ハイブリッドカー誕生(1997年)
よくわかる 自動車歴史館 第68話
1968年までさかのぼる開発の起源
1997年10月、世界初の量産ハイブリッド乗用車プリウスが発表された。「21世紀に間に合いました。」というキャッチコピーが示すように、20世紀の最後に次世代の自動車像を示した歴史的なモデルである。ただ、プリウスはトヨタが初めて発売したハイブリッドカーではない。同じ年の8月、コースターハイブリッドEVが世に出ているのだ。シンプルなシリーズ式ハイブリッドシステムを搭載したマイクロバスである。自動車業界に大きな衝撃を与えたのはもちろんプリウスなのだが、ある日突然出現したわけではない。世界を変える技術を生み出すまでに、トヨタはさまざまなチャレンジを繰り返していた。
1975年、トヨタは東京モーターショーにハイブリッドカーのコンセプトモデルを出展した。ベースになったのは高級車センチュリーで、ノーズを伸ばして発電用ガスタービンを搭載し、モーターで前輪を駆動する仕組みだった。トヨタでは1968年からガスタービンエンジンを活用したシステムの開発を行っていて、1973年のオイルショックを背景に本格的なハイブリッドシステムの研究が進められた。1977年には、スポーツ800にガスタービンを載せたモデルが、やはりコンセプトカーとして発表されている。
当時はまだモーターや電池の性能が十分ではなく、開発は中断する。しかしガソリンの供給についての不安は依然として消えておらず、1981年にはスターレットに“エコランシステム”と名付けたアイドリングストップ機構を搭載するなど、燃費改善の努力が続いていた。ガソリンエンジンに代わる動力を追求する試みも、引き続き行われた。1992年にはEV開発部が新設され、燃料電池開発のプロジェクトも発足する。1993年にはタウンエースバンEVとクラウンマジェスタEVが発売され、官公庁などに納品された。
世界各国で、ポストガソリンエンジン車が模索されていた。ボルボが1992年に発表したコンセプトカーECC(Environmental Concept Car)は、ガスタービンを用いたプラグインハイブリッドカーだった。GMは1990年代後半に電気自動車のEV1をリース販売した。しかし、市販車として次世代のエコカーを販売するのは、一般にはまだまだ先のことだと考えられていた。
燃費向上100%指令が下る
トヨタでは1992年から“21世紀のクルマ”の検討が始まった。本格的なプロジェクトがスタートしたのは、1994年1月である。「資源問題と環境対応に何らかの解答を出す」という漠然とした方向性は決まっていたものの、どんなクルマにするのか具体的なことは何も決まっていなかった。共通認識として「最低50%以上の燃費向上」という目標があり、直噴エンジンの効率化で対応しようとしていた。そこに、「燃費向上は最低でも100%でなければならない」と号令が飛んだ。つまり、従来の数字の2倍にするということである。エンジンの効率化だけで達成できるものではなかった。
この目標ができたことで、“21世紀のクルマ”は必然的にハイブリッドカーに決定した。1995年の東京モーターショーに、プリウスの名でコンセプトカーが出展された。まだハイブリッドシステムという言葉は使われず、ガソリンエンジンをモーターでアシストする「TOYOTA EMS(Energy Management System)」が新パワーユニットだと紹介された。
この時は電気モーターとCVTを組み合わせた方法が考えられており、いわゆるパラレル方式のシステムだった。ハイブリッドには、大きく分けてパラレル方式とシリーズ方式がある。パラレル方式はモーターの動力を直接駆動に用いるもので、シリーズ方式はエンジンを発電のために使い、駆動はモーターによって行う。
ハイブリッドカーの歴史をさかのぼれば、1899年のローナーポルシェに行き着く。フェルディナント・ポルシェ博士が製造した電気自動車で、ハブにモーターを組み込んでいた。高性能なモデルだったが、航続距離に弱点があった。そこでガソリンエンジンを発電機として加えたのが、ミクステと呼ばれるモデルである。初めてのハイブリッドカーは、シリーズ式だったのだ。当時はまだガソリンエンジン車の覇権が確定していない時期であり、さまざまな動力が混在していた。電気自動車が勝ち残れなかったのは、電池の性能が貧弱だったことが大きい。ハイブリッドカーでも、重い電池の存在は克服できなかった。
100年後のハイブリッド車や電気自動車も、やはり同じ問題を抱えていた。しかしトヨタはRAV4 EVを開発する過程で、ニッケル水素電池を扱っていた。鉛電池に比べればはるかに高性能であり、この技術を経験していたことはハイブリッドシステムの開発に光明をもたらした。また小型の永久磁石モーターも大いに役立った。それでも、電池とモーターだけではハイブリッドシステムは作れない。難問は山積していた。
驚異的な燃費と価格で登場したプリウス
1997年3月に発表されたTHS(トヨタ・ハイブリッド・システム)は、EMSとはまったく異なるハイブリッドシステムだった。パラレル方式にシリーズ方式を組み合わせ、エンジンを駆動力として利用しながら発電にも用いる複合型である。“いいとこ取り”を実現するために、エンジンの動力を分割する機構が取り入れられた。モーターは発進時に大トルクを供給するのに適していて、高速走行ではガソリンエンジンに分がある。状況に応じてエンジンを動かしたり停止させたりし、効率を向上させるシステムを作ったのだ。
エンジンは発電も担当し、減速時には回生ブレーキが充電を助ける。エンジン自体も高効率なアトキンソンサイクルを採用した。発表会では、「従来の同クラス車に比べて燃費は100%向上、CO2は2分の1、CO・HC・NOxは現行規制値の10分の1」という性能を示し、それを年内に発売すると宣言した。
東京モーターショーを前にして、10月14日にプリウスが発表された。燃費は10・15モードで28km/リッターという、当時としては驚異的なものだった。目標は見事に達成されたのである。そして、もう一つ人々を驚かせたのは、215万円という価格だった。同クラスのカローラと比べれば50万円ほど高かったが、最新テクノロジーを満載した次世代車としては破格の安値である。12月10日から販売が始まり、翌年の販売台数は予想をはるかに上回る1万8000台近い数字となった。政府からの補助金も、追い風となった。
この成功を見ても、欧米の自動車メーカーは静観していた。ハイブリッドカーはつなぎの技術でしかないと考えていたのである。究極のエコカーは電気自動車か燃料電池車であり、内燃機関とモーターという2つの動力を持つハイブリッドカーに利点はないというのが彼らの認識だった。
日本では、ハイブリッド技術が肯定的に受け止められた。1999年9月には、ホンダがパラレル方式のハイブリッドシステムを採用したインサイトを発売する。2人乗りではあったが、アルミボディーを採用するなどして徹底的に軽量化した意欲的なモデルだった。2000年4月には、日産が100台限定でティーノハイブリッドを発売する。ハイブリッドカーの環境対応車としてのイメージは確固としたものになった。
2001年になると、エスティマハイブリッドが登場する。燃費が悪くて当然とされていたミニバンにもラインナップが広がり、ハイブリッドカーはより身近な存在となった。同年8月にはクラウンからマイルドハイブリッドと名付けられた簡易システムを搭載したモデルが登場する。12月には、ホンダがシビックハイブリッドを発売した。2003年にプリウスがモデルチェンジを果たし、日本ではもうハイブリッドカーはごく当たり前の選択肢として受け止められるようになっていた。
この頃から、アメリカでもプリウスが大きな注目を集めるようになる。きっかけは、ハリウッドセレブたちだった。エコロジーに関心の高いスターたちがアカデミー賞の授賞式に競ってプリウスで乗り付け、マスコミが大々的にその様子を取り上げた。欧米メーカーも追随せざるを得なくなり、2007年にGMがシボレー・ボルトを、2009年にはメルセデス・ベンツがS400ハイブリッドを発売した。
2014年12月、トヨタは世界初の量産燃料電池車ミライを発売した。どんな動力が将来の主流になっていくのか、まだはっきりとはわかっていない。ただ、10年以上にわたってエコカーの先端を走ってきたのは確かにプリウスだった。このクルマが21世紀に間に合ったことで、次世代自動車の方向性が決まったのだ。
1997年の出来事
topics 1
新ジャンルのSUVハリアー発売
1997年に発表されたレクサスRXは、北米で大ヒットモデルとなった。SUVでありながらセダンの快適性と豪華な装備を持つという成り立ちはそれまでになかったもので、「高級クロスオーバーSUV」というジャンルを新たに作り出したのである。
日本ではまだレクサスブランドが設立されておらず、トヨタ・ハリアーとして発売された。ベースとなったのは6代目カムリで、駆動方式はFFと4WDが用意された。
2003年に2代目となり、ガソリンエンジン車のほかにハイブリッドシステムを採用したモデルも加わった。2009年に3代目となった際に日本でもレクサスブランドに移行するが、2代目ハリアーはそのまま販売が続けられた。
2013年にハリアーは4代目となり、レクサスRXとはまったく別のモデルとして国内専用車となった。
topics 2
サターンが日本に進出
「礼をつくす会社、礼をつくすクルマ」というキャッチコピーで、サターンが華々しくデビューしたのが1997年である。GMが1985年に設立した新ブランドで、日本車や欧州車に対抗する品質をうたっていた。
値引きなしのワンプライス制を打ち出し、ユーザーとの結びつきを大切にする販売手法をアピールした。日本に導入されたのは2代目Sシリーズで、セダン、ワゴン、クーペの3車型がラインナップされた。エンジンはすべて4気筒1.9リッターである。
フル装備で200万円を切る価格は話題となったが、売り上げは伸び悩んだ。日本車の品質は大幅に向上しており、内外装の質感では見劣りしたことが理由の一つだといわれた。
2001年にサターンは日本からの撤退を決めた。その後も北米では販売が続けられていたが、2009年のGM破綻を受けブランドが廃止された。
topics 3
北海道拓殖銀行が破綻
1900年、北海道開拓を支援する特殊銀行として北海道拓殖銀行が設立された。戦後の1955年に普通銀行に転換し、都市銀行として再出発する。13行のうち最小の規模だったが、道民の銀行として親しまれた。
バブル期に不動産融資を加速させたのは、他の銀行と同じである。ただ、規模が小さく不動産事業に出遅れたことから、無理な案件にも手を出していった。建設・不動産開発のカブトデコムに対する乱脈融資は象徴的だった。洞爺湖のリゾート計画を全面的にバックアップし、資金をつぎ込んでいった。
バブルが崩壊すると、大量の不良債権が明るみに出てきた。カブトデコムへの融資は数千億円に膨らんでいて、倒産を先延ばしにするためにダミー会社への不正融資が行われた。それでも“危ない銀行”とのうわさが広がり、預金引き上げが始まった。
資金繰りは完全に行き詰まり、1997年11月、北海道拓殖銀行ははるかに規模の小さい北洋銀行への営業譲渡が決定された。洞爺湖に建設されたホテルエイペックス洞爺は1998年に廃業し、2002年にザ・ウィンザーホテル洞爺となった。2008年にはここで主要国首脳会議(サミット)が開催された。
【編集協力・素材提供】
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[ガズ―編集部]
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