欧米化とプレミアムブランド(1986年)

よくわかる 自動車歴史館 第61話

1970年代に急増した日本車の対米輸出

クラウンとともに米国に輸出されたランドクルーザー。1960年にクラウンの輸出は中止されたが、同車については販売が続けられ、1964年には2595台を売り上げた。
トヨタが1966年に米国に投入したコロナ。米国市場で初めて大きな成功を収めたトヨタ車となった。

日本の自動車会社がアメリカへの進出を始めたのは、1950年代である。1958年のロサンゼルス自動車ショーには、トヨタからクラウンとランドクルーザー、日産からダットサン210型セダンと220型トラックが出品された。しかし、当時の日本車の性能ではアメリカの交通事情に対応できず、本格的な輸出は始められなかった。

こうした中、トヨタは1963年からヨーロッパに進出。デンマークにクラウンを輸出したのを皮切りに、オランダ、ノルウェーなどに販売拠点を築いていく。一方、アメリカでは1966年に投入したコロナがセカンドカーとして高評価を得、販売が急増。トヨタにとって最大の輸出先となった。1968年からはカローラの輸出も始まり、1971年には40万4000台の完成車が海を渡った。

1973年のオイルショックは、燃費のいい小型車を得意とする日本にとって追い風となった。1970年にはアメリカの輸入乗用車販売台数のトップ10に入っていたのはトヨタと日産だけだったが、1975年にはホンダ、マツダ、三菱も加わっている。そしてこの年、フォルクスワーゲンに代わってトヨタが首位となった。アメリカの輸入車台数のうち、51.8%を日本車が占めることになった。

1970年代末にはさらに日本車の輸出が拡大し、1980年にはアメリカで販売されるすべての自動車の中でのシェアが21.2%に達した。日本車の急増は政治問題となり、1981年に対米自動車輸出の自主規制が始まった。代わりに日本のメーカーはアメリカに工場を作り、現地で生産することを選んだ。

ヨーロッパ車に対抗するための販売チャンネル

1988年5月、トヨタのケンタッキー工場にて行われたカムリのラインオフ式の様子。
1986年に日本メーカー初の高級車ブランドとして発足したアキュラ。当初のラインナップはインテグラとレジェンドだった。
1989年のデトロイトショーで発表された、インフィニティQ45。

最初に現地生産を始めたのは、ホンダである。同社は1959年にアメリカン・ホンダ・モーターを設立し、1963年からは「ナイセストピープル・キャンペーン」を行って二輪車メーカーとしての地位を確立していた。四輪車の分野においても、オイルショック後にCVCCエンジンを搭載したシビックが大ヒットし、乗用車メーカーとして実績を重ねていった。1982年、ホンダはオハイオ州の工場でアコードの生産を開始する。これに対し、日産は1983年にダットサントラックから現地生産を開始。トヨタは1988年にケンタッキー州の工場でカムリをラインオフした。

日本車はアメリカで確固たる基盤を築き、順調に販売を伸ばしていった。しかし、懸念材料がなかったわけではない。確かに台数は拡大していったが、あくまでそれは安くて壊れない優秀な実用車という評価だったのである。80年代の北米市場におけるトヨタのイメージは、「カローラとトラックの会社」というものだった。

日本車に追いやられた形となったドイツ車は、その間に着々とステータスを高めていった。メルセデス・ベンツやBMWが揺るぎないブランドを築き、利幅の大きな高級車市場で売り上げを伸ばしていく。イギリスのジャガーやスウェーデンのボルボも、存在感を高めていった。一方、大衆車の分野では日本車よりもさらに安価な韓国車が進出を始め、日本メーカーはシェアを奪われつつあった。しかも、円高の進行が利益確保を困難にしていく。生き残るためには、主力を上級車種に移行する必要があったのである。

しかし、大衆車のメーカーというイメージがついているかぎり、ヨーロッパ車の牙城を崩すのは難しい。そこで考えられたのが、高級車を扱う新たな販売チャンネルを作ることだった。いち早く動いたのは、やはりホンダだった。1986年、同社は新たにアキュラを立ち上げる。全米60カ所のディーラーにより、高級セダンのレジェンドとスポーティーカーのインテグラが販売された。日本車として、初めてのプレミアムブランドとなったのである。

トヨタと日産も、新たなブランドを設立した。1989年、トヨタからレクサス、日産からインフィニティが誕生する。中でもアメリカのユーザー、そしてヨーロッパの自動車メーカーに大きな衝撃を与えたのは、レクサスのフラッグシップであるLS400だった。それは、“高級車の定義を変えた”と評されるほどの驚きだった。

短期間でブランドを構築したレクサス

1989年に誕生したレクサスLS400。日本ではトヨタ・セルシオとして販売された。
レクサスのショールームの様子。
日本進出1号店となった東京・品川のレクサス高輪。
レクサスは最上級モデルのパワートレインに、大排気量の高出力エンジンではなくハイブリッドシステムを選択した。写真は2006年のニューヨークショーでお披露目となったLS600h。

トヨタはアメリカ人のジャーナリストをドイツに招待し、LS400の試乗会を開いた。比較用に、競合車としてメルセデス・ベンツやBMWなども用意されていた。レクサスの性能を試してもらうため、高速走行のできないアメリカではなく速度無制限のアウトバーンを選んだのだ。“トヨタの高級車”を疑いの目で見ていたジャーナリストは、思い違いに気づくことになった。240km/hでも緊張することなく走ることができ、何よりも静粛性が素晴らしかった。それほどの速度でも、オートチェンジャーに収められたクラシックのCDをストレスなく聞けることが彼らを驚かせた。

販売価格も誰も予想しなかったものだった。ヨーロッパ車の中型車クラスと同等の3万5000ドルという値付けがされていたが、4リッターV8エンジンを搭載するLS400は各社のフラッグシップモデルと競合するモデルだった。『フォーチュン』誌では、「自動車産業市場でレクサスLS400ほど徹底的に解析されたクルマはない」と書かれた。なぜなら、「デトロイトからシュトゥットガルトまでのエンジニアが、5万ドル以上はするクルマをいやらしいほどの安い価格で生産した秘密を探ろうとした」からだという。

評価されたのは、クルマの性能だけではなかった。ディーラーでのきめ細やかな接客やアフターサービスが、それまでのアメリカでは見られないレベルだったのである。顧客第一主義を貫く姿勢は、品質の評価とあいまってレクサスのブランド価値を押し上げた。8月に発売してから12月までに販売された1万1000台以上のLS400のうち、約38%がヨーロッパ車からの買い替えだった。J.D.パワー社が1990年7月に発表した新車購入ユーザーの品質評価に関する調査では、メルセデス・ベンツを上回ってトップにランクされた。

アキュラ、レクサス、インフィニティは、アメリカ以外にも進出してグローバルなブランドとなっていく。しかし、一つだけ重要な市場が手付かずのまま残されていた。日本である。3ブランドとも、日本では新たな販売チャンネルを立ちあげなかったのだ。アキュラ・レジェンドはホンダ・レジェンドとして販売され、インフィニティQ45という車名のモデルが日産のディーラーに並べられた。レクサスLS400と同じモデルは日本でも発売されたが、トヨタ・セルシオという名で売られていた。

2005年、レクサスが日本市場に導入された。「日本の文化に根差した日本発のプレミアムブランドをつくる」ことを課題にし、グローバルな展開を進めるための決断だった。日本でも高級車市場はヨーロッパ勢が席巻しており、状況を打開するには世界基準のブランド再構築が必要だと考えたのだ。日本で成功をおさめれば、課題のヨーロッパ市場でも存在感を見せることができる。

「おもてなし」をキーワードにして和の精神をクルマに注ぎ込み、L-finesse(エルフィネス)というデザインテーマを設定して「先鋭-精妙」の美を目指した。500項目以上にわたって定められたLEXUS MUSTsは、トヨタとの差別化を図るための技術的なレシピだった。ヨーロッパ車とは異なる新たな価値を際立たせたのは、ハイブリッド技術である。2007年に発売されたLS600hは、5リッターエンジンで6リッター並の動力性能を発揮し、同時に3リッター並の低燃費を実現していた。

かつての日本車は、性能の割に安いという理由で人気を得ていた。それは実用品としての評価であり、伝統を持つヨーロッパの高級車とは別なカテゴリーだと思われていた。歴史の面では引けを取る日本車だが、レクサスはゼロからプレミアムブランドを構築した。わずかな期間で、メルセデス・ベンツやBMWといった強力な相手と真っ向から勝負できる体制を築き上げたのだ。

1986年の出来事

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“ハイメカツインカム”のカムリ登場

「ツインカム」あるいは「DOHC」はシリンダーヘッドの動弁機構の形式を表す技術用語だが、かつてはスポーティーな高性能車であることの証しだった。OHVやSOHCに比べて高回転化が容易で、ハイパワーを得られることからレーシングカーに採用されることが多かった。

1950年代になるとアルファ・ロメオが量産車にもDOHCエンジンを採用するようになり、日本でもスポーティーカーで使われるようになっていった。トヨタではセリカやカローラレビンなどに2T-G、ソアラに5M-GEUを搭載した。

実用車に向けて開発されたのが、ハイメカツインカムと呼ばれる機構だった。ヘッドに2本のカムシャフトを使うことは変わらないが、1本のみをタイミングベルトで駆動し、もう1本はシザーズギアを使って動かす仕組みである。

簡略化したことによってヘッドがコンパクトになり、軽量化にも効果があった。ハイパワーを追求するよりも、実用域での効率を向上させることに重きをおいた設計である。1986年にモデルチェンジされたカムリに、2リッターの3S-FE型エンジンを採用したのが初となる。その後もハイメカツインカムが搭載されるモデルは増加し、6気筒エンジンも作られるようになった。

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デボネアが22年ぶりにモデルチェンジ

1964年のデビュー以来、22年にわたり生産された初代デボネア。

1964年、三菱はクラウンやセドリックに対抗する高級車としてデボネアを発売した。2リッター直列6気筒OHVエンジンを搭載し、最高速度は155km/hとされた。スクエアなアメリカンスタイルで、フロントとリアの左右両端にエッジを立てて実際よりも大きく見えるデザインだった。初期モデルはL型のテールランプが特徴的である。

6気筒エンジンのみのラインナップだったため価格が高く、タクシー需要は少なかった。一般ユーザーにもなかなか浸透せず、ハイヤーや社有車として用いられることが多かった。

1970年のマイナーチェンジで6気筒SOHCエンジンに換えられ、1976年には2.6リッターの直列4気筒エンジンが載せられるようになった。外観や内装も少しずつ変更されたが、初めてフルモデルチェンジされたのは1986年である。22年間同じ形のまま売り続けられ、「走るシーラカンス」とも呼ばれた。

2代目の販売期間は短く、1992年に3代目に移行した。それも1999年に生産が終了し、デボネアの歴史は35年間で幕を閉じた。

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レンズ付きフィルム「写ルンです」発売

富士フイルムから1986年に発売された「写ルンです」は、日本人の写真意識を根元から変えた。カメラとフィルムが一体となって手軽に使うことができ、駅や観光地の売店でも売られていたことで、だれでもどこでも写真を撮れる時代になったのだ。

当初は“使い捨てカメラ”と呼ばれたが、フィルム部分以外はリサイクルして使う構造になっていて、“レンズ付きフィルム”と呼ばれるようになった。他社からも「よく撮れぞうくん」などの追随商品が発売され、駄菓子の「食べルンです」やマンガの『伝染るんです。』といったパロディーが続出するほどのヒット商品となった。

1994年にカシオがQV-10を発売してから、デジタルカメラの普及が進んでいった。携帯電話にもカメラ機能が付くようになり、レンズ付きフィルムは次第に売り上げを落としていった。それでも、2014年の段階ではまだ販売が続けられている。

2014年には国立科学博物館が定める未来技術遺産に登録された。「子どもでも手軽に写真を撮ることが一般的になり、写真文化の裾野(すその)を一気に広げた」ことが選定理由である。

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[ガズ―編集部]