<カーオブザセンチェリー>シトロエンDS(1955年)

よくわかる 自動車歴史館 第69話

先進技術を積極的に採用したシトロエン

シトロエンDSは1955年のパリサロンにおいて発表された。
シトロエンの創業者であるアンドレ・シトロエン。写真は自動車事業に乗り出した直後の、1920年のもの。
「ドゥブル・シェブロン」と呼ばれるシトロエンのエンブレム。

1973年の映画『ジャッカルの日』では、冒頭でドゴールの暗殺未遂が描かれる。真っ黒なシトロエンDSで移動する大統領をテロリストが狙撃するシーンだ。この映画は事実に基づいており、事件が起きた1960年代初頭には実際にDSが大統領の公用車として使われていた。1955年に発売されたこのモデルは評価が高く、シトロエンの中心車種となっていた。

ただ、DSのエンジンはわずか1.9リッター(後に2.3リッターまで拡大される)であり、特別な高級車とは言いがたい。開発当時のコードネームはVGDで、これはVéhicule de Grande Diffusion(大量普及自動車)の略称である。量産車として企画されたモデルだが、そこに盛り込まれた技術は驚くほど先進的だった。このクルマがカー・オブ・ザ・センチュリーで第3位という栄誉に輝いたのは、スポーツカーでもない普通のクルマに惜しげもなく先端技術を注ぎ込んだことが理由の一つとなっている。

シトロエンという会社は、成り立ちからして技術主導だった。創業者であるアンドレ・シトロエンは、母親の故郷であるポーランドで鋭角な山型の歯車を見て将来性を確信し、権利を買い取ってフランスでギア製造を始める。高性能な製品で成功し、資本を得た彼は1919年に自動車製造に乗り出した。その出自を記念して、シトロエンのエンブレムはドゥブル・シェブロン(山歯歯車)をモチーフにしたものとなっている。

自動車会社としては後発だったが、オールスチールボディーや4輪ブレーキを採用するなど、積極的に先進技術を取り入れて魅力的なモデルを開発した。アメリカ流の大量生産方式を採用したのも、ヨーロッパではシトロエンが初めてである。

ほかのクルマとかけ離れたフォルム

先進的なFFの駆動レイアウトを取り入れたトラクシオン・アヴァン。写真は大排気量モデルの15CV SIX。
フラミニオ・ベルトーニによるものとされる、シトロエンDSのスケッチ。
1955年のパリサロンにて、シトロエンDSを見学するフランスのルネ・コティ大統領。

シトロエンが進歩的な自動車会社であることを強く印象づけたのが、1934年に発売されたトラクシオン・アヴァンこと7CVだった。後輪駆動が常識だった時代にいち早く前輪駆動を採用し、軽量なモノコックボディーを使って世界の最先端を行くモデルを作り上げた。

第2次大戦後、1948年に2CVを発売する。合理性を極限まで追求したミニマム思想を形にしたモデルである。大衆から圧倒的な支持を受け、1990年まで製造が続けられるロングセラーとなった。大衆向けに革新的なクルマを開発するという姿勢は、シトロエンのDNAともいえる。

VGDのプロジェクトは、すでに戦前に始まっていた。開発を主導したのは、トラクシオン・アヴァンや2CVを手がけた天才エンジニアのアンドレ・ルフェーブルである。戦後になって開発が再開されるが、求められる性能の水準があまりにも高く、ようやく日の目を見たのは1955年のパリサロンだった。

ショーが始まると、斬新な形をしたクルマをひと目見ようと、DSの展示スペースに人々が押し寄せた。DSのフォルムは“宇宙船”と評されたほど、同時代のほかのクルマとはかけ離れたものだった。デザインを担当したのは、イタリア出身のフラミニオ・ベルトーニである。彼はトラクシオン・アヴァンや2CVも手がけていた。

大胆な流線型のスタイルは、空力を重視した結果である。ヘッドライトは半埋め込みタイプにし、後輪をスカートで覆うという徹底ぶりだ。ルーフはなだらかに後方に向けて下降し、テールは小さくすぼまっている。ラジエーターグリルを廃したことで鼻先は低くとがった造形になり、フロントの表情はシャープになった。ボディーは応力を負担しないスケルトン構造をとっているため、デザインに自由度が生まれた。ルーフにはFRP、ボンネットにはアルミニウムを採用するなど、新素材をふんだんに使って軽量化が試みられた。

反響はすさまじく、ショーの初日に1万2000台を超える注文が寄せられたという。誰も見たことがない形が人々を魅了したわけだが、その中身はさらに上をいくアバンギャルドなものだった。DSの最大の特徴は、基幹システムとして採用されたハイドロニューマチックである。エアスプリングと油圧ポンプを組み合わせたもので、液体と気体の性質を利用した技術だ。前年に15CV SIXのリアサスペンションでテスト的に使われていたが、DSではブレーキやパワーステアリング、トランスミッションもコントロールする重要な役割を持っている。

自動車の神話を作りかえた女神

1963年のシトロエンDSのインテリア。
1966年のシトロエンDSのペダルまわり。トランスミッションはセミオートマチック式なので、クラッチペダルはない。中央の丸いバルブがブレーキである。
オープントップのシトロエンDSデカポタブル。
パリ工場をラインオフする最後のシトロエンDS。DSの生産は1975年に終了したが、その後もしばらくは特装車などの生産が続けられた。

エンジンルームにスフェアと呼ばれる緑色の玉があり、中に特殊なオイルが封じ込められている。エンジンの動力によって高圧ポンプが作動し、油圧によってシステムを制御する仕組みだ。DSは駐車時には車高が低くなっているが、エンジンを始動するとポンプによって油圧が生まれ、徐々に車高が上がっていく。オイル量をコントロールすることで、車体の姿勢を一定に保つセルフレベリング機構も備えており、車高はレバー操作によって調整することができた。

スフェア内の空気はバネとして作用し、オイルは絞り弁を通ることで減衰力を得る。2種の流体によって、通常の金属バネとはまったく違う滑らかな乗り心地を生み出すわけだ。シートは柔らかな素材でソファのような形状に作られており、リビングルームにいるような快適さが提供された。

新しいシステムを用いているため、運転の仕方も従来のクルマとは違っていた。エンジン始動すら、キーをひねっただけではできない。1本スポークのステアリングホイールの向こう側にあるシフトレバーを手前に引くことで、スターターが回る仕組みだ。ハイドロニューマチックによるセミオートマチックトランスミッションを採用しているため、クラッチペダルはない。足元の真ん中には、ブレーキペダルの代わりに丸い突起状のバルブが設けられていた。

DSのもたらした衝撃は、思想界にまで影響を与えた。哲学者のロラン・バルトは1957年の著書『神話作用』の中でDSについて言及している。バルトは「自動車はかつてゴシック建築の大聖堂が持っていた影響力に匹敵する存在になっている」と指摘し、「DSは自動車の神話を作りかえた」と論じた。フランス語ではDSは女神を意味するdéesseと同じ発音であることを踏まえた文章である。女神が自動車を精神的なものにまで高めたという解釈を示したのだ。

DSの名の由来は明らかになっておらず、本当に女神の意味を含んでいたのかどうかはわからない。ただ、DSの廉価版として後に発売されたIDはidée(イデア)と同じ発音になっており、深読みを促すかのような命名になっていることは確かだ。

前述のとおり大統領公用車として使われたDSだが、ドライバーズカーとしても優秀な素質を持っていた。発売の翌年からモンテカルロラリーにDSで出場する者が現れており、1959年にはID19が優勝を果たしたほか、アフリカのラリーレイドでも好成績を残した。

DSは前衛的であり、先進的なクルマだった。20年以上先を行ったクルマであるとまでいわれ、実際に1975年まで生産が続けられることになる。ワゴンモデルやデカポタブルと呼ばれるオープンモデルも作られ、総生産台数は145万台に達した。

1955年の出来事

topics 1

スズキがFF軽自動車スズライトを発売

スズキ・スズライトSS

1949年に制定された軽自動車の規格は細かい改定を重ね、1955年にひとつの完成形となった。それまでエンジンの排気量に4ストロークと2ストロークで差がつけられていたのが、どちらも360ccに統一されたのである。

排気量が等しければ、出力の面で2ストロークが有利となる。軽規格を最大限に生かして登場したのが、スズキの初代スズライトだった。240ccの前規格で開発されていたエンジンを改定に合わせて拡大し、15馬力の高出力を得ていた。

ボディータイプは2ドアセダン、バン、ピックアップがあり、商用の需要に対応した。先進的な前輪駆動を採用したことで室内や荷室の空間を広く取ることができ、四輪独立懸架で乗り心地も優れていた。

スズライトはスズキにとって初めての本格的四輪自動車だったが、当時の最新技術を詰め込んだ野心作だった。1959年にフルモデルチェンジを受けて1968年まで製造され、その後フロンテを経て現行車種のアルトにつながっている。

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通産省の“国民車構想”が明らかに

スバル360

戦後の日本は着実に復興の道を歩み、経済的にも発展していた。自動車産業もようやく体力をつけつつあり、国民の間でもクルマに対する関心が高まった。その時期に明らかになったのが、通産省の国民車構想である。

正式に発表されたわけではなく、1955年5月に新聞のスクープとして報じられた。自動車普及のために一定の要件を設け、それを満たしたクルマには国からの支援を与えるというものである。

4人乗りか2人乗りで最高速が100km/h以上、燃費が30km/リッター以上、排気量は360cc〜500ccで車重は400kg以下、価格は25万円以下という条件が示されていた。この構想を受けて国会でも論議がかわされ、自動車メーカーも真剣に検討した。

実際に制度化されることはなかったが、その後発売された三菱500やトヨタ・パブリカ、スバル360などはこの構想に影響を受けているといわれる。1956年には経済白書で「もはや戦後ではない」という言葉が使われ、自動車所有はこの頃から日本人にとって現実的なものと感じられるようになっていった。

topics 3

トランジスタラジオ発売

井深 大と盛田昭夫によって1946年に設立された東京通信工業は、電気製品の修理を請け負ったり電熱器を仕込んだ座布団を製造したりする小さな会社だった。最初のヒット商品となったのは、日本初のテープレコーダーである。全国の学校で教育用に使われ、売り上げを伸ばした。

次に手がけたのは、ベル研究所で発明されたばかりのトランジスタである。この小さなパーツを使い、ポータブル式のラジオを製作しようと考えたのだ。真空管式よりはるかに小さくすることができるので、持ち運びできるサイズにすることが可能になる。

世界初こそ逃したが、1955年8月に発売されたトランジスタラジオTR-55は高性能で信頼性の高い製品だった。ダイヤルパネルにはSONYというロゴが刻まれていた。トランジスタラジオはアメリカにも輸出され、ブランドを確立する。1958年に会社名もソニーに変えられた。

1979年、再生専用の小型カセットプレーヤーのウォークマンが世界的に大ヒットする。小型で高性能な製品の開発は、トランジスタラジオの製作で培ったソニーの得意技だった。

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[ガズ―編集部]