東欧自動車小史(1958年)

よくわかる 自動車歴史館 第53話

ソ連の人工衛星を祝うクルマ

1958年に誕生したトラバントP50。当初は最高出力18psの2気筒500ccエンジンを搭載していたが、1962年に改良を受け、600ccのP60に発展した。
1964年のフルモデルチェンジによって登場したトラバント601。1989年の東西ドイツ統一後も、1991年まで生産が続けられた。
トラバントと同時期のアメリカ車を代表する1958年型シボレー・ベルエア。当時のアメリカ車はまさに黄金期にあり、大衆車であっても豪華で大排気量のモデルがもてはやされた。

冷戦下の1957年、ソビエト連邦は人工衛星スプートニクを打ち上げ、世界で初めて地球周回軌道への投入を成功させる。アメリカとの開発競争に勝利し、優秀な科学技術力を誇示したのだ。人工衛星の技術は大陸間弾道ミサイルに転用可能であり、スプートニクが与えたショックは大きかった。盤石と思われていたアメリカの絶対優位が崩れてしまったのである。

同じ年、東ドイツでトラバントという名の小型大衆車が誕生する。車名はロシア語で「仲間」を意味するスプートニクを、そのままドイツ語に翻訳して命名したものだった。ソ連の人工衛星打ち上げを祝し、東側の勝利を誇らしげに宣言したのだ。翌1958年から本格的に販売され、手に入れるためには10年待たなければならないというほどの人気を博す。しかし、皮肉なことに、このクルマが示したのは社会主義の優秀性ではなかった。国家主導の宇宙開発とは違い、民生技術である自動車では西側にはるかに後れをとっていることが、このクルマで白日の下にさらされてしまった。

西側では1955年に未来的なシトロエンDSが発表されていて、1959年にはBMCのMINIが誕生する。アメリカでは巨大なテールフィンを備えた豪華な大型車が毎年のようにモデルチェンジを繰り返していた。そこに現れた東欧の最新モデルは、デザインがぱっとしない上にパワートレインが貧弱だった。

全長3.5m、全幅1.5mほどのコンパクトな2ドアセダンで、0.5リッターの直列2気筒2ストローク空冷エンジンを横置きに搭載していた。駆動方式はFFであり、一応四輪独立懸架を採用していた。FRP製のボディーは軽量で、わずか600kgほどだった。“走る段ボール”と揶揄(やゆ)されたが、もちろん本当に紙製のボディーだったわけではない。ただ、後期モデルでコストダウンのために紙パルプを混ぜた素材を使っていたので、まったく的外れとは言えないところはある。ブレーキは前輪も含めてドラム式で、20馬力に満たない最高出力では100km/hで巡航することは難しかった。

デビュー時からすでに物足りない性能だったが、ほとんどモデルチェンジは行われなかった。それでも東ドイツ国民にはほかに選択肢はなく、1991年の生産終了までに300万台以上が作られた。

進歩的だったチェコの自動車工業

タトラが戦前に開発した高級車のT77。当時としては極めて革新的な設計がなされており、それは戦後に登場した600“タトラプラン”まで受け継がれた。
MB1000の後継モデルとして、主に1970年代に活躍したシュコダ100/110。当時の共産圏のクルマとしては珍しく、2ドアクーペやスポーツモデルもラインナップされていた。
ポーランドで2000年まで生産が続けられたというロングセラーモデルのフィアット126。このころに開設されたポーランドの工場は、今日でもフィアットの重要な生産拠点として機能している。

自由競争のない社会主義体制の中で進歩が止まってしまったが、第2次大戦前の東欧では工業が発達していた。トラバントもDKWの技術を受け継いでおり、生産したのはホルヒの生産拠点だったツヴィッカウの工場である。

またチェコにはタトラがあり、高い技術力を誇っていた。先進的なエンジニアリングを主導したのは、ハンス・レドヴィンカである。彼はバックボーンフレームやスイングアクスルを早くから取り入れ、シンプルな設計で軽量なモデルを開発した。1934年には、大型の高級乗用車T77を作り上げる。リアに空冷V型8気筒の3リッターエンジンを搭載し、最高速度は130km/hを誇った。何よりも目を引いたのは、エクステリアデザインだ。大胆な流線型を採用した5.2mのボディーは、背面に巨大なフィンを備えていた。

タトラとともにチェコの自動車産業を支えたのが、シュコダである。戦前から自動車を製造していたメーカーで、戦後はタトラが大型車を作るのに対して小型車を受け持つ形となり、大衆向けのモデルを開発した。100/110、オクタヴィアなどを生産し、一部は西側に輸出されたほか、世界ラリー選手権にも参戦している。

このほかにも、フィアットは戦前から東欧諸国に自動車を輸出しており、ポーランドではライセンス生産が行われていた。戦後に体制が変わった後も両者の関係は続き、1967年からは125の生産が始まった。これに続き、1973年からは126が生産されるようになり、1980年に本国でパンダに後を譲った後も、ポーランドでは2000年まで作り続けられた。体制転換後の1992年には工場がフィアット傘下に入り、有力な生産拠点となった。

東側の盟主であるソビエト連邦でも、もちろん自動車を生産していた。敗戦国ドイツから奪い取ったオペル・カデットの生産設備を使って生産されたのが、モスクヴィッチである。独自モデルを作るようになっても、小型大衆車という性格は受け継がれた。

自動車の生産に向いていなかった社会主義体制

アフトワズの本格クロスカントリー車であるラーダ・ニーヴァ。西側諸国にも受け入れられた、数少ない東欧のモデルである。
GAZが生産した中型セダンのヴォルガ。
同じくGAZが生産した大型リムジンのチャイカ。このような高級車に乗れるのは、当時の東欧ではほとんど政府や共産党の要人のみだった。
ルノー・日産アライアンスは、2012年末にアフトワズの経営権を取得すると発表。2014年7月に、ダットサンブランドのモデルをアフトワズ工場で生産開始した。

1977年にアフトワズから発売されたラーダ・ニーヴァは、硬派なコンパクトSUVとして高い評価を得た。フィアット124がベースとなっているが、サスペンションや4WDシステムを独自に設計し、頑丈で走破性の高いオフロードカーに仕上げた。1980年代には日本にも正式に輸入され、マニアの間で人気となった。

戦前はフォードをベースにした乗用車やトラックを製造していたGAZ(ゴーリキー自動車工場)が、1950年代になって発売したのが中型セダンのヴォルガである。ソ連の中では高いステータスを持ったクルマで、庶民が手に入れるのは難しかった。V8エンジンを搭載した、チャイカという上級モデルも作っていた。

1989年から1991年にかけて社会主義体制は崩壊し、東欧の自動車会社は西欧諸国との直接競争にさらされることになった。40年以上にわたる冷戦の中で、技術力のみならずデザインやマーケティングの分野でも大きな格差が生じていた。解放されると、東欧の国民は迷うことなく豪華で高性能な西側の製品を選んだ。注文してから買うまでに10年もかかったトラバントも、今や何の魅力もないクルマになってしまった。

20世紀初頭、アメリカでT型フォードが大量生産・大量消費を前提とした製品作りの体制を確立し、自動車は資本主義発展の原動力となった。生産の効率化によって価格が下がり、労働者の賃金を上げて購買力を持たせ、自動車は中流階級を増大させていった。また、会社間の競争は技術革新による性能向上を促し、各メーカーは毎年新たな意匠を付け加え、装備を豪華にすることで新たなモデルを求める大衆の欲望を喚起した。広い裾野(すその)を持つ自動車産業は経済発展の中枢を担うようになり、20世紀は資本主義の時代となったのである。

東側の社会主義体制は、自動車の生産には向いていないシステムだった。需要と供給は政府によって調整され、計画的に生産が行われた。効率を優先するあまり、月によって一つの色のモデルしか作られないこともあったという。競争はなく、消費者の選択肢は限定された。社会は平等ではあったが市民の購買力は低く、中流階級は育たなかった。西側陣営に対抗するために軍事には技術力が注がれたが、大衆用の自動車はいつまでも旧態依然としたモデルが作り続けられた。

東西ドイツ統一後、トラバントはフォルクスワーゲンのエンジンを搭載したモデルを発表し、生き残りを図った。それでも商品力を向上させることは困難で、生産を継続することはできなかった。タトラとGAZはトラックメーカーに転換し、シュコダはフォルクスワーゲングループの一員となって安価な大衆車を生産している。アフトワズは2014年にルノー・日産グループ傘下に入ったが、ニーヴァは改良を重ねて生産が続けられている。

1958年の出来事

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ダットサンが豪州ラリーでクラス優勝

ダットサン210“富士号”

日本で本格的な自動車レースが始まったのは1963年の日本グランプリだが、その5年も前に海外のモータースポーツイベントで好成績を残したクルマがあった。オーストラリア・モービルガス・トライアルに出場したダットサン210である。

オーストラリア大陸を1周する全長1万6000キロにも及ぶコースを走破するラリーで、日産は富士号と桜号の2台を持ち込んだ。国際ラリーに参加するのは、初めてのことである。

世界各国から67台が集まり、19日間の長丁場で争われる過酷なラリーだった。日産はここで競うことで世界の中での技術水準を確認し、将来の輸出計画の参考にしようと考えたのである。チーム監督は、片山 豊が務めた。

シドニーからメルボルンを目指すコースは豪雨に見舞われ、砂漠地帯では砂との戦いに苦しめられた。道にカンガルーが飛び出すこともあり、激突してリタイアに追い込まれるマシンも続出した。ゴールにたどり着いたのは、わずか34台だった。

富士号は25位で完走し、1000cc以下のクラスでは優勝を果たした。健闘は高く評価され、輸出への追い風となった。

topics 2

クラウンを対米初輸出

北米へ向けて船積みされるクラウン。現地でGE製のヘッドランプを装着するため、輸出車にはヘッドランプが装着されていなかった。

1955年に発売されたトヨペット・クラウンは、初の本格的純国産乗用車だった。100km/hの最高速度と快適な乗り心地は、日本の技術力が向上したことをはっきりと示した。タクシー需要を中心に販売を伸ばし、自主開発路線が間違いではなかったことが明らかとなったのである。

日本の中型車市場で成功を収め、次に目指したのは自動車の本場アメリカへの輸出だった。1957年にトヨタ自動車販売から幹部が渡米し、進出へ向けての準備を始める。カリフォルニアに米国トヨタが設立され、市場調査が進められた。

1958年1月のロサンゼルス輸入車ショーには、ダットサン210とともにクラウンが出品された。6月にクラウン・デラックス30台が船積みされたのが、初の対米輸出となった。

アメリカの基準に合わせてヘッドライトを付け替えるなどの改修を行い、エンジンのパワーを向上させた。しかし、それでもアメリカではトラブルが続出した。ハイウェイで100km/h走行するのが当たり前で、日本とはまったく異なる交通事情だったのである。

高速走行ではパワー不足で、オーバーヒートも発生した。振動や騒音にも苦情が出て、輸出は1960年に中断されてしまう。この経験を生かしたことが、後のコロナの輸出成功へとつながっていく。

topics 3

東京タワー完成

1958年の日本を舞台にした映画『ALWAYS 三丁目の夕日』では、スクリーンの背景に建設中の東京タワーが映されていた。翌年の出来事を描いた続編では、劇中映画でゴジラが東京タワーを破壊している。実際のゴジラ第1作は1954年の作品なので壊すことができず、1961年の『モスラ』で初めて倒されている。

怪獣映画に限らず、多くの映像作品で象徴的に使われているのが東京タワーである。高さは333mで、テレビやFMラジオなどの電波塔として建設された。2つの展望台があり、フットタウンには水族館などの観光施設を備える。ただ、人気のあった蝋(ろう)人形館は、2013年に閉館してしまった。

テレビは長らくアナログ電波で送信されていたが、デジタル放送の開始を控えて東京タワーでは受信障害が発生する可能性が取りざたされた。新たな電波塔を建設する必要があるとされ、墨田区押上に新タワーを作ることになった。2012年に完成した東京スカイツリーである。

その後も東京タワーから電波が発信されていたが、2013年5月31日に送信所切り替えが実施された。今後も災害時などにスカイツリーが使えなくなった際には、東京タワーが代わりに電波を送信することになっている。

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[ガズ―編集部]