BC戦争――マーケティングの時代(1964年)

よくわかる 自動車歴史館 第64話

クラウンとダットサン110型が誕生した1955年

1955年1月に登場した、初代トヨペット・クラウン。
日産にとって初の戦後設計の乗用車として、1955年1月に登場したダットサン・セダン(110型)。写真は1956年製。
1957年7月に登場した初代トヨペット・コロナ。丸っこい形状から「ダルマコロナ」の愛称で親しまれた。

1955年に発売されたトヨペット・クラウンは、日本の自動車産業がようやくスタート地点に立てたことを示していた。トヨタが純国産にこだわり、自主開発した技術で作り上げた本格的な乗用車だったのである。日本の道路を走っていたのは輸入車ばかりで、そうでなければライセンス生産されたクルマだった。その中に堂々と仲間入りしたクラウンは、いよいよ国産車も欧米のクルマと張り合えるようになったと感じさせたのだ。

期を同じくして、日産からひとまわり小型の乗用車がデビューする。ダットサン110型である。それまで生産されていたダットサンは戦前のモデルをベースにしたものだったが、110は新設計のボディーをまとっていた。とはいえフレームはトラックと共用のはしご型、エンジンは従来の860ccサイドバルブである。それでも改善された乗り心地と頑丈さが評価され、人気は上々だった。その頃はまだオーナードライバーは数少なく、タクシー市場で販売を拡大した。中型クラスはクラウン、小型クラスはダットサンという図式が生まれたのである。

トヨタ、日産はともに、相手の得意な市場に進出しようと狙っていた。日産は1960年にセドリックを発売し、クラウンのシェアを奪いにいく。トヨタもダットサンを追撃すべく、1957年にコロナを発売した。ただ、このモデルが急ごしらえであったことは否定できない。トヨペット・マスターのパーツを多く流用し、エンジンは旧式なサイドバルブの1リッター直列4気筒だった。トヨタ初のモノコックボディーを採用するというトピックはあったが、軽量化には結びつかずパワー不足は明らかだった。

ダットサン110型はコロナの登場を受けてモデルチェンジし、1リッター直列4気筒OHVエンジンを採用した。ライセンス生産していたオースチンA50用の1.5リッターエンジンをストロークダウンしたもので、信頼性が高く高回転を誇った。ダットサンの評判はますます高まり、コロナとの差を広げた。1958年には対米輸出も開始された。

技術で先行するブルーバード

1959年に登場した初代ブルーバード。
テストコースの高速周回路を走る2台のブルーバード。軽量化や高出力エンジンの搭載による、高い走行性能もブルーバードの自慢だった。
トヨペット・コロナは1960年4月に2代目にモデルチェンジ。1.5リッターエンジンの搭載や、2段ATの設定といった改良を繰り返し、1964年まで販売された。

ダットサンの攻勢は、さらに続く。1959年8月に310型が発売され、ブルーバードという愛称が加えられた。メーテルリンクの童話『青い鳥』にちなむもので、クルマを所有することで幸福がやってくるという意味を込めていた。エンジンは従来の1リッターと、ストロークを伸ばした1.2リッターが用意された。はしご型フレームは踏襲するものの、セミモノコック構造を採用して軽量化を図った。車両重量は、1.2リッターモデルでも870kgに抑えられた。

ボディーの軽量化と剛性アップが走行性能に大きなメリットを与えるという認識が、はっきりと結果に表れた。設計の段階で可能な限り軽量化し、テスト走行を重ねることで弱点を補強する方法が取られた。前輪には独立懸架のダブルウィッシュボーンを採用し、乗り心地の向上を目指した。市場の評価は高く、発売1カ月後には8000台以上のバックオーダーを抱えた。

ブルーバード発売の2カ月後、コロナはエンジン変更で対抗する。1リッターOHVエンジンは45馬力を誇り、43馬力のブルーバードを上回った。最高速度も105km/hを達成した。しかし、ブルーバードの勢いは止まらない。コロナは発売後半年でようやく3500台を販売したにすぎなかった。

この頃から、ブルーバードとコロナの競い合いを評して“BC戦争”という言葉が使われるようになった。2台のクルマの頭文字をとった命名である。世間はタクシー需要一辺倒から一般家庭が自動車を所有する時代へと移りつつあった。自動車評論家の徳大寺有恒氏は、ブルーバード310を「初めてのオーナードライバーズカー」と評している。

トヨタは1960年にコロナをフルモデルチェンジし、状況の転換を試みた。新型は、極めて意欲的なモデルだった。ルーフを支えるピラーはすべて後傾しているという、斬新なエクステリアデザインがまず目を引いた。スタイル以上に、メカニズムが先進的だった。エンジンは先代モデル末期に採用された1.2リッターをそのまま使ったが、サスペンションは一新された。フロントはトーションバーを使った独立懸架で、リアにはリーフスプリングとコイルを組み合わせたカンチレバー式を用いた。広くフラットなフロアを実現するための工夫である。

発売の1カ月前から少しずつ姿を見せていくというティザーキャンペーンも、日本では初の試みだった。それが功を奏したのか、発売当初の売れ行きは好調だった。しかし、凝ったメカニズムが裏目に出る。カンチレバー式サスペンションは道路の整備が進んでいなかった当時の道には繊細にすぎ、タクシー業界から評判が悪かった。舗装路では操縦性がいいものの、地方にはまだ多かった砂利道での耐久性に問題があったのである。2年後にリアサスペンションは従来のリーフリジッドに戻されるが、コロナは悪路に弱いという評価はすでに定着していた。

大衆の欲望に応えたコロナ

2代目となる410型ブルーバード。さらなる運動性能の向上に加え、イタリアのカロッツェリアにデザインを依頼するなど、日産が力を込めて送り出した一台だった。
410型ブルーバードのリアビュー。この「後ろ下がり」のスタイリングが、当時の日本では受け入れられなかった。
アローラインと呼ばれた直線基調のラインが特徴的な3代目トヨペット・コロナ。2ドアセダンや4ドアセダンに加え、2ドアハードトップや5ドアセダンなども用意された。

ブルーバード310型は累計生産台数が21万台に達し、そのうち3万2000台が輸出された。どちらも一車種としての当時の最高記録である。快進撃に拍車をかけようと、1963年にブルーバード410型が登場した。リードを盤石にするため、日産が総力を傾けたモデルである。エンジンは前モデルと同じだが、パワーは大幅に向上して、1リッターは34馬力から45馬力に、1.2リッターは43馬力から55馬力になった。

日産初となるフルモノコックボディーが採用され、軽量化を実現しながらボディー剛性を確保する細かいチューニングが施された。ブレーキドラムの大型化で高速走行での安全性を高め、5万kmに及ぶテスト走行で細部の仕上げを行った。派手な技術が取り入れられたわけではないが、着実に走行性能と快適性を高めたのである。

エクステリアデザインは、見るからに新しいものだった。イタリアのカロッツェリアでもトップに君臨するピニンファリーナにスタイリングを委ねたのだ。当時は日本の自動車会社がトリノにデザインを依頼するのが流行していて、他のメーカーを見ても、プリンスはスカリオーネ、マツダはベルトーネと深い関係を持っていた。410型の仕上がりはいかにもヨーロッパ的な洗練を感じさせるもので、日産は自信を持って新型モデルを世に送り出した。

しかし、結果は芳しいものではなかった。初速こそ悪くなかったものの、徐々に売り上げを落としていく。リアに向けて尻下がりになるラインが日本人の好みに合わず、不満の声が聞かれるようになったのである。当時の大衆が欲したのは、重厚で豪華な見た目だった。

翌年デビューしたコロナの3代目が、BC戦争を新たな局面へと導いた。トヨタは先代の失敗をふまえ、十分に市場動向を見極めた上で堅実な策を選んだのである。エンジンは前モデルの後期に投入された1.5リッターをさらに改良したもので、70馬力というハイパワーを実現していた。2代目コロナにはクラウンのパーツが流用された結果重くなっていたが、トランスミッションやディファレンシャルなどを専用設計にすることでコンパクト化を図った。

“アローライン”と呼ばれるスラントしたフロントノーズは斬新だったが、全体的には落ち着いた箱形で、力強い風格を持っていた。従来よりも太いサイズのタイヤを装着し、スポーティーな雰囲気を演出した。室内を豪華に見せることにも力が注がれ、より高級なモデルを求める大衆の願いに応えた。技術先行ではなく、マーケティングの手法を用いた製品企画が有効なことを、コロナは明確に示したのだ。

1965年1月、コロナは初めてブルーバードを上回る販売台数を記録する。翌月は逆転されたものの、その後はコロナがゆっくりと差を広げていった。「新型コロナ、日本一に!」という広告が打たれ、人々は勢いのあるコロナに目を移していった。

ブルーバードのクルマとしての完成度が低かったわけではない。事実、アメリカでの販売は好調だった。しかし、自動車市場が大衆化する中で、マーケティングを重視しなくては競争力を保つことができない時代が到来していたのだ。

BC戦争はひとまず落ち着いたが、自動車の販売競争はさらに激しくなっていく。1966年になると日産がサニー、トヨタがカローラを発売する。“マイカー元年”と呼ばれるこの年から、自動車は性能向上とイメージ戦略を複雑に絡めながら大衆の欲望を喚起していくことになる。

1964年の出来事

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“日本初のGT”いすゞ・ベレット1600GT 登場

いすゞは石川島造船所の自動車部門に端を発する会社で、戦前にはディーゼルエンジンを搭載したトラックなどを製造していた。戦後になるとヒルマンミンクスのライセンス生産を始め、乗用車部門に進出する。

その経験を生かして独自に開発したのが、1962年発売のベレルである。クラウンやセドリックに対抗しうる高級車として企画されたが、初期トラブルが頻発するなどの問題が発生し、販売成績は低迷した。

翌年発売されたベレットはひとまわり小さなサイズで、保守的なベレルとは対照的に新機軸を多く取り入れたモデルだった。フロントはダブルウィッシュボーン、リアはダイアゴナルスイングアクスルという四輪独立懸架で、ステアリング機構はラック・アンド・ピニオンだった。

翌1964年には、1.6リッターエンジンを搭載した1600GTが追加された。これが、日本で最初に「GT」を名乗ったクルマとされている。国産車として初めてディスクブレーキを標準装備するなど、スポーティーな高性能車として若者から支持を集め、“ベレG”の愛称で親しまれた。

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ミケロッティデザインの日野コンテッサ1300発売

日野自動車は、東京瓦斯電気工業の自動車部門を母体として誕生した自動車メーカーである。戦前にはいすゞと合流し、ヂーゼル自動車工業と名乗った時期もあったが、戦争中に再び分離。主に軍需車両の製造を行った。戦後にライセンス生産から乗用車部門に進出したのはいすゞと同様であり、こちらはルノーと組んで4CVを生産している。

独自開発のコンテッサ900を発売したのは、1961年である。4CVと同じRR(リアエンジン・リアドライブ)方式を採用し、室内空間の広さを追求した。エンジンには自社開発の900cc直列4気筒OHVを搭載している。4CVを上回る性能を実現したが、販売は伸びなかった。1リッターエンジンのブルーバードに比べると、900ccという排気量はいかにも中途半端だった。

反省をふまえ、日野は1964年にコンテッサ1300を発売した。車両サイズはひとまわり大きくなり、1.3リッターエンジンは55馬力を発生した。イタリアのミケロッティが手がけたデザインは繊細な優雅さを備えており、ようやくイタリア語で伯爵夫人を意味するコンテッサの名にふさわしいスタイルを手に入れたのだ。

ただ、スタイリングの評価こそ高かったものの、コンテッサ1300も販売成績は思わしくなかった。日野自動車は1966年にトヨタと業務提携し、その後乗用車は製造していない。戦前、戦後と似たような境遇をたどったいすゞも、2002年に乗用車部門から撤退している。

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かっぱえびせん発売

「やめられない、とまらない」のキャッチフレーズが使われるようになったのは1969年だが、かっぱえびせんの発売はその5年前の1964年である。1949年に設立された松尾糧食工業が1955年にカルビーになり、米に比べて手に入りやすかった小麦粉を使ったかっぱあられを発売した。

かっぱえびせんは、かっぱあられシリーズの中の一製品として誕生し、生地にエビを練り込んだ香ばしさが人気となって売り上げを伸ばした。「かっぱ」と名付けられたのは、マンガ家の清水 崑が描いた『かっぱ天国』のキャラクターをパッケージデザインに使っていたことによる。

使われるエビは、日本、中国、デンマーク、アメリカで水揚げされたものをブレンドしたもの。基本はエビ味だが、山わさび味、瀬戸内レモン味などのローカル商品も販売されている。またフレンチサラダ味、めんたいマヨ味などの期間限定商品も多い。

日本以外でもアメリカ、中国、タイなどで製造・販売が行われており、東アジアや東南アジアでは、コピー商品も多く出回っている。

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[ガズ―編集部]

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