ドイツ車の覇権 メルセデス・ベンツ、BMW、アウディ(1985年)

よくわかる 自動車歴史館 第71話

ジャーマン3というプレミアムブランド

今日でも日本の輸入車市場で根強い人気を誇るBMW 3シリーズ。写真は「E30」と呼ばれる2代目。
BMW 3シリーズはクーペやカブリオレといった多彩なバリエーションも魅力だった。こちらは高性能モデルのM3。
BMW M3の運転席まわり。

1980年代の後半、BMW 3シリーズが“六本木のカローラ”と呼ばれていた時期がある。バブル真っ盛りの日本では、夜の六本木でBMWはベストセラー大衆車のトヨタ・カローラに匹敵するほど多く見かけられていたのだ。決して安い買い物ではなかったが、あぶく銭を懐に忍ばせた客がディーラーに集まった。当時は“アッシー、メッシー、ミツグ君”という言葉がはやり、クルマでの送迎、豪華なディナーの相手、ブランド品の供給という用途ごとに男をキープしておくことが女性のステータスとされたのだ。

ドイツ車を所有しなければ、アッシーにすらなれなかった。BMWに加え、メルセデス・ベンツとアウディが高評価のアイテムとされた。誠に浅はかな現象で、自動車の性能ではなくブランドにばかり目が向けられていたのである。90年代に入ってバブルは崩壊し、うわついた気分はすっかり消えていくことになる。しかし、ドイツ車はそれからも高い人気を維持し続けた。動機はともあれ、この時期に多くの人が初めてドイツ車に触れ、その優秀性が広く知られることになったからだ。

近年ではジャーマン3という言葉が定着してきており、自動車のプレミアムブランドの象徴的存在になっている。メルセデス・ベンツ、BMW、アウディは、世界中の自動車メーカーにとって越えるべき高い峰なのだ。「走る、曲がる、止まる」の基本性能に優れ、確固たる設計思想を持ち、先進的なテクノロジーをいち早く取り入れてきた。

ドイツは歴史的に強力な工業国だったが、第2次世界大戦でインフラは壊滅状態になり、戦後はまず復興の作業から始めなければならなかった。自動車産業で世界のリーダーとなったのは、アメリカである。大排気量のV8エンジンを搭載した豪華なクルマが次々と発表され、技術面でもデザイン面でも最先端を走っていた。1950年代のアメリカ車は、世界に冠たる地位を築き上げていた。

「最善か無か」の理念で作られた高級車

メルセデス・ベンツW114/115。上級モデルをひとまわり小型化したようなスタイリングから、「コンパクトクラス」の名で親しまれた。
W114/115の後継モデルとしてデビューした123シリーズ。セダンのW123のほかにも、クーペのC123、ステーションワゴンのS123、ストレッチリムジンのV123などが存在した。
W123のクラッシュテストの様子。

ドイツからはフォルクスワーゲン・ビートルがアメリカに輸出されるようになり、大きな人気を得て売り上げを伸ばした。これは安価で故障が少ないことが評価された結果で、多くはセカンドカーとしての用途だった。アメリカで高級車といえば、キャデラックのようなゴージャスでゆったりとしたモデルなのだ。巨大なボディーにきらびやかな意匠をまとい、毎年モデルチェンジを繰り返して人々の消費意欲をかきたてていった。

復興を遂げた1960年代になると、ドイツの自動車産業も再び力を取り戻していた。高い技術力を持ったダイムラー・ベンツは、「最善か無か」をスローガンに掲げて妥協のないクルマ作りを進めていく。経済が上向くにつれて、個人オーナーに向けての高級車市場が拡大していった。

1968年に発売されたメルセデス・ベンツW114/115は、新しい高級車の概念を打ち立てた画期的なモデルである。以前は上級モデルの廉価版として作られていたミディアムサイズカーだったが、この代になって初めて専用設計のボディーとメカニズムが与えられた。ホイールベースは上級モデルと同じ2750mmを確保し、室内スペースも遜色のないものに仕立てられていた。伝統のスイングアクスルに別れを告げ、前:ダブルウィッシュボーン、後:セミトレーリングアームという新世代のサスペンションを採用したのも、新たな時代の始まりを印象づけた。

1976年に登場したW123は、さらに進んだメカニズムを身にまとったモデルである。「シャシーはエンジンよりも速く」という信念が貫かれ、頑丈な作りで100万kmの走行にも耐えるといわれた。進化したサスペンションにより操縦性と走行安定性が向上し、スポーツカーにも負けない鍛えられた足まわりを誇った。高速実験車によってテストを繰り返し、ハンドリングを徹底的に磨き上げたのである。

また、衝撃吸収ボディーの考え方を進め、ステアリングシャフトが衝撃時に収縮する仕組みを取り入れるなど、安全性能の向上にも力を注いでいた。1981年のマイナーチェンジでは、ABSと運転席エアバッグがオプションとして設定されている。ボディー自体も強化され、堅牢(けんろう)なシャシーと太いピラーが乗員を衝撃から守った。

新世代のディーゼルエンジンを採用したことも、このモデルの先進性を物語る。オイルショックによってガソリン価格が高騰する中、貧弱な動力性能しか持たなかった従来のディーゼルエンジンとは違い、安価な軽油で十分なパワーをもたらす新しいパワーユニットは驚きをもって迎えられた。水際立った高速性能を持ちながら燃費に優れるディーゼルエンジン車は、ガソリンエンジン車を上回る売れ行きを示したのである。

W124の清新なスタイルが未来を感じさせた

W123の後継モデルとして登場したW124。より小型の190シリーズがデビューしたことから、「ミディアムクラス」と呼ばれた。
W124は、メルセデス・ベンツの乗用車として初めて4WDシステムが採用された点も、大きなトピックだった。
1980年代に入ると、アウディは4WDシステムを搭載したクワトロで世界ラリー選手権に参戦。1982年と1984年に年間タイトルを獲得するなど、活躍を見せた。
日本でも人気を博したアウディ80。写真は1986年に登場した3代目で、上級モデルとしてより大型のエンジンを搭載したアウディ90が存在する。

カール・ベンツのガソリンエンジン自動車発明100周年を翌年に控えた1985年、メルセデス・ベンツの歴史に名を残す名車が誕生した。W124のコードネームで知られる初代Eクラスである。清新なスタイルはこれまでに見たことのないもので、メルセデス・ベンツが未来に向けて登場させた新世代のセダンであることをひと目で理解させた。

高級車の象徴であったメッキパーツを取り去り、W123よりも50mm近く幅の狭いスレンダーなボディーとなっていた。豪華で堂々たる見た目が高級車の条件とされていた時代に、簡素でモダンなスタイルを世に問うたのである。最初は奇異の目で見られたものの、この手法に世界中の自動車メーカーが追随することになる。

単に目新しいだけではなく、これは極めて合理的な思考に裏付けられたデザインだった。キーワードは、空力性能と軽量化である。Cd値(空気抵抗係数)は0.29という驚異的な水準で、重いモデルでも約1400kgという車重は常識破りだった。無駄をはぶいてコンパクト化し、高張力鋼板や樹脂パーツを多用して軽量化を図ったのだ。ボディー表面は可能な限りフラッシュサーフェス化され、シンプルなシルエットを形作った。

衝突安全性能の向上も目覚ましいものがあった。衝突試験が繰り返され、特にオフセットクラッシュへの対応が飛躍的に進んだ。メンバーの構造を工夫して、衝撃を分散して受け止める仕組みを採用したのだ。また、事故を未然に防ぐための装備も取り入れられた。ドアミラーはドライバーの視界を広げるために左右で形状の異なるものとなり、また後席のヘッドレストを運転席から倒す機構まで採用された。不完全な視界が事故を引き起こす可能性を少しでも減らそうという意図である。

日本への正規輸入が始まったのは1986年である。「90年代は、このメルセデスに似てくる。」というキャッチコピーで華々しく登場し、理想主義的な成り立ちが高く評価された。このW124のことを、今なお“史上最高のメルセデス”と断言するユーザーも多い。

これと同時期に日本で人気を博していたのが、冒頭で触れたBMW 3シリーズである。世間では浅薄な取り上げ方をされたものの、クルマ好きはあくまで吹けのいいエンジンとスポーティーなハンドリングを愛した。コンパクトなボディーも日本の交通事情にマッチしたものだった。

同じころ、アウディは世界ラリー選手権(WRC)でのクワトロの活躍を通して、世界的にスポーツイメージを高めていた。もっとも、日本で売れ行きを伸ばしていたのはクリーンで上品なイメージを持つセダンのアウディ80である。BMW 3シリーズの有力な対抗馬となっており、女性からの人気が高かった。クワトロの高い駆動力や安全性が広く知られるようになるのは、もう少し後のことだった。

ドイツ車が高級車の代名詞となったのは、日本だけではなかった。ドイツ製の精密な機械というイメージが浸透した上に、プレミアム性までも帯びるようになる。速度無制限のアウトバーンで鍛えられたというストーリーがドイツ車の価値を確立させた。

W124という革新的なモデルが現れてから長い時間が経過したが、高級車市場でのドイツ車の覇権は衰えを見せない。自動車の祖国は、伝統に頼るのではなく、常に最先端にいることで自らの価値を高めている。

1985年の出来事

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トヨタ・カリーナEDが大ヒット

年配層向けのクルマというイメージのあった4ドアセダンを一気に若返らせたのが、1985年に登場したカリーナEDだった。セリカのプラットフォームを使い、トヨタとしては初となるピラーレス4ドアハードトップに仕立てたモデルである。

全高は1310mmで、カリーナセダンよりも55mm低かった。ドアを4枚持ちながらも、クーペのようなスタイリッシュなフォルムを得ていたのである。スポーティーなクルマを手に入れたい、でも家族を乗せなければならないという二律背反の条件を満たしたことで、爆発的に売れ行きを伸ばした。

EDはエキサイティング・ドレッシーの略で、マイナーチェンジではEDのロゴが光るブライトエンブレムが取り入れられた。ヒットを見て他メーカーも追随し、背の低いクーペライクなセダンが大流行した。

カッコよさの代償として、居住性には難があった。特に後席は狭く、実用には適さなかった。スタイル優先のパッケージングには批判もあったが、21世紀に入って登場したメルセデス・ベンツCLSクラスなどのコンセプトを先取りしていたという評価もある。

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ホンダが初の3ナンバー車レジェンド発売

ホンダは1986年に北米で新たな高級車ブランドのアキュラを開設した。フラッグシップカーとして用意されたのがレジェンドである。ホンダ初のV6エンジンを搭載した大型セダンだった。

日本では、アキュラ開業に先駆けて1985年に発売された。ホンダにとっては初の3ナンバー車でもある。当時の大型セダンとしては珍しいFF方式を採用していた。発売当初は4ドアセダンのみだったが、2年後に2ドアモデルも加わっている。

高級車の経験がなかったホンダは、当時提携していたブリティッシュ・レイランドと共同して開発を進めた。1986年には兄弟車のローバー800が発売されている。

アキュラでは3代目からRL、5代目からはRLXの名称で販売されるようになった。日本ではセダン需要の低迷で販売が伸び悩んで生産が終了したが、2015年からハイブリッドモデルで復活することが発表された。

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プラザ合意成立

1981年に就任したアメリカのレーガン大統領は、積極的な経済政策で景気浮揚を図った。市場原理に基づいて民間活力を重視し、減税と規制緩和でスタグフレーションの解消を狙ったのである。これがレーガノミクスと呼ばれるもので、今日のアベノミクスはこれにならった名称である。

レーガノミクスは経済規模を拡大したが、同時に巨額の財政赤字と、貿易赤字の増加をもたらした。この“双子の赤字”が、アメリカ経済を苦しめることになる。基軸通貨であるドルは不安定になり、世界的な経済危機が懸念されるようになった。

為替レートを安定させるため、G5(日、米、英、独、仏)の会合が持たれ、1985年9月22日に声明が発表された。会合の場所であるニューヨークのプラザホテルにちなみ、プラザ合意と呼ばれる。ドル危機を防ぐために円高ドル安に導こうとするもので、背景にはアメリカの対日貿易赤字の拡大があった。

協調介入により、急激な円高ドル安が進んだ。心配された円高不況は起きず、高金利を背景に不動産や株式への投資が急増した。結果として、プラザ合意が日本のバブル景気の起点となったとされている。

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[ガズー編集部]

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