【自動車人物伝】フェルッチョ・ランボルギーニ(1962年)

よくわかる 自動車歴史館 第63話

機械いじりばかりしていた少年時代

日本でも大変な人気を博したランボルギーニ・カウンタック。1971年に発表されたが、その後、市販化へ向けた開発が難航。発売されたのは1974年になってからだった。
スーパーカーメーカーのランボルギーニを一代で築き上げたフェルッチョ・ランボルギーニ。自動車業界を去ってからは農業を営み、ワイン作りなどに精を出した。1993年没。

1970年代中盤、日本にスーパーカーブームが吹き荒れた。マンガの『サーキットの狼』が火付け役となり、エキゾチックなスタイルと目覚ましいスピードを持つマシンが子供たちをとりこにした。主人公の風吹裕矢がロータス・ヨーロッパで公道バトルを行い、ポルシェ911カレラRS やフェラーリ365GT4BBなどと争いを繰り広げる。マンガで世界のモンスターマシンを知った子供たちが実車に興味をもつのは自然で、各地でスーパーカーショーが開かれて大勢の観客を集めた。

ショーでダントツの人気を誇ったのが、ランボルギーニ・カウンタックだった。1974年に発売されたこのモデルは、V12エンジンをミドに搭載する高性能スポーツカーで、ウェッジシェイプのゴツゴツしたデザインが他のモデルとはまったく違うオーラを放っていた。しかも跳ね上げ式ドアというわかりやすい特徴を備えていて、子供たちを熱狂させたのである。

ランボルギーニは、フェラーリと並ぶ世界トップのスポーツカーブランドとなっていた。創業は1963年で、自動車会社としては新参者だ。フェルッチョ・ランボルギーニが一代で作り上げたのである。しかし、日本がスーパーカーブームに沸いていた頃、彼はもう自動車の製造から離れていた。イタリア中部のパニカロール村にあるフィオリータ農園に移り住み、田舎暮らしを始めていたのだ。

フェルッチョは、もともと農家の出身であり、1916年、イタリア北部エミリア・ロマーニャ州の町チェントに生まれた。少年時代のフェルッチョは農作業の手伝いを好まず、家畜小屋の片隅で機械いじりばかりしていた。ミシンや自転車の修理などはお手のものだった。小学校を卒業すると鍛冶屋に弟子入りし、その後ボローニャに出て自動車整備工場に就職する。知識と技能を身につけてチェントに戻り、自ら修理工場を開いた。商売のかたわら、オートバイをチューンしてレースに明け暮れた。

第2次世界大戦が始まると、フェルッチョは徴兵される。ギリシャのロードス島で自動車部隊に配属された彼は、そこでも自動車の知識を蓄えていった。トラックの整備をまかされたことで、ディーゼルエンジンの扱いにも習熟していった。

トラクター事業で成功した時代の風雲児

「トッポリーノ(ハツカネズミ)」の愛称で親しまれた初代フィアット500。一般市民にも買える安価な大衆車として、イタリアのモータリゼーションを支えた。
フェルッチョが最初に製造したトラクターのカリオカ。トラクターメーカーとしてのランボルギーニは、現在はサーメドイツファールグループの一ブランドとなっている。
フェルッチョの故郷であるチェントを本拠地としたランボルギーニ・トラットリーチ。フェルッチョの自動車事業進出を支えたのは、好調に推移する同社の利益だった。

戦争が終わってチェントに帰ると、再び自動車修理工場を始めた。主に手がけたのは、フィアット500“トッポリーノ”である。イタリアは戦災からまだ立ち直っておらず、戦前型の自動車を直して乗る需要が大きかった。それなりに成功を収めるが、フェルッチョは新たな事業を模索していた。彼が目をつけたのは、農民たちが使うトラクターである。

イタリアでは農業の機械化が進んでおらず、人力での作業が普通だった。家畜のラバをつかって畑を耕すのがせいぜいである。大企業のフィアットでさえ満足のいく製品を供給できていない状況で、参入の余地があると考えたのだ。

1947年、フェルッチョは初めての製品となるカリオカを作った。連合軍の払い下げ物資の中にモーリス製のトラックを見つけ、4気筒のガソリンエンジンを軽油で動くように改造してトラクターに仕立てたのだ。安価で高性能な製品は評判となり、フェルッチョは1949年にランボルギーニ・トラットリーチ社を設立して本格的にトラクター製造を始めた。

1960年代には、ランボルギーニはトラクター業界のトップ企業に成長していた。エンジンも自社開発し、製品のバリエーションを増やした。新規の事業にも挑戦している。アメリカに旅行した際に近代的なライフスタイルを目の当たりにし、イタリアにも消費社会が訪れることを直感した。彼は暖房機とボイラーの製造・販売を始め、見事に成功させる。暖炉でまきを燃やすのが当たり前だった時代だったが、彼の目は先を見通していた。

イタリアは、好景気に浮かれていた。誰もが快適な生活を求めて消費に走り、製品は飛ぶように売れた。戦災からの復興を果たし、街には物があふれた。フェルッチョ自身の生活も、見違えるほど豊かになった。彼は、イタリアの“奇跡の経済成長”を象徴する風雲児だった。高価なスポーツカーも手に入れることができる。マセラティを、そしてフェラーリを買って、スピードを楽しむようになった。しかし、彼はクルマの性能に心から満足してはいなかった。

フェルッチョは、1948年にミッレミリアに挑戦したことがある。トッポリーノをベースに自作のOHVヘッドを組み込み、レーシングマシンを作った。トラクター製造に忙しかったが、夜は速いクルマ作りに情熱を傾けた。しかし、レースでは完走すらできなかった。一緒に乗った若いドライバーがコーナーでクラッシュし、リタイアを余儀なくされたのだ。その後フェルッチョはレースから遠ざかったが、スピードへの憧れは静かに心に秘めていたに違いない。

だから、高価なスポーツカーが完全ではないことに彼はいらだった。フェラーリのクラッチが弱くて何度も交換していたが、自分で修理しようと分解してみると、使われていたクラッチ板は自社のトラクター用と同じものだった。試しに純正のSOHCヘッドを自作のDOHCに交換してみたら、驚くほどスピードが上がった。フェルッチョが自分でクルマを作ったほうがいいものが作れると考えたのは不思議ではない。

今日に続くスーパーカーメーカーの誕生

トリノショーで発表された350GTV。
ランボルギーニの市販モデル第1号となった350GT。最高出力270psの3.5リッターV12エンジンを搭載。ボディーの生産はカロッツェリアのスーパーレッジェーラ・トゥーリングが担った。
1966年に誕生したランボルギーニ・ミウラ。流麗なデザインは、後にカウンタックも手がけることになるマルチェロ・ガンディー二の手になるものだった。
1999年にアウディの傘下となったアウトモビリ・ランボルギーニ。現在でも、創業の地であるサンタアガタ・ボロネーゼに本拠地を構えている。

フェルッチョがエンツォ・フェラーリに会いに行き、邪険にされたことでリベンジのためにクルマを作ろうと思い立ったという説がある。チェントからモデナまではごく近く、自らクラッチを買いに行ったのは確かなようだ。そこで、「200km/hまで加速してからギアをニュートラルに入れると滑らかに走る」と言い、ディファレンシャルギアがうるさいことを皮肉ったのも事実らしい。ただ、門前払いにされたというようなことはなく、怒りと対抗意識から事業を始めたというのは誇張がありそうだ。

いずれにせよ、これらの事件が相次いだ後、1962年末にフェルッチョは会社の役員を集めて自動車産業への進出を宣言した。懐疑的な意見も出たが、走りだした彼はもう止まらない。マセラティの技術者ジャンパオロ・ダラーラ、フェラーリで250GTOを手がけたジオット・ビッザリーニを雇い入れた。フェルッチョは、V12エンジン、DOHC、6連キャブレターなどという指針を示し、世界最高のグラントゥーリズモを作るように指示した。デザインは、新進気鋭のフランコ・スカリオーネに委ねられた。

1963年6月、チェントから近いサンタアガタ・ボロネーゼにアウトモビリ・フェルッチョ・ランボルギーニ(フェルッチョ・ランボルギーニ自動車)を設立する。その年の10月、トリノショーに350GTVが出展された。前衛的なスタイルが評判を呼んだが、生産に移すにあたってはモディファイが必要だった。翌年のジュネーブショーに350GTが展示され、生産が開始された。フロントノーズには、勇ましい闘牛をかたどったエンブレムが付けられた。フェルッチョがおうし座生まれであり、自らをタフな闘牛に例えてもいたからである。

350GTは排気量を拡大して400GTに発展し、完成度を高めて評価を確立した。ランボルギーニの名は、もはやトラクター会社にとどまらず、急成長を遂げた自動車会社と認識されるようになった。さらに名声を高めたのが、1966年に発表されたミウラである。V12エンジンをミドに搭載した画期的な2シータースポーツカーで、多くの自動車メーカーが追随することになる。

デザインを担当したのは、マルチェロ・ガンディーニである。流麗な美しいボディーはこれまでに見たことのないもので、ミウラは世界中で話題となった。注文が押し寄せて14カ月のバックオーダーを抱えた。顧客リストには有名人が名を連ね、フランク・シナトラ、ディーン・マーチン、グレース・ケリー、イランのパーレビ国王らが争って手に入れた。

ミウラとはスペインのセビリアにある大農園の当主の名で、強くたけだけしい闘牛を育ててきたことで知られる。この後、ランボルギーニのモデル名には闘牛にちなむ名が付けられるのが恒例となった。1971年に発表されたカウンタックは例外である。イタリア語では本来“クンタッチ”と発音され、これはピエモンテ方言で驚いた時に口に出す感嘆詞なのだ。再びガンディーニがデザインしたこのモデルは、ランボルギーニの名声をさらに確固としたものにした。しかし、この時ランボルギーニ社は危機に陥っていたのである。

イタリアでは1969年から“熱い秋”と呼ばれる政治の時代を迎え、ランボルギーニ社でも労働争議が頻発した。トラクター会社では従業員が工場を占拠し、生産不能状態になった。折悪くボリビア政府から受けていた大量の受注がキャンセルされ、大量の在庫を抱え込むことになってしまう。1970年代に入ると状況は好転の兆しを見せたが、フェルッチョの情熱はすでに失われていた。自動車会社とトラクター会社を売却し、自らは58歳で農園に引っ越したのである。

ランボルギーニ社はその後再び危機の時を迎え、クライスラーの傘下に入る。1999年からはアウディグループに移り、現在では見事に復活を果たしている。一方、フェルッチョはそんな混乱とは距離を置き、農園で新たな事業を始めた。ワイン作りである。自ら畑に出てトラクターを操り、ぶどうを収穫した。赤ワインの名は、“ミウラの血”である。フェルッチョは、情熱を向けるべき新たな道を見つけたのだ。

1962年の出来事

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フェアレディ1500がデビュー

1952年、日産は戦後初のスポーツカーとされるダットサン・スポーツDC-3を発売した。イギリスのMG-Tをモデルとした、4座のコンバーチブルだった。エンジンはサイドバルブの860cc直列4気筒で、3段マニュアルトランスミッションを組み合わせていた。注目は集めたものの、あまりにも非力で乗り心地も悪く、生産された50台の半数が売れ残ってトラックに仕立て直されてしまった。

1959年に後継車のダットサン・スポーツ1000が発売され、1960年にエンジンを1.2リッターに拡大した時に愛称のフェアレディの名が付けられた。ただ、当時の表記は“フェアレデー”である。

フルモデルチェンジを受け、1962年に発売されたのがフェアレディ1500だ。相変わらずシャシーはトラックのものを流用していたが、低重心化した上にセドリック用の1.5リッターOHVエンジンを搭載し、高速性能を高めていた。北米への輸出も行われている。

1967年には2リッターエンジンを積んだフェアレディ2000となり、最高速度205km/hとなった。1969年にフェアレディZへと発展し、北米を中心に大ヒットを記録することになる。

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鈴鹿サーキットが完成

ホンダは1959年に世界最高峰のオートバイレースであるマン島TTレースに参戦した。前年に発売したスーパーカブが大ヒットしていたが、本田宗一郎は世界を目指すために明確な実績を残す必要があると考えていた。それが、レースでの勝利だった。

同じ年、増産のために三重県鈴鹿市に新工場を建設することが決定した。従業員のためのレクリエーション施設を作ることが提案されたが、宗一郎は「そんなものはいつでもできる。オレは今、レース場が欲しいんだ!」と答えたという。四輪自動車生産のプロジェクトも始まっており、高性能な製品を作るためには自前のサーキットを持つべきだと主張したのだ。

ヨーロッパのサーキットを視察し、検討の結果全長約6キロで立体交差を持つ特異なレイアウトのコースが建設されることになった。1961年6月に工事が始まり、完成したのは翌年の9月である。建設が進められていた6月に、この場所でホンダ初の四輪車T360とS360が発表された。

テクニカルなコースレイアウトは国際的に評価が高く、二輪と四輪の多くのレースが行われている。FIAからはグレード1の認定を受けており、1987年からF1日本グランプリが開催されている。

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キューバ危機ぼっ発

第2次世界大戦後、世界はアメリカを中心とする自由主義陣営とソ連が主導する社会主義陣営に分かれ、対立を深めていた。実際の戦闘が行われなくても、互いにけん制しあう“冷戦”が続いていた。

核兵器を持ち合うことで直接の軍事行動が制約され、表面的には平和が保たれていた。しかし、中米の政治情勢の変化が混乱を引き起こすことになる。1959年にキューバ革命が起こり、親米のバティスタ政権が倒れた。政権の座についたカストロ首相をアメリカは敵視するようになり、キューバはソ連に接近する。

アメリカの侵攻を恐れたカストロ首相は、ソ連に武器供与を要請する。あからさまな行動で対立が激化することを懸念したソ連は、代わりに核ミサイルをキューバ国内に配備することを提案する。ソ連国内のミサイルではアメリカ本土に届かず、近くにあるキューバからなら攻撃することが可能だからだ。

アメリカはキューバ周辺の海域を封鎖し、ソ連船の入港を阻む態勢を整えた。結果的にはソ連のフルシチョフ首相がミサイル撤去を決断し、ケネディ大統領がキューバ侵攻を行わないことを約束して危機は回避されたが、後に核ミサイルの発射ボタンが押される寸前だったことが判明した。

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[ガズ―編集部]

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