わたしの自動車史(後編) ― 小早川 隆治 ―

FFファミリアの欧州導入の折、ニース近郊のポール・フレールさんのお宅で御夫妻と共に。
レーシングカートの運動性能に感銘。RX-7プロジェクトでも購入し、多くのメンバーにも体験してもらった。
ゼロ戦の残骸を10名のRX-7メンバーと見学。軽量化に対する飽くなき挑戦に、深く感動した。
RX-7の主査を引き継いでくれた貴島さんのおかげで、FDはモデル末期に向けて劇的な進化を遂げた。
ジャッキー・イクスさんの右でカップを掲げているのが、18年間ルマンに挑戦し続けてくれた大橋孝至マツダスピード専務。

1976年に帰国した私を引っ張ってくれたのが、後日つま恋村のガス爆発の犠牲になった故田窪昌司広報部長(当時)だ。与えられた役割は海外広報で、最初の仕事がモータージャーナリストであるポール・フレールさんの招聘(しょうへい)だった。著名な日本人ジャーナリストの力をお借りしてご夫妻を招聘、フレールさんのクルマに対する情熱と評価力にマツダ全体が敬服した。以来ご夫妻を毎年日本にお呼びし、FRファミリア、FRカペラ、FFファミリア、FFカペラなどを含む実に多くの新型車を開発段階で評価をいただくとともに、フレールさんの進言によりテストチームを幾度となく欧州に派遣。家族ぐるみのお付き合いもさせていただいた。今日マツダが標榜(ひょうぼう)する「人とクルマの一体感」のルーツはフレールさんにあると言っても決して過言ではない。海外広報時代には数えきれないプレスミーティングを企画、参画し、クルマへの思いをますます深めることができた。

84年に開発に復帰、86年、廊下ですれ違った山之内道徳専務(当時)に「RX-7担当主査をやってくれ」と言われ、その場で「ぜひやらせてください」と答えた。2代目の導入直後だった。∞(アンフィニ)仕様やカブリオレの開発と並行して3代目の開発に着手、チームメンバーとともに「志凛艶昂」というキーワードを設定した。忘れられないのがゼロ戦の残骸との出会いだ。貴島孝雄さんにリーダーとなってもらい「ゼロ作戦」を合言葉に徹底的な軽量化に挑戦した。一方で、私自身が楽しんでいたレーシングカートや、アメリカで人気を博しつつあったREフォーミュラカーをプロジェクトで購入。チームメンバーにそれらはもちろん、各種スポーツカーからロールス・ロイスにいたるまで、幅広い体験をしてもらい、追求すべきスポーツカー像を描き出した。デザインも佐藤洋一チーフデザイナーほかの努力で大変魅力的なものに仕上がった。

3代目RX-7の開発たけなわの89年11月、前任者の体調不良に起因し、突然モータースポーツ主査兼任を命じられた。
RE(ロータリーエンジン)出場可能最後の年、90年ルマンに向けて当時の上司であった達富康夫商品本部長の大号令のもとエンジン性能は大幅に向上したが、90年は惨敗。幸いもう一年REの出場が可能となったので、「勝つためのシナリオ」を構築、ハード&ソフトの課題を全て洗い出し全員が一丸となって問題解決にあたった。91年の優勝は、中学から大学まで同窓同期の故大橋孝至マツダスピード専務(当時)を中心に、18年間にわたってルマンに挑戦し続けた努力に女神がほほ笑んでくれた結果ともいえる。

3代目RX-7の導入後は、広報/デザイン本部、北米マツダなどを経て2001年に退職。著名な自動車評論家のおすすめもあってRJCの会員となり、フリーランスモータージャーナリストの道を選択。三樹書房から車評シリーズを出版、現在は『車評オンライン』で、毎月率直な意見を述べさせてもらっている。

最後に一言述べておきたいのは、日本の自動車産業の今世紀半ばに向けての継続した繁栄は決して容易ではなく、これからの日本のクルマづくりを背負ってくれる若者のクルマへの愛情の拡大と育成は急務ということだ。そのためにはクルマを楽しめる環境の醸成が何にもまして大切であり、日本の社会全体、あるいは企業内にまん延しているコンプライアンス思考の見直しは必須だ。皆さまとともに知恵を出していければ幸いである。

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[ガズ―編集部]

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