクルートは急成長し、広告主導の雑誌づくりが新しいスタイルとしてもてはやされた。
リクルートは子会社リクルートコスモスを設立し、バブル景気まっただ中で不動産事業に乗り出した。会長の江副浩正は、ビジネスのトップランナーとして名を高めていった。しかし、1988年に朝日新聞が報道した川崎市助役への利益供与疑惑がつまずきの石となる。
マスメディアはこの問題を追求して後追い報道を始め、リクルートコスモスの未公開株が政界の有力者に譲渡されていたことが明らかになっていった。中曽根康弘、竹下 登、宮沢喜一、安倍晋太郎、渡辺美智雄、森 喜朗などの大物を含む90人以上の政治家に未公開株が供与されていたのである。
東京地検特捜部が捜査を始め、贈賄を行った江副会長らと収賄側の12人が起訴されて有罪判決を受けた。しかし政治家で起訴されたのは自民党の藤波孝生元官房長官と公明党の池田克也議員だけで、大物政治家の立件は見送られた。
それでも竹下首相は退陣を余儀なくされ、事件に関与していなかった宇野宗佑に後継として白羽の矢が立った。しかし、女性スキャンダルが発覚したことで宇野内閣はわずか69日の短命となり、若い海部俊樹が引き継ぐこととなった。リクルート事件は、結果として政界の世代交代を進めたのである。
【編集協力・素材提供】
(株)webCG http://www.webcg.net/
[ガズ―編集部]
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