SUV都市侵攻(1991年)

よくわかる 自動車歴史館 第65話

ジープから自動車製造を再開した三菱

1953年から1998年までの長きにわたり生産された三菱ジープ。写真は1970年代に設定のあったロングホイールベース、メタルトップ仕様のJ20C。
1953年、三菱はCJ-3A型からジープのノックダウン生産を開始した(写真はFヘッドの新型エンジンを搭載したCJ-3B型)
1960年代から1980年代に活躍したトヨタ・ランドクルーザー(40系)。優れた耐久性と悪路走破性を武器に、輸出台数を伸ばしていった。

1990年代に日本を訪れたヨーロッパ人が、街の風景を見て戒厳令が発令されたと思って驚いたという話がある。もちろん勘違いで、彼が見たのは道を走るいかついSUVの群れと、修学旅行で東京にやってきた中学生の隊列だった。それが軍用車両と少年兵に見えたというわけだ。

実情を知ればばかげた思い込みだということはわかったのだが、確かにその増殖ぶりは都市の景観を変えるほどだった。中でも際立っていたのが、三菱パジェロである。オフロードにはまったく興味を持たない人々が、ライフスタイルを表現するアイテムとしてパジェロを選ぶようになっていた。

三菱は戦時中に兵器製造を行っていたが、終戦を迎えて民生に転換する。自動車製造の第一歩となったのは、ジープのノックダウン生産だった。ウィリス社からライセンスを受け、自衛隊への製品供給を行ったのである。1953年から生産が始まり、朝鮮戦争特需もあって販売台数を伸ばしていった。1957年には、4000台近くを生産している。最初は部品を輸入して組み立てていたが、徐々に国産化を進めてエンジンも自社開発する。名実ともに三菱ジープとなり、4WD市場では7割ほどのシェアを持っていた。

モデルバリエーションを増やし、自衛隊への供給だけでなく、一般ユーザーにも販売を広げていった。アメリカ軍が戦地で使用していたモデルであり、頑丈さと悪路走破性にはもともと定評があった。国内では無敵だったが、弱点は輸出ができないことである。三菱ジープは独自の進化を遂げていたものの、当初の契約に縛られて国外進出が難しかったのだ。

最初に契約したウィリス社からカイザー社、AMCとライセンサーは変わっていったが、自由な輸出が許されないことに変わりはなかった。東南アジアに年間400台ほどが輸出されたにとどまっていたのである。独自開発のトヨタ・ランドクルーザーが順調に輸出を増やしているのを横目で見ながら、三菱はどうすることもできなかった。

パリダカでの活躍でパジェロの売り上げが伸びる

1973年の東京モーターショーに出品されたコンセプトカーのパジェロ。ジープをベースにしたバギータイプのショーカーだった。
1979年に発表されたパジェロII。1982年に登場した市販モデルの、直系の祖といえるコンセプトカーだった。
1982年に誕生した初代パジェロ。当初は3ドアのショートボディーしか設定がなかったが、デビュー翌年に5ドアのエステートワゴンが登場。販売の中心となっていった。

日本では、1970年代に入ると4WD車で釣りやキャンプに出掛けることを楽しむ人々が増えてきていた。ジープの販売も、官庁や法人から個人ユーザー向けが主になりつつあった。4WD車で集まり、情報交換を行ったり親睦を深めたりするジープジャンボリーも始まった。

三菱では、ジープに代わる新たな4WD車を開発しようという機運が生まれた。ジープの基本設計は1941年のものであり、軍用車両としての生い立ちから快適性への配慮は乏しかった。レジャー用途の増大もあり、時代に合わせたモデルを作る時期にきていたのである。海外進出を果たすためにも、ライセンスに縛られない新車種が必要だった。

1973年の東京モーターショーに、パジェロという名のコンセプトモデルが出品されている。ジープのシャシーにバギー車のようなボディーをのせたもので、パタゴニア地方に生息する野生猫の名前が付けられた。実現性のあるモデルではなく、ギャランやランサーが売れていた三菱ではこれを発展させて市販化しようとする動きは生まれなかった。

1978年、小型ピックアップトラックのフォルテが発売された。人気が高まりつつあったジャンルで、輸出も伸びていた。日産のダットサン・トラックや、トヨタのハイラックスなどが北米への販売攻勢を強めていた。三菱もフォルテで参入を果たし、国内外ともに好調な売れ行きを示す。4WDモデルを追加する運びとなり、そこで同じシステムを使ったジープの後継車を作ろうという提案がなされた。ジープの販売台数は年間1万台に満たず、単独で開発するのは難しかったのだ。

曲折を経て、初代パジェロが発売されたのは1982年である。輸出も含めて予定月販台数は1900台だったが、2年目には2800台に達し、5年目を迎えると7000台を超える数字を記録するようになった。ジープとは違う快適な乗車環境を持ちながらオフロード性能も高いモデルを、市場は待っていたのだ。

追い風となったのは、パリ・ダカールラリーでの活躍である。初参加となった第5回大会で、マラソンクラスと市販車改造クラスで優勝を果たしたのだ。ヨーロッパでの反響は大きく、初年度に8カ月で7023台だった輸出が、翌年は3倍半の2万5886台にまで伸びた。第9回大会で篠塚建次郎が総合3位に入賞すると、国内でも販売台数が急増した。

大きく変化したSUV市場のニーズ

1987年に登場した上級グレードのエクシード。本革シートをはじめとした豪華な装備が特徴だった。
2代目パジェロは1991年に登場した。写真は上級グレードのスーパーエクシード。
フルタイム4WDとパートタイム4WDの特徴を併せ持つスーパーセレクト4WDを初めて採用。高い悪路走破性能と舗装路での快適性の両立が図られている。
1989年に誕生したトヨタ・ランドクルーザー(80系)。
4代目となった現在の三菱パジェロの姿。

パジェロは発売以降も改良を重ね、バリエーションを増やしていった。売り上げを伸ばし、三菱の基幹車種ともいえる存在になった。最初はオフロード車のファンから熱狂的に支持され、その後はユーザー層をそれ以外にも広げていった。高級車やスポーツカーからの乗り換えが多かった初期から、中級車やコンパクトカーからの移行も多くなっていく。それにつれて、ユーザーの要求は少しずつ変化していくことになる。

1987年に発売した高級仕様のエクシードへの反応が、ユーザーの好みが変化したことを象徴している。本革シートなどの豪華装備を付け加えたモデルで、開発陣は月にせいぜい50台も売れればいいと考えていた。発売すると注文が殺到し、月販1000台という予想外の売れ行きを示したのである。機能性を重視するだけでなく、乗用車としての満足感を求める人々が増えていた。市場ではピックアップトラックを乗用車風にしつらえたトヨタのハイラックスサーフが人気になっており、ユーザーのニーズは確実に変化していた。

ヨーロッパでは、4WDであっても高速道路でコンスタントに120km/hで快適に走る性能を求める声が多かった。2代目パジェロのコンセプトは、機能性と野性味を残しつつ、乗用車の持つ快適性や都会的なファッション性を併せ持つというものに決定した。一方で、オフロード性能をさらに充実させるよう求める声も多かった。相反する要因を、両立させる必要があった。

1991年に登場した2代目パジェロは、角を落とした丸みを帯びた姿だった。それでもクロカン四駆のフォルムは保っており、都市でも自然の中でも調和するよう工夫されていた。四輪独立懸架を採用することを推す声もあったが、リアサスペンションは堅牢(けんろう)なリーフリジッドを踏襲した。4WDシステムについても議論があった。フルタイム四駆を採用することが検討されたのである。しかし、後輪駆動モードを残したいという意見が多く、パートタイム四駆が採用されることになった。

それでも、前モデルからは大きく進歩している。2WDと4WDを切り替えるのに、100km/hまでなら走行中に操作することが可能になった。四輪ABSも装備され、安全性も高まった。オフロード性能を犠牲にすることなく、街なかや高速道路での快適性を高めることを目指したのだ。

初年度の販売台数は6万5000台近くになり、輸出を加えると総生産台数は14万5000台に達した。ギャランの数字を抜いて、三菱の売り上げトップに躍り出たのである。1989年にはトヨタ・ランドクルーザー80系がデビューしており、1990年にはランドクルーザー プラドが誕生した。パジェロがモデルチェンジした1991年には、いすゞ・ビッグホーンも新しいモデルを発売している。どのモデルも都市での使用を強く意識していて、日本中の街角に背の高い4WD車があふれることになった。

2000年代に入り、SUVはクルマの選択肢としてごく当たり前の存在になっている。乗用車と変わらない快適性を手に入れ、スペースやユーティリティーの点でのメリットも多い。スタイルはSUVでも、駆動方式はFFでオフロード走行には向かないモデルも珍しくない。SUVの都市侵攻は完了した。パジェロは4代目となり、ボディーはさらに丸みを帯びた。サスペンションは四輪独立懸架となって内外装の高級感が増した。それでもパートタイム四駆を守っていることは、パジェロが出自を忘れていないことを示している。

1991年の出来事

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ホンダ・ビートから軽スポーツカーがブームに

ホンダ・ビート

ホンダは1990年にミドシップスポーツカーのNSXを発売し、スーパースポーツの世界に進出した。オールアルミの軽量ボディーに可変バルブタイミング機構VTECを用いた高回転型の自然吸気エンジンを搭載したモデルで、スポーツ性と実用性を両立させた完成度の高さが評判となった。

翌年、ホンダはもう一台のミドシップマシンをデビューさせる。オープン2シーターの軽自動車ビートだ。自主規制値限界の64psを発生する自然吸気エンジンを横置きし、俊敏な運動性能を発揮した。車体後部とボンネットの下に小さな荷室はあるが、実質的にはほとんど何も積めなかった。

同じ年、スズキからカプチーノが発売された。こちらはFRで、着脱可能な3分割式のルーフを備えていた。翌年にはマツダのオートザムAZ-1が登場する。駆動方式はMRで、ガルウイングドアが特徴だった。

3台のイニシャルを組み合わせて“平成ABCトリオ”とも呼ばれる。どのモデルも大きな話題となって発売当初は好調な受注があったものの、長続きしなかった。ビートは1996年までに3万3892台が生産され、一世代で姿を消した。

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逆輸入車が続々日本上陸

日産ブルーバード オーズィー

1980年代に日本車は対米輸出急増で貿易摩擦を招き、自主規制を余儀なくされた。円高が進んだこともあり、世界各国での現地生産が急激に増えていった。当然、国内での生産は減少する。価格面で有利な海外生産車が日本に逆輸入されるのは自然な流れだった。

日産がオーストラリアで生産していたピンターラは、ブルーバードの現地生産モデルである。その中から5ドアハッチバックモデルが日本に導入された。それが、ブルーバード オーズィーである。

同じ右ハンドルということで変更点は少なくてすんだが、細かい面では部品の互換性がなかった。人気は思ったように伸びず、わずかな台数を販売しただけで輸入は打ち切られた。

日産ではイギリスで生産したプリメーラ5ドアも同じ年に導入している。1990年には三菱がエクリプス、ホンダがアコード クーペを、アメリカから逆輸入している。1992年にはトヨタがアメリカ生産のセプターの販売を開始した。

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ジュリアナ旋風吹き荒れる

バブル期に東京では、ウォーターフロントと呼ばれる地域にレストランやディスコなどが次々と開店した。港区の芝浦から海岸に続く地域で、交通の便は悪かったがそれがむしろステータスとなった。 インクスティックやゴールドといった最先端のスペースが話題となり、“空間プロデューサー”と呼ばれる松井雅美や山本コテツが新しいコンセプトを次々に打ち出した。これらの店はテレビや雑誌で紹介されるものの、訪れる客層は限られていた。 ウォーターフロントを一気に大衆化させたのが、巨大ディスコのジュリアナ東京である。ボディコンギャルがお立ち台で扇子を振りながら踊る姿が、バブル末期の象徴的な光景として記憶されている。 ジュリアナ現象は全国各地に飛び火し、地方に行くほど女性たちはより過激なボディコンの衣装に身を包んだ。狂乱は長くは続かず、ジュリアナ東京は1994年に閉店した。

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[ガズ―編集部]