理想と技術の伝承――受け継がれた本田宗一郎の魂(1973年)

よくわかる 自動車歴史館 第54話

満を持して四輪車製造に進出

F1マシンの試作車である「RA270」とともに写真に写る、本田宗一郎(1964年)。
ホンダにとって初の市販四輪車となったT360。
S360の市販モデルは軽規格の枠を超え、531ccのエンジンを搭載したS500としてデビューする。

ホンダはスーパーカブを世界中で大ヒットさせ、世界最高峰のマン島TTレースを制した。二輪メーカーとして、確固たる地位を築いたのである。それでも本田宗一郎は満足していなかった。
「日本の機械工業の真価を問い、此れを全世界に誇示するまでにしなければならない。吾が本田技研の使命は日本産業の啓蒙にある」
TTレース出場に際し、1954年に彼は社員を奮い立たせるべく宣言していた。目標を達成するためには、最終的に四輪車の世界でもトップを奪取する必要がある。

しかし、実績のないホンダが自動車の製造に参入するには、高いハードルがあった。すでにトヨタや日産などの大メーカーが市場を押さえており、業界秩序が確立されつつあった。しかも、政府は新たな自動車メーカーの誕生を歓迎していなかった。1961年に通商産業省は特定産業振興臨時措置法案(特振法)を用意する。貿易の自由化を前にして、国際競争力を高めるために自動車メーカーを3つのグループに整理統合することを目指したのだ。当然、新規参入は認められないことになる。

自由競争主義者の宗一郎は、この方針に強く反発し、1958年にスタートしていた四輪車開発を急加速させた。1960年に独立していた本田技術研究所で、軽四輪スポーツカーと軽四輪トラックを同時並行で製作し、1962年6月5日、建設中の鈴鹿サーキットでS360とT360を発表した。オープン2シーターのS360はともかく、トラックのT360にまで高性能なDOHCエンジンを搭載したところが、勢いのある新興メーカーらしい気概だった。

翌1963年の8月、ホンダ初の四輪車としてT360が発売。10月には当初のモデルから排気量をアップしたS500がデビューする。価格は45万9000円で、予想をはるかに下回るバーゲンプライスだった。この翌年、特振法は国会で廃案となり、ホンダの前途に立ちはだかる障害はなくなった。

空冷エンジンの成功と失敗

1965年のメキシコグランプリにて、チェッカードフラッグを受けるリッチー・ギンサーのホンダRA272。
ホンダN360
空冷のDDACエンジンを搭載したホンダ1300。後の改良で、水冷エンジンを積んだ145に発展する。

S500はさらに排気量を拡大し、S600、S800へと発展する。DOHCエンジンに四連キャブレターを装備したメカニズムは欧米で高く評価され、“時計のように精密”とたたえられた。ホンダは自動車レースの最高峰であるF1に挑戦し、2年目となる1965年のメキシコGPで初優勝を果たす。高い技術力を持つメーカーとして、瞬く間にブランドを確立したのだ。

ただ、Sシリーズは2シーターのスポーツカーであり、販売台数は合計2万5000台ほどにすぎない。ホンダを量産メーカーに押し上げたのは、1967年に発売した軽乗用車のN360である。大衆向けのファミリーカーで、Sシリーズとはまったく異なるメカニズムを採用している。エンジンは空冷2気筒SOHCで、駆動方式はFFだった。他メーカーの多くが2ストロークエンジンだったのに対し、違うアプローチをとったのである。高回転で31馬力を絞り出し、20馬力台前半だったライバル車を圧倒した。

価格面でもアドバンテージがあった。当時販売台数トップの座にあったスバル360のスタンダードモデルが33万8000円だったのに対し、31万3000円という値付けで勝負をかけたのだ。発売2カ月で販売台数の首位に躍り出て、3カ月後には予約累計が2万5000台に達した。ライトバンのLN360やトラックのTN360という派生モデルも生み出し、累計生産台数は約70万台に及ぶ。

N360も、宗一郎の陣頭指揮によって作られたクルマだった。二輪車でつちかった空冷エンジンの技術を生かし、合理的なクルマ作りを行ったのだ。シンプルでコストのかからない空冷エンジンは、宗一郎にとって理想のクルマを作るのに欠かせない要素だった。新たに取り組んだ小型乗用車にも、この思想は受け継がれる。1969年、意欲的な技術を盛り込んだホンダ1300を発売する。

FFで四輪独立懸架を採用しており、セダンとクーペがあった。エンジンは1.3リッターのオールアルミ製で、四連キャブレター仕様では115馬力という高出力を誇った。宗一郎の信念である空冷方式が採用されており、一体構造二重壁空冷という複雑なメカニズムを持った画期的なエンジンである。満を持して市場に投入したが、結果は惨敗だった。振動と騒音が大きい空冷エンジン車は、クルマに洗練を求めるようになっていたユーザーからそっぽを向かれたのだ。

F1に投入した空冷エンジンマシンも冷却に問題を抱えており、フランスGPで死亡事故を起こすという悲劇もあってわずか2戦しか出走できなかった。1300が販売不振でF1でも成功を得られないという苦境の中でも、宗一郎は空冷こそが理想のエンジンであるという考えを曲げなかった。市販車もF1も、あくまで空冷エンジンを改良することで状況を打開するように指示したのである。

意見が対立した若手に将来を託す

水冷エンジンの開発を主張した久米是志(左)と河島喜好(右)。ともに、後に本田技研工業の社長を務めることとなる。
財務面、営業面で本田技研工業を支えた藤澤武夫。
ホンダ・シビック
シビックに搭載されたCVCCエンジン。有害物質の排出を抑えるために燃料を薄くし、かつその状態でも確実に混合気に着火するよう、シリンダーの上部に火種をつくるための副燃焼室を備えていた。

若手エンジニアたちは、宗一郎の方針とは相いれない意見を持っていた。空冷エンジンはもはや古臭い技術で、未来がないと考えていたのである。排ガスによる大気汚染が問題となっていて、CO(一酸化炭素)やNOx(窒素酸化物)を低減することが喫緊の課題となっていた。冷却のコントロールが難しい空冷エンジンでは、排ガス規制をクリアすることができないというのが、若手エンジニアたちの共通認識だったのである。

水冷への移行を主張する急先鋒(きゅうせんぽう)となったのは、後に3代目社長に就任することになる久米是志である。彼は出社拒否に及び、辞表を提出して抵抗した。宗一郎の一番弟子ともいえる河島喜好(2代目社長)も、空冷エンジンに反対した。彼らの不満は増大する一方で、ついに副社長の藤澤武夫が動いた。技術を担った宗一郎に対し、経営で辣腕(らつわん)をふるってきた盟友である。彼は宗一郎がワンマン体制で開発を主導することが、会社の発展に結びつくと考えていた。しかし、今やその体制はむしろ新しい技術開発の妨げになっている。

藤澤は、刺し違え覚悟で宗一郎に面談した。若手エンジニアの危機感を説明し、公害対策のために水冷を採用するよう説得した。宗一郎は、空冷でも低公害エンジンを作れるという自説を曲げなかった。しかし、水冷のほうが開発を早めることができることは認め、若手に今後を委ねることに同意した。宗一郎と藤澤は、4人の専務に会社の将来を託すことにした。ふたりとも本社にはほとんど顔を出さなくなり、世代交代への準備を進めたのである。

1970年、アメリカでマスキー法が成立した。自動車に厳しい排ガス規制を求める法律である。ビッグスリーは達成は不可能だとして反対運動を繰り広げたが、ホンダはむしろチャンスととらえた。CO、HC、NOxを同時に減らすという困難な課題をクリアすれば、自動車技術の最先端に踊り出ることになる。開発を進めたのは、久米、川本信彦(4代目社長)、吉野浩行(5代目社長)らだった。宗一郎は触媒による後処理での対応を禁じ、エンジン自体の改良で規制をクリアすることを求めた。

ビッグスリーが諦めた技術開発を、彼らは見事にやってのけた。それが、1972年に発表されたCVCCエンジンである。アメリカでのテストでも規制値を下回り、CVCCはマスキー法に対応した初めてのエンジンとなった。この機構を搭載したシビックは大ヒットし、1973年のカー・オブ・ザ・イヤーに選出された。若手エンジニアたちは、ホンダの屋台骨を背負って立つ力を蓄えていたのである。

1973年、宗一郎は社長を退任した。藤澤も同時に副社長の職を辞した。ふたりは会長や相談役にもならず、最高顧問という象徴的な肩書だけを受け取った。宗一郎の指名で社長に就任した河島は、45歳の若さだった。ホンダの将来は、名実ともに次世代に託されたのだ。エンジンの開発で対立したエンジニアたちが、宗一郎の理想を引き継いだ。

「人に渡す時、これは肝心だな。人に渡すのにケチケチするのは私は嫌いだ。モタモタしてたんじゃ、みっともなくてしようがねェ」
引退直後の宗一郎の言葉である。

1973年の出来事

topics 1

パブリカのスポーティー版スターレット発売

1961年に発売されたパブリカは、簡素な作りながら先進的な技術を盛り込んだ意欲的な小型車だった。ファミリー向けのベーシックカーを目指した理想は高かったが、高級感を求める大衆には支持されなかった。1969年のフルモデルチェンジでは若者をターゲットにしたエントリーカーへと路線を変更する。

初代は空冷2気筒エンジンだったが、2代目は水冷4気筒エンジンを搭載した本格的な小型乗用車となった。メッキパーツを増やして見た目も豪華になり、モータリゼーションの波の中で消費者の購買意欲を刺激した。

人気を決定的にしたのが、1973年に加わったスポーティーバージョンのパブリカ・スターレットである。ファストバックスタイルを採用した新鮮なデザインで、セリカの弟分のような雰囲気を持っていた。若者からの人気を受けて、パブリカから独立したシリーズに昇格する。

モータースポーツでの活躍が、イメージアップに貢献した。富士グランチャンピオンレースの前座として行われたマイナーツーリングでは日産サニー、ホンダ・シビックと名勝負を繰り広げ、走りのいいクルマという評価を確立していった。

topics 2

三菱ランサーがデビュー

1960年代、三菱にはコルトと呼ばれるコンパクトなセダンが存在した。しかし、1969年にトヨタ・コロナや日産サニーに対抗するモデルとして、一回り大きいコルト・ギャランがデビュー。翌年コルトは生産中止となってしまう。

新しいコンパクトモデルとしてランサーが登場したのは、1973年のことである。1.2リッターから1.6リッターの直列4気筒エンジンを搭載したセダンで、4ドアと2ドアがあった。駆動方式はFRである。

モータースポーツ志向が強く、発売当初からラリー向けのモデルがあった。1979年にフルモデルチェンジを行い、1982年からはFRのランサーEXとFFのランサーフィオーレが併売される形となる。これらは1988年に再び統一され、FFと4WDがラインナップされた。

1991年発売の4代目から、スポーツモデルのランサーエボリューションが設定されるようになった。ランエボの名で親しまれたこのモデルは独自の進化を遂げ、WRCなどのモータースポーツで活躍した。

topics 3

第4次中東戦争でオイルショック

1948年のイスラエル独立から始まった中東戦争は、一度は終結を見たものの、対立の目は残されたままだった。1956年の第2次中東戦争では、スエズ運河の閉鎖によってヨーロッパ諸国は原油の供給が絶たれる恐怖を味わった。

1973年の第4次中東戦争は、さらに大きな影響を与えることになった。イスラエルに先制攻撃を仕掛けたエジプトを支援するため、アラブ諸国がイスラエル側に立つ欧米に対して石油を武器に揺さぶりをかけたのである。ペルシャ湾岸の産油国は原油公示価格を一気に70%引き上げ、さらに生産の削減を決定した。この一連の動きが、第1次オイルショックと呼ばれる。

高度経済成長を続けていた日本も、甚大な影響をこうむった。安価な石油をエネルギー源とすることが前提となっていた経済構造は、根本的な変革を迫られた。パニックになった人々はトイレットペーパーの買い占めに走り、便乗値上げが相次いでインフレに拍車がかかった。

原油価格の高騰は、世界の自動車産業に改革を迫った。ガソリンを野放図に消費するパワー競争は終焉(しゅうえん)を迎え、低燃費な小型車がもてはやされるようになる。大型車ばかりを作っていたアメリカのビッグスリーが衰退し、日本車が台頭する原因となった。

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[ガズ―編集部]