個性派たちの遊撃戦(1972年)
よくわかる 自動車歴史館 第59話
トヨタと日産の販売戦争
- 1955年に誕生した初代クラウン。トヨタが独自に開発した純国産の高級セダンであり、1962年のモデルチェンジまで、ATの採用や排気量の拡大などの改良が続けられた。
- 1966年に誕生したトヨタ・カローラ。デビューとともに大変な人気を博し、長年にわたり登録車における日本国内販売台数のトップに君臨し続けた。
戦後日本のモータリゼーションを主導したのは、トヨタと日産である。1955年に発売されたトヨペット・クラウンは、初の本格的国産乗用車だった。公称最高速度100km/hという動力性能と快適な乗り心地が高い評価を受け、自主開発路線が正しかったことを証明した。しかし、100万円近くする価格は当時の庶民がおいそれと手を出せるものではなく、多くはタクシーとして使われた。
自動車の普及に大きな役割を果たしたのは、もうひと回り小さなモデルである。1959年に日産が発売した初代ブルーバード310型は、それまでの210がトラックと共用のシャシーだったのに対し、乗用車専用の設計を採用し走行性能を飛躍的に向上させた。タクシー需要もあったが一般ユーザーからも好評で、売れ行きは好調だった。トヨタは1960年に2代目コロナを発売して対抗するが、ブルーバードの牙城を崩すには至らなかった。
ブルーバードとコロナの販売合戦は次第に激しさを増し、“BC戦争”と呼ばれるようになる。ブルーバードは1963年に発売された410のデザインが不評で、翌年発売された3代目コロナが初めて首位を奪った。それでもブルーバードはアメリカでの販売が好調で、輸出台数ではコロナを上回っていた。
1966年になると、戦いの場を移してさらに競争は熾烈(しれつ)になる。日産が4月にサニーを発売し、ベーシックな大衆車の市場を切り開いた。スタンダードが41万円という低価格もあり、人々は好感をもって迎え入れた。11月、トヨタは同じクラスのカローラをデビューさせる。サニーよりも100cc大きな1100cエンジンを搭載し、「プラス100ccの余裕」というそのものズバリのキャッチコピーで優位性をアピールした。1970年になると、モデルチェンジしたサニーがエンジンを1200ccに拡大し、「隣のクルマが小さく見えます」とやり返した。
ラインナップがそろい、トヨタでは「カローラ-コロナ-クラウン」、日産では「サニー-ブルーバード-セドリック」という序列ができ上がっていった。若い時にエントリーカーを手に入れ、収入や地位が上がるにつれてクルマもグレードアップさせていく構図が固まったのである。
新鮮なシビック、トレンディーなファミリア
- 駆動方式をFFに改め、1980年に登場した5代目ファミリア。日本のみならず海外でも人気を博し、1982年には生産開始から27カ月にして生産100万台を達成した。
こうした動きの一方で、トヨタと日産以外のメーカーも注目すべきモデルを作っていた。1966年、富士重工がFFで水平対向エンジンというユニークなメカニズムのスバル1000を発売した。1967年には、東洋工業(現マツダ)がロータリーエンジンを搭載したコスモスポーツを世に出す。1969年にホンダが満を持して発表したのは、空冷エンジンにこだわったホンダ1300だった。それぞれに意欲的なメカニズムを備えたモデルだったが、モータリゼーションを担う主役とはなっていない。
時代を変えるほどのインパクトを与えたのは、1972年のホンダ・シビックである。アメリカの大気汚染規制法であるマスキー法を世界で最初にクリアしたCVCCエンジンを搭載したことで、世界的に大きな話題を呼んだクルマだ。ただ、人気となったのは、環境性能が優れていたからだけではない。何よりも、クルマ全体が新鮮さを感じさせたことが、若い人たちを引きつけた。
販売競争の中、メーカーの間では、ユーザーの心をとらえるためにクルマをいかに高級に見せるかがテーマとなっていた。こうした風潮に対し、シビックは飾り立てることをせず、経済的で合理的であることを前面に押し出したのだ。2ボックススタイルでFF機構を採用したのも、時代の先端を行っていた。ホンダは戦後にできた新しい自動車メーカーであり、F1参戦などもあって挑戦的で清新なイメージを持っていた。シビックは、それを見事に体現していたのである。
これと同じように、ほかのクルマにはない個性によって80年代に人気を博したのがマツダ・ファミリアである。オート三輪のメーカーとして成功していた東洋工業は、1960年に軽自動車のR360で四輪乗用車の分野に進出した。1963年には小型乗用車のファミリアを発売し、ライトバンからセダン、クーペとラインナップを拡大していく。エンジンはキャロルのものを拡大した800ccの水冷直列4気筒で、700ccのパブリカより大型だったことで販売を伸ばした。
モデルチェンジを重ね、4代目はヨーロッパや北米でも販売されるようになった。ファミリアが日本で大ヒットしたのは、初めてFF化された1980年の5代目である。駆動方式の変更に合わせてデザインを一新し、シンプルな面で構成されたウェッジシェイプのハッチバックになった。フォルクスワーゲン・ゴルフの登場で世界のトレンドとなっていたスタイルを、いち早く取り入れたのだ。
FFの利点を生かして室内は広く、前席シートはほとんどフルフラットになるまで倒すことができた。若者の圧倒的な支持を得たのは、電動サンルーフなどが標準装備とされたXGのグレードで、色は鮮やかな赤が選ばれた。エンジンは74馬力の1.3リッターと85馬力の1.5リッターがあり、どちらもクラストップレベルのハイパワーだった。それでいて低燃費だったことが、前年に第2次オイルショックが起きていた世相にマッチしていた。
この年から始まった日本カー・オブ・ザ・イヤーで、ファミリアは初代イヤーカーとなった。売れ行きはその後も伸び続け、1982年と83年には、月間販売台数でカローラとサニーを抑えて5回の1位を獲得している。
パリでダンスしたジェミニ
- GMのグローバルモデル構想のもとに開発された初代いすゞ・ジェミニ。ベレットの後継モデルであることから、当初は「ベレット・ジェミニ」と名乗っていた。
戦前にバスやトラックなどの生産でトップ企業となっていたいすゞ自動車は、戦後になるとヒルマン・ミンクスのライセンス生産で乗用車部門に進出する。その経験をもとに、ベレル、ベレットという独自開発のモデルを製造するようになった。ベレルは失敗に終わったが、ベレットはスポーティーなハンドリングで高い評価を受けた。それでも乗用車販売のノウハウに乏しいいすゞは1960年代に経営が悪化し、1971年にアメリカのゼネラルモーターズ(GM)と資本提携することになった。
GMでは「グローバルカー構想」を推進しており、その中で生まれたのがジェミニだった。オペル・カデットをベースとし、世界中でそれぞれの国に合わせたモデルを製造しようというものである。シボレー・シェベットやポンティアック1000は姉妹車にあたる。
ジェミニは1985年にFF化され、2代目となった。こちらはいすゞが独自に開発したモデルである。基本デザインは117クーペやピアッツァも手がけたジョルジェット・ジウジアーロが担当し、都会的な印象を与える洗練されたスタイルとなった。1.5リッターのガソリンエンジンのほかに、お得意のディーゼルエンジンも用意された。
キビキビとしたハンドリングが好評で、売れ行きも伸びていった。大ヒット作となったのは、クルマの出来の良さ以外にも要因があった。「街の遊撃手」というキャッチコピーが使われたCMが強い印象を残したのである。パリにクルマを持ち込み、凱旋(がいせん)門やエッフェル塔を背景にして撮影が行われた。ワルツやシャンソンが流れる中、ジェミニがダンスを踊るように街を走る。息を合わせて流れるようにランデブー走行する様子は優雅だったが、プロのドライバーチームの緻密な運転技術に支えられていた。
最初は2台のジェミニで撮影されたが、徐々に数が増えて20台以上が華麗な舞を披露するバージョンもあった。地下鉄の駅から階段を駆け上がるシーンも撮影された。これらのGMにはハンドリング重視、ヨーロッパ志向というジェミニのキャラクターが強く表れていて、それは現実のモデルにも反映された。ドイツのイルムシャーやイギリスのロータスと組み、スポーティーなチューニングが施された特別モデルが販売されたのだ。
いすゞは2002年に乗用車部門から撤退したが、今もジェミニのCMは名作といわれている。初代シビック、赤いファミリアも、一つの時代を作ったクルマとして今も多くの人が鮮明に記憶している。突然現れてそれまでにあった風景を一変させてしまう衝撃を与えたのは、華麗な遊撃戦を見せてくれたこれらのクルマなのだ。
1972年の出来事
topics 1
乗用4WDの先駆車レオーネ発売
1971年10月、富士重工業はff-1に代わるモデルとしてスバル・レオーネを発売した。当初はクーペだけという地味な船出だったが、この時開催された東京モーターショーに出品されていたコンセプトモデルこそが、スバルのその後を決定づける重要な意味を持っていた。
1960年代から東北電力では冬季の点検作業にジープタイプの四輪駆動車を使っていた。しかし性能は満足のいくものではなく、地元ディーラーにライトバンを4WD化してほしいと要望していた。ディーラーが苦心して作り上げた試作車は群馬製作所に持ち込まれ、本格的な開発が始まった。
モーターショーに出品されたモデルは、20台ほどがサンプル製作され、東北電力でも使われた。1972年になり、レオーネのエステートバンに4WD版が追加された。乗用車タイプのボディーに4WDを採用することは、当時はとっぴな発想だったのである。
レオーネはその後セダンにも4WD版を追加する。水平対向エンジンと4WDを組み合わせるというスバルのアイデンティティーは、この時に誕生したのである。
topics 2
グラハム・ヒルが“レース三冠王”に
レーシングドライバーのグラハム・ヒルは、モナコマイスターの異名を持つ。1963~65、68、69年にF1モナコGPで優勝し、間の66、67年も3位と2位という圧倒的な強さだった。
ジム・クラークとはライバルの関係であり、この時期のF1を代表するドライバーだったが、デビューは29歳と遅い。トランスポーターの運転手やメカニックの仕事を務めた後、ドライバーの座を獲得した。
F1では、1962年にBRM、1968年にロータスでワールドチャンピオンを獲得している。1966年にはインディ500に参戦し、優勝。1972年にはルマン24時間レースも制覇している。彼は異なる3つのカテゴリーで、ことごとく強さを発揮したのである。
世界3大レースと呼ばれる戦いをすべて制したのは、グラハム・ヒルだけである。1975年に彼は飛行機事故で命を落とすが、息子のデイモンが後に跡を継いだ。1996年に彼はワールドチャンピオンになり、親子でF1チャンピオンという記録も達成した。
topics 3
日中国交回復でパンダ外交
中国では第2次世界大戦前から国共内戦が続いており、1949年に毛沢東が率いる人民解放軍が勝利を収めて中華人民共和国を樹立した。蒋介石の国民党政府は台湾に追いやられ、2つの政府が並立する状態となる。
冷戦下で中華人民共和国をソ連が支援し、台湾を西側諸国が支持するという構図になった。しかし、路線対立から中国とソ連の関係が悪化し、逆にアメリカとソ連の間では緊張緩和が進んだ。1970年代に入ると、米中接近が取りざたされるようになった。
1971年7月、ニクソン大統領が翌年に中国を訪問することを発表し、世界を驚かせた。大統領補佐官のヘンリー・キッシンジャーが水面下で交渉を進めていたのである。この“ニクソン・ショック”で、台湾一辺倒だった日本政府は大混乱に陥った。
状況を打開したのは、1972年に首相に就任した田中角栄である。彼は9月に北京を訪問し、戦後27年を経て国交が正常化された。友好の証しとして、中国からパンダのランランとカンカンが日本に贈られた。
【編集協力・素材提供】
(株)webCG http://www.webcg.net/
[ガズ―編集部]
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