マスキー法をめぐって――石油ショックと公害(1970年)

よくわかる 自動車歴史館 第57話

1940年代から公害が問題となったアメリカ

初代ホンダ・シビックは1972年にデビュー。1973年末にCVCCエンジン搭載車が投入された。
シビックに搭載されたCVCCエンジン。1972年12月にアメリカ合衆国環境保護庁(EPA)の排出ガス試験を受け、世界で初めてマスキー法の基準をクリアしたエンジンとなった。
1972年11月に発売されたマツダ・ルーチェAP。「AP」とはアンチポリューションの意味で、同車のロータリーエンジンは1973年2月にマスキー法の基準をクリア。1973年5月には、他車に先駆け、日本において低公害車優遇税制に認定されている。

1972年2月、本田宗一郎は記者会見で「75年排出ガス規制値を満足させるレシプロエンジンを73年から商品化する」と発表した。実際には製品は完成していなかったが、副燃焼室を使って希薄燃焼を実現する方向性は固まっていた。ここで“75年排出ガス規制値”といわれているのは、1970年に制定されたアメリカの大気浄化法改正法を指す。エドマンド・マスキー上院議員の提案によって作られたため、マスキー法と呼ばれることが多い。

ホンダはCVCC(Compound Vortex Controlled Combustion、複合渦流調整燃焼方式)エンジンを開発し、1973年にこのエンジンを搭載したシビックを発売した。世界で初めてマスキー法をクリアした自動車という栄誉は、日本車が獲得したのである。しかし、この時すでにマスキー法は規制の延期が発表されていた。アメリカのビッグスリーやヨーロッパの自動車メーカーは規制への対応は不可能だとして実施に反対し、アメリカ議会に圧力をかけていた。さらに、1973年に起きたオイルショックが、問題を複雑にしていた。サーマルリアクターの改良によってマツダも規制値をクリアしていたが、その努力が正当に報いられる前に実現すべき目標自体が葬り去られていたのだ。

モータリゼーションの進行により、アメリカでは早くから公害問題が取り上げられるようになっていた。ロサンゼルスでは、1940年代から光化学スモッグが発生し、健康被害が報告されるようになった。地形的にガスが滞留しやすいことも不利に働いたが、主要な原因は自動車の排出ガス増加だと考えられた。かつてはロサンゼルスには鉄道網があったが、その多くが廃止されて自動車での移動を前提とした都市となっていたのだ。自動車の排出ガスに含まれる窒素酸化物(NOx)が盆地状の市街にとどまり、日光を受けて有毒な物質を発生させていた。

マスキー法の制定と規制の後退

1960年代に用いられた、GMの5リッターV6エンジン。
深刻化する大気汚染に対し、アメリカの自動車メーカーも全く手をこまねいていたわけではない。1960年代の初めには未燃焼ガスの放出を抑制するPCVバルブの普及が始まっている。しかしマスキー法の基準は、こうした取り組みだけではクリアできないものだった。
1960年代以降の原油価格の推移。オイルショックは自動車ユーザーに燃費に対する意識を芽生えさせたが、同時に排出ガスに対する規制の動きを鈍化させることともなった。

アメリカでは、1955年に大気汚染法が制定されている。州政府に対して大気汚染の研究や管理の権限を与え、除去するための方法を開発するように指示するものだった。研究が進むにつれ、汚染物質の発生を抑えるための基準作りが必要であるという考えが広まっていく。1963年、議会の大気および水質汚染特別小委員会が報告書を提出した。公共の福祉と人体の健康を守るために大気環境基準を設定することが必要だと提言し、それをもとに大気浄化法が制定された。報告書をまとめた小委員会委員長が、マスキー議員である。

彼は1964年の記者会見で、「大気汚染の最大の単一原因は、自動車であると思う」と述べている。公害の発生源として自動車をターゲットにし、積極的に対策をとる必要があると考えていた。1965年には自動車大気汚染制御法が制定され、排出ガスの連邦基準の作成計画を作ることが目標に定められた。公害に対する市民の目は厳しくなり、環境問題への関心が高まった。1970年に入ると、ニクソン大統領は一般教書の中で“公害に対する宣戦布告”を行い、大統領直属の環境保護庁(EPA)を設置した。全米で“地球の日”と銘打ったイベントが催され、デモンストレーションに2000万人もの人が参加した。

公害への対策が注目を集める中、マスキー議員が提案した大気浄化法の改正案が審議され、上下両院で可決された。ニクソン大統領はこの法案に署名し、12月31日に1970年大気浄化法改正法が制定された。法律の条文には、排出ガスの軽減に関して明確な規定が記されていた。主要な項目は、次のとおりである。

・1975年以降に製造される自動車から排出される一酸化炭素(CO)および炭化水素(HC)は、1970年~71年基準から少なくとも90%以上減少させなければならない
・1976年以降に製造される自動車から排出される自動車のNOxは、1970年~71年基準から少なくとも90%以上減少させなければならない

基準を達成できなければ、自動車の販売を認めないという条項も盛り込まれていた。ビッグスリーは反発し、1972年にマスキー法の実施延期を申請する。EPAは公聴会を開催し、延期申請を却下した。メーカー側は連邦控訴裁判所に提訴して対抗する。1973年2月、裁判所はEPAにあらためて公聴会を開催することを命令した。全米科学アカデミーはマスキー法の期限内実施は困難であるとの報告を提出し、延期論に有力な根拠を与えた。EPAは公聴会の結果を受け、規制の延期を決定する。公害への怒りが沸騰する中で成立したマスキー法だったが、風向きは完全に変わっていった。

マスキー法の後退を決定づけたのは、10月6日に始まった第4次中東戦争だった。オイルショックが先進工業国の経済を直撃し、資源・エネルギー問題が急浮上したのである。議会には緊急エネルギー法案が相次いで提案され、ガソリンの消費規制が打ち出された。

1974年1月に発表されたエネルギー教書では、ニクソン大統領はマスキー法の規制を手直しする必要性を強調した。自動車メーカーが燃費改善に注力することを求め、排出ガス規制の緩和を求めたのである。大気汚染の浄化に悪影響を与えるものではないとのただし書きが付けられたが、優先順位が落とされたのは紛れもない事実だ。

逆風の中で技術を磨いた日本メーカー

1972年10月の東京モーターショーにおいて、ホンダブースに展示されたCVCCエンジン。
CVCCエンジンの仕組みは、シリンダー内の混合気に直接点火するのではなく、まず燃料の濃い副燃焼室で火をおこし、その燃焼ガスによって主燃焼室の薄い混合気を確実に燃焼させるというもの。それまでのエンジンでは難しかった希薄燃焼を可能とした。
三元触媒とは、CO、HC、NOxを一つの触媒で同時に酸化・還元処理するシステムのこと。電子燃料噴射との組み合わせにより、1977年にトヨタ・クラウンで初めて実用化された。

日本では、1968年に大気汚染防止法が制定された。ばい煙や粉じんなどとともに、自動車の排出ガスに対する規制を定めた法律である。法的な根拠を得て、運輸省は保安基準でCO濃度の上限を決めて順守を義務付けた。アメリカと同様に大気汚染などの公害が社会問題になっており、1970年の臨時国会は“公害国会”と呼ばれるほど盛んな議論が行われた。翌1971年1月には環境庁が発足し、公害への対策に取り組むことになる。

1972年には環境庁が設立した中央公害対策審議会が答申を発表し、日本でもマスキー法に準じた排出ガス規制を行うように勧告した。1973年に排出ガス試験項目がHCとNOxに拡大され、対策が求められるようになった。“日本版マスキー法”と呼ばれた公害対策は、「昭和53年排出ガス規制」が集大成となる。NOxを0.25グラムに抑えることが定められ、当初のマスキー法の目標値を完全達成するものだった。車検制度によって定期的に試験が行われることもあり、世界一厳しい規制と呼ばれた。

画期的な公害対策だったが、内外からの逆風にさらされた。アメリカのマスキー法は実質的に骨抜きとなっており、ヨーロッパも厳しい規制には消極的だった。欧米からは、日本の規制強化を非関税障壁と見なす声が上がったのである。アメリカ政府や欧州共同体からは、科学的根拠がないとして規制に反対する要望が届けられた。実施すれば、報復措置として日本車の輸入規制が発動されるおそれすらあった。

国内では、日本興業銀行が規制の経済的影響を分析するリポートを発表した。規制が実施されれば自動車価格は上昇し、燃料消費の増大、性能の低下が避けられないと指摘した。それによって国内の乗用車需要は低下して1976年には前年比60万台の減産を招き、雇用が失われると警告したのである。大気汚染防止の取り組みは、経済的損失とてんびんにかけられ、国際問題に発展していた。それでも日本では公害防止を要求する声が大きく、規制は予定通りに実施された。

CVCCエンジンを搭載したシビックは世界的な大ヒットとなった。排出ガスがクリーンだっただけでなく、希薄燃焼によって低燃費も実現していたのである。前処理の技術であるCVCCに加え、後処理技術の三元触媒も排出ガス浄化に効果的だった。他の日本メーカーもすべて昭和53年規制に適合する技術を開発し、日本車は世界一クリーンなクルマとして評判を高めていく。

排出ガスをめぐる規制が欧米と日本とで分かれた背景には、高品質で低価格な日本車の輸出が急増していたことがある。1970年の時点で自動車生産台数はアメリカに次いで世界第2位となっており、輸出台数も100万台を超えていた。その後も生産台数は順調に増加し、興銀のリポートの予想に反して1976年には前年比90万台以上の増加を記録した。

現在では規制がさらに強化されており、排出ガスのクリーンさと低燃費は自動車の性能の中で大きな位置を占めている。マスキー法をめぐる国際的な動きの中で日本車は技術を磨き、確実に地位を向上させた。環境技術への取り組みはその後も続けられ、20世紀末にはトヨタがハイブリッドカーのプリウスを誕生させて新たな段階に歩を進めることになる。

1970年の出来事

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四駆の軽 ジムニー誕生

1970年3月3日、スズキから新型車ジムニーが発表された。軽自動車でありながら本格的な四輪駆動の機構を持つユニークなモデルだったが、新車発表会は開かれなかった。それどころか、プレスリリースもA4版でわずか3枚という簡素なものであり、地味なスタートだった。

ジムニーの原型は、1967年に発売されたホープスターN360である。軽オート三輪メーカーのホープ自動車が、三菱製のエンジンを使って製造した四輪駆動車だった。発売はしたものの売れ行きはかんばしくなく、経営難に陥る。譲渡先を探していたところ、興味を示したのがスズキ自動車の鈴木 修だった。

あまりに特殊なモデルであり、社内には反対する者も多かった。その結果、発売時にも派手な宣伝活動は行われなかった。しかし、安価で走行性能が高いことから一般ユーザーからも人気となり、販売目標を大幅に上回る売れ行きを示した。

ラダーフレームに前後リジッドアクスルを採用し、パートタイム4WD機構を備えて悪路走破性は高かった。スポーティーなスタイリングも好評で、乗用車としての需要も大きかった。

大型の四輪駆動車をも上回る機動力は世界的に高く評価された。排気量の大きいエンジンを搭載したモデルも作られ、広く海外で販売されている。

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“フルチョイスシステム”でセリカが人気に

1964年に発売されたフォード・マスタングは、適度なサイズとスポーティーなスタイリングで爆発的なヒットとなった。人気の理由は、多彩なオプションを打ち出した“フルチョイスシステム”にもあった。本体価格を抑え、好みによってトランスミッションやシートなどを選べるようにしたのである。

トヨタが1970年に発売したセリカは、このアメリカ式スペシャリティーカーの方程式をいち早く取り入れたモデルである。エンジンは2T-G型1.6リッターDOHCのほか、2T-B型、2T型、T型が用意された。トランスミッションも、5段と4段のMT、3段ATの中から選ぶことができた。さらに3種の外装、8種の内装があり、自分好みの仕様を見つけられることが注目された。

多様な注文に対応するため、トヨタはデイリーオーダーシステムと呼ばれる仕組みを作り上げた。全国の販売店が毎日の受注内容を連絡し、トヨタ自販が集計したデータをまとめてトヨタ自工に伝送する。自工はそれをもとに生産計画を立て、優先車種を決めて組み立てラインに指示を送る。

市場動向は生産の現場にスムーズに伝わるようになり、車両開発にもデータが生かされるようになったのである。

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“人類の進歩と調和”大阪万博開催

大阪・吹田市の千里丘陵で、1970年3月から半年にわたってアジア初の万国博覧会が開催された。1964年のオリンピックに続き、日本が先進国の仲間入りをしたことを示す象徴的なイベントである。

文字通り万博の顔となったのが、岡本太郎が製作した太陽の塔である。前面に2つ、背面に1つの顔を持ち、お祭り広場に設置されて大屋根から上部を突き出していた。

世界から77カ国が参加し、それぞれに意匠を凝らしたパビリオンが建てられた。日本館と並んで人気となったのは、空気圧でガラス繊維の屋根を支えるという斬新な構造を持ったアメリカ館だった。アポロ12号によって持ち帰られた月の石が展示され、ひと目見るために2時間以上並ばなければならなかった。

企業パビリオンは未来技術のビジョンを競い、テレビ電話や動く歩道、人間洗濯機などが展示された。万博のテーマは「人類の進歩と調和」で、誰もが一点のくもりもない明るい未来を思い描いた時代だった。

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[ガズ―編集部]