英国の魂ジャガー(1922年)
よくわかる 自動車歴史館 第74話
さまざまな顔を持つ英国の名門
2003年に登場した新型XJは、ジャガーが新世代に入ったことを強く印象づけた。1986年以来のフルモデルチェンジで、伝統的なスタイリングを維持しながら革新的な新技術を盛り込んでいたのである。ボディーがアルミニウム化され、40%もの重量減を達成していた。アルミニウムボディーについては少し前にアウディA8が採用していたが、あちらがスペースフレーム構造だったのに対し、ジャガーはリベット接着によるモノコックだった。
サスペンションも一新され、電子制御ダンパーとエアスプリングが取り入れられた。スーパーチャージャー付きの強力なV8エンジンも用意されていた。スポーティーで室内が広く、ドイツのプレミアムサルーン勢に対抗する体制を整えたのだ。おおむね好評を持って迎えられたが、中には首をかしげる人もいた。室内空間を犠牲にしても低い構えを崩さなかった先代の姿に郷愁を感じる古くからのXJファンは、近代的なスタイルが物足りなく思えたのだ。
人によって“ジャガーらしさ”だと感じるものが大きく違っていたことが、賛否が分かれた原因の一つだろう。ジャガーといってまず思い浮かべるモデルがXJであるか、Eタイプであるかで、イメージはずいぶん違う。古典的なサルーンのマーク2を想起する人もいるだろうし、レースシーンでの活躍がまず頭に浮かぶかもしれない。それもDタイプなのかグループCのシルクカットなのかではまるで別物だ。
ジャガーは、歴史の中で何度も変貌を遂げてきた。始まりは、サルーンでもスポーツカーでもなかった。1922年9月4日に発足したスワロー・サイドカー・カンパニーが、ジャガーの原点である。この日は、創業者のウィリアム・ライオンズが21歳の誕生日を迎えた日だった。彼は10歳年上の友人ウィリアム・ウォームズレイと共同で、イギリス北西部の町ブラックプールにオートバイのサイドカーを作る会社を立ち上げたのだ。イギリスの法律では21歳以上でないと会社の設立ができなかったので、この日を待っていたのである。
コーチビルダーを経て自動車メーカーに
ライオンズには、天性の商才があったようだ。ウォームズレイが製作する美しい出来栄えのサイドカーを巧みに宣伝し、売り上げを伸ばしていった。工場を広げると、自動車の修理にも手を伸ばす。1927年になると、オースチン・セブンをベースにしたロードスターの販売を始め、コーチビルダーに転身した。スポーティーなスタイルが評判を呼び、イギリス全土で販売されるようになる。翌年にはサルーンタイプのボディーも加え、商売は急拡大した。
1928年、スワロー社はコベントリーに移転して手がける車種を増やしていった。フィアットやスタンダードのシャシーを使った新モデルを発売し、ウーズレー・ホーネットベースのスポーツカーの製作も始めた。ライオンズは、次の目標を自動車メーカーにステップアップすることに置いた。販売は好調で、機は熟していた。1931年のロンドンモーターショーに、SS1とSS2という2台のオリジナルモデルを出展する。スタンダードのエンジンを用いていたもののシャシーは専用設計で、全高が1370mmという背の低いスタイルが特徴だった。
SS1とSS2は、それまで以上に好評だった。ベントレーにも似たスタイルと豪華な内装を持っていながら、価格は半分以下だったのである。動力性能や仕上げの精密さではかなわなかったが、見かけでは十分に対抗できた。ライオンズは、ユーザーの心理を読み取って製品戦略を成功させたのだ。1933年には社名をSSカーズに改め、株式会社化を行った。意見を異にしたウォームズレイは会社を去るが、ライオンズはさらに前へ進んだ。
新体制のもと、ライオンズは4ドアサルーンの2 1/2リッターや、高性能スポーツカーのSS90およびSS100を発売する。ジャガーと名付けられたこれらの新型車は、流麗なスタイルや高い動力性能から好評を博し、ライオンズが引き続き価格を抑える方針をとったこととも相まって大人気となった。SSカーズはイギリスで知らない者のない大メーカーに成長していった。
第2次大戦が終わると、再び会社名を変える。SSというのはナチス親衛隊を思わせるので、ジャガーカーズに改称したのである。コベントリーは戦災に見舞われてジャガーの工場も大きな被害を受けており、しばらくは戦前型のモデルを作り続けていた。ニューモデルが発表されたのは、1948年のロンドンモーターショーである。マークV と名付けられたサルーンとともに展示されたモデルは、集まった人々を驚かせた。XK120という名の2シーターロードスターで、長く伸びたフロントフードの下に収められた3.4リッター6気筒エンジンにはカムシャフトが2本装備されていたのだ。新しいDOHCエンジンは、160馬力の最高出力を発生した。
車名の中にある“120”は、マイル表示の最高速度を意味している。200km/h近くのスピードを出すことのできる高性能なスポーツカーだった。戦前のモデルと同様、やはり価格は安く、アストン・マーティンDB2の半額で手に入れることができた。XK120はアメリカで大評判となり、多くが輸出された。
混乱を乗り越えてブランド価値を高める
XK120の名声を高めたのは、レースでの活躍である。1951年のルマン24時間レースに、このモデルをベースにして作ったレーシングカーで出場したのだ。エンジンを200馬力以上までパワーアップし、滑らかな空力ボディーをまとっていた。XK120Cと名付けられたこのマシンは、初出場のルマンで優勝を果たす。2年後にも優勝して名声を高め、Cタイプと呼ばれるようになった。
Cタイプは通称だったが、後継車はDタイプが正式名称である。マグネシウム製のモノコックを採用し、エンジンの最高出力は250馬力に達していた。ドライバーの後方に垂直尾翼に似たスタビライジングテールフィンが備えられているのが特徴である。このマシンは1955年からルマン3連勝を達成する。モータースポーツでの活躍は、ジャガーの名声をいよいよ高めていった。その功績が認められ、ライオンズは1956年にナイトの称号を贈られている。
新たな市販モデルとしては、1955年に2.4と3.4というコンパクトなサルーンが発売されている。スモールジャガーと呼ばれたこのモデルは1959年に改良され、マーク2と名付けられた。小さいとはいえ四輪ディスクブレーキなどの高度な技術が取り入れられていて、3.8リッターエンジンを搭載したモデルは最高速度が200km/hに達する性能を発揮した。
さらに、1961年のジュネーブショーで発表されたモデルがジャガーの評価を決定的に高めることになった。ロングノーズの美しいスタイルを持つスポーツカーで、名前はEタイプである。もともとはDタイプを継ぐレーシングカーとして開発されていて、ロードカーとなっても名前がそのまま残されたのだ。通称だったCタイプという名は、ついに市販車のモデル名にまで発展した。
ジャガーは絶頂期を迎えていたが、イギリスの経済は決して好調ではなかった。アメリカ資本の自動車メーカーが勢力を伸ばす中、民族資本系メーカーは生き残りのために大同団結した。1952年にオースチンとナッフィールドが合併してブリティッシュ・モーター・カンパニー(BMC)となっていた。1960年代に入るとそれでも経営の悪化がとまらず、1966年にジャガーが加入してブリティッシュ・モーター・ホールディングス(BMH)となる。2年後さらにローバーグループが加わってブリティッシュ・レイランド・モーター・コーポレーション(BLMC)となり、収拾のつかない事態となっていった。
1972年にライオンズが引退すると、混乱に拍車がかかった。1975年にはBLMCが国有化されてブリティッシュ・レイランド(BL)に改組される。ジャガーはグループ内の高級車部門という扱いになっていき、社員の士気は下がる一方だった。リストラが繰り返され、製品の品質は低下していった。
危機を救ったのは、1980年にジャガーのトップに就任したジョン・イーガンだった。彼は日本企業のような品質管理を取り入れ、社員の意識改革を進めた。ジャガーはイギリスを代表する高級車であり、それを作ることは誇りであるということをあらためて思い起こさせた。新たなパワーユニットを導入し、ジャガーが時代のトップにいるとアピールした。1984年、ジャガーはBLから離れ、再び民営化する。
ジャガーは立ち直ったがイギリスの苦境は続き、経済はなかなか上向かなかった。1987年のブラックマンデーが追い打ちをかけ、ジャガーも経営不振に陥る。1990年、ジャガーはフォード傘下に入った。フォードはジャガーの可能性を認めたからこそ、買収に踏み切ったのである。BL時代に埋もれてしまったのとは逆に、ジャガーはフォードの力を借りてブランド価値を高めていった。2003年の新世代XJも、十分な資本力を背景にして生まれたものである。
2008年、フォードの経営難からジャガーはインドのタタグループに移る。それでも、ジャガーがイギリスを代表する高級車であることを疑う者はいない。英国の魂が受け継がれている限り、ジャガーはジャガーであり続けている。
1922年の出来事
topics 1
オースチン・セブンが大ヒット
初期のイギリス自動車メーカーは、他業種から転身した会社が多い。ウーズレーは羊毛刈り器、スイフトはミシン、ローバーとサンビームは自転車を作っていた。一方で、土台のないところから自動車作りを始めたのがロールス・ロイスとオースチンだ。
ウーズレーで働いていたハーバート・オースチンは、会社との方針の相違から独立し、1906年に初めてのモデルを発売する。大型車の製造を行っていたが売れ行きが芳しくなく、一転して1922年に簡便な小型車のセブンを発売した。
ホイールベースは1905mmという小さなクルマだったが、大人4人が乗車できた。エンジンの排気量は0.7リッターほどと小さなものだったが、その構造は直列4気筒という本格的なもので、360kgの軽量ボディーには十分なパワーを供給した。
当時はオートバイのエンジンを流用したサイクルカーが流行していたが、同等の価格で高いレベルの性能を持ったセブンが市場を奪った。広く普及したセブンはカスタマイズのベースとしても人気となり、イギリスの自動車文化発展の礎となった。
topics 2
梁瀬自動車がヤナセ号を試作
1915年、梁瀬商会はビュイックとキャデラックの輸入販売を始めた。梁瀬商会とは、三井物産の自動車部を任されていた梁瀬長太郎が独立して始めた会社である。最初は伸び悩んだが、大正天皇の即位式で自動車が必要とされ、一気に在庫を売り尽くした。
その後は好景気で販売が伸び、商売は順調に発展していた。1920年には資本金500万円で株式会社の梁瀬自動車に改組している。完成品の輸入販売にとどまらず、関税を安くするために自動車を部品で輸入し、日本で組み立てる方式を取り入れた。
ボディー架装や修理などの経験を積む中で、オリジナルの自動車を製造しようという機運が生まれる。国産のパーツを使って、純国産車を仕立てようというのだ。白楊社のアレス号製作と同時期で、日本の自動車史において極めて早い段階での挑戦だった。
10台を製作する予定だったが、5台作ったところで中止となった。販売価格は3000円だったが、原価が6500円もかかってしまったからである。梁瀬自動車がその後自動車製造に関わることはなかった。
topics 3
グリコ発売
2014年10月、大阪道頓堀のグリコ看板が新しくなってお披露目された。1935年に設置されてから6代目。イルミネーションは約140万個のLEDを使った最新のものとなったが、シンボルである“ゴールインマーク”は健在だ。
ランナーが両手と片足を上げているポーズは、1922年の創業当時から変わらない。キャラメル菓子のグリコは、創業者の江崎利一がカキに含まれるグリコーゲンを育ち盛りの子供に提供しようと考えて作ったものだ。「一粒300メートル」というキャッチコピーに意図が込められている。
1927年からはおまけが付くようになり、2年後に小箱に封入するスタイルが確立した。最初はなかなか売れず、子供に食べてもらうための工夫だった。
グリコポーズをする男性は、1992年に7代目になった。初代は今から見ると貧弱な体格で、顔つきも怖かった。
【編集協力・素材提供】
(株)webCG http://www.webcg.net/
[ガズー編集部]
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