【自動車人物伝】キャロル・シェルビー(1966年)
よくわかる 自動車歴史館 第76話
養鶏業のかたわらレースを始めてF1へ
2015年のデトロイトモーターショーに、予告なしに1台のスポーツカーが現れた。フォードGTである。ミドシップの2シータークーペで、600馬力以上のパワーを持つ3.5リッターV6ツインターボエンジンを搭載する。ボディーは軽量化のためにカーボンファイバーとアルミニウムで構成され、ドアは跳ね上げ式を採用した。人々がこの新型車に熱狂したのは、高いスペックを持つスーパーカーだということだけが理由ではない。フォードGTという名前が、アメリカ人のプライドを刺激したのだ。
フォードGTは、1960年代にレースで活躍したレーシングカーをオマージュしたスポーツカーである。一般的にはGT40という名で親しまれているが、これは車高が40インチ(約1m)しかないことから付けられた愛称だった。このモデルは、1966年にル・マン24時間レースで優勝を果たしており、新型フォードGTは、それからちょうど50年後の2016年に販売が開始されると発表されている。フォードGTは、一人の偉大なカーガイの名前とともに記憶されている。キャロル・シェルビーだ。
シェルビーはテキサス生まれで、ブーツとカウボーイハットがトレードマークだ。若い頃からクルマとスピードが好きだったが、家業の養鶏が忙しく、レースには仕事を終えてから出掛けなければならなかった。仕事着の青白ストライプのオーバーオールを着たままサーキットに行き、豪快な走りで勝利をおさめる姿が喝采を浴びた。
確かな腕が認められ、シェルビーはF1に挑むことになった。1958年にマセラティ、1959年にアストン・マーティンでドライバーを務めたが、結果を残すことはできなかった。彼が真価を発揮したのは、ル・マン24時間レースだった。1959年の大会に参戦し、アストン・マーティンにル・マン初優勝をプレゼントしたのだ。このニュースはアメリカにも伝えられ、彼はレース界のヒーローとなる。しかし、1960年になると彼はレーシングドライバーのキャリアに終止符を打った。持病の心臓病が悪化し、ハードなレースに耐えられなくなったのだ。
名車コブラの開発で名声を確立
引退はしたが、シェルビーの活躍はむしろそれから加速する。アメリカに帰ってレーシングコンストラクターのシェルビー・アメリカンを設立し、高性能なマシンの開発に力を注ぐことになった。最初に手がけたのがコブラである。イギリスのACカーズが販売していたロードスターに、フォードの4.2リッターV8エンジンを載せ、マッスルカーに仕立てたのだ。ライトウェイトスポーツカーのシャシーにパワフルなエンジンを組み合わせたコブラは大人気となり、レースでも活躍することになる。
シェルビーは、1964年に発売されたマスタングのチューニングにも関わっていく。フォードはハイパフォーマンスモデルの開発を彼に委ね、両者の関係は深まっていった。この時期から、自動車メーカーにとってスポーティーなクルマが重要な意味を持ち始めていた。免許を取得したベビーブーマーが自動車に求めたものは、何よりもスピードだった。マスタングのほかにもポンティアックGTOやプリムス・バラクーダなどが人気となった。1965年には延べ5000万人がレース観戦に押しかけ、4本のレース映画(『グラン・プリ』『栄光のル・マン』『グレートレース』『レッドライン7000』)が撮影された。
サーキットで速さを見せつけることは、販売成績に直結した。強化策を練っていた1963年、フォードに耳寄りな情報が届けられた。フェラーリが資金不足に陥り、支援を求めているというのだ。ル・マン24時間レースで1960年から連勝を続けている無敵のチームである。買収することができれば、フォードのイメージは格段にアップするだろう。提携交渉が進められて契約寸前までいくが、土壇場でキャンセルされる。その直後、フェラーリとフィアットとの話し合いが行われていることが明らかになった。
ヘンリー・フォード2世は、この一件を自分たちが当て馬として利用されたのだと解釈した。フォードは、自力でイタリアのチームを打倒することを決める。プロトタイプカーを製造するためのフォード・アドバンスト・ヴィークル部門が発足した。1964年4月1日、第1号車が完成する。長いノーズに短いテールを持つ空力ボディーで、350馬力の4.7リッターV8エンジンをミドに積んでいた。計算通りならば、フェラーリを上回るスピードが得られるはずである。しかし、6月のル・マン24時間レースまでには、わずかな時間しか残されていなかった。
結果は無残だった。3台のフォードGTは、朝にはレースを終えていた。完走すらできなかったのである。トップ6のうち、5台がフェラーリだった。4位に入ったのは、シェルビーが作ったデイトナ・コブラである。オープンカーのコブラをベースにクローズドボディーを与え、レース用に仕立てたマシンである。GTクラスではフェラーリをしのいで優勝を達成した。フォードにとって、シェルビーが唯一の希望だった。
フォードGTでル・マン優勝を勝ち取る
1965年、フォードは新たなレース体制を発表する。シェルビー・アメリカンがマシンの製造とレースを請け負うことが明らかにされた。シェルビーからは、マスタングGT350と427立方インチ(約7リッター)のV8エンジンを搭載するコブラが発売されていた。ル・マンを戦う新しいフォードGTも、427立方インチの巨大なエンジンを搭載する。レースでの勝利は、シェルビーにとってもビジネスチャンスなのだ。レースで名声を高めてロードカーを売るという方式は、フェラーリと同じだった。
シェルビーは、1950年代にフェラーリからドライバー契約を持ちかけられたことがある。しかし、彼が選んだのはアストン・マーティンで、1959年に彼はドライバーとしてフェラーリを打ち破った。今度はコンストラクター同士の戦いである。慢性的な資金不足に悩むフェラーリと違い、シェルビーにはあり余る金を持ったフォードがついている。
1965年のル・マン予選で最速を記録したのは、フィル・ヒルの乗るフォードGTだった。コーナーでは軽量なフェラーリに分があったが、ユノディエールと呼ばれる長いストレートではフォードが圧倒した。本戦でも、最初の周回を終えてグランドスタンドに帰ってきたのは、フォードの2台だった。しかし、フォードのマシンはオーバーヒートやギアボックストラブルに苦しめられる。4時間後には、1位から4位までをフェラーリが占めていた。午後11時には、フォードGTは全滅した。
この敗北はシェルビーの立場を危うくした。ヘンリー・フォード2世は、シェルビーに「1966年フォード優勝」と書いたカードを渡した。勝利は絶対の義務となった。ル・マンへの挑戦は続けるが、レースチームは2つに分けられてシェルビーはホールマン・ムーディーと競わされることになる。1966年のル・マンには、シェルビー・アメリカンとホールマン・ムーディーから3台ずつ、アラン・マン・レーシングから2台で合計8台のフォードGTがエントリーした。フェラーリは7台体制である。
予選ではシェルビーのフォードGTが1位と2位を占めた。ラップタイムは3分30秒台という驚異的なもので、シェルビーがドライバーだった頃とは比べものにならないペースだった。レース開始から6時間後、フェラーリがトップの座を奪う。前年と同じドラマが繰り返されるかと思われたが、音を上げたのはフェラーリのほうだった。スピード競争の激化にマシンはついていけなかった。夜明けを前にして、シェルビーのフォードGTが勝利することは確実になっていた。
フォードGTは、1966年のル・マンで1位から3位を独占した。シェルビー・アメリカンは翌年もフェラーリに打ち勝って勝利を手にした。ロードカーのコブラとマスタングは、ル・マンの勝利という付加価値を得てさらに人気を博した。1966年にはシェルビー・マスタングGT350が前年の4倍もの売れ行きを示し、翌年には、7リッターエンジンを搭載したGT500もラインナップに加わっている。
一方、ル・マンの勝利で製品の高性能さをアピールできたと判断したフォードは、レース活動の縮小に向かった。シェルビー・アメリカンが手がけるマスタングのロードモデルも、パフォーマンスの向上よりもスタイルの派手さを狙うことに重点が置かれるようになっていき、1969年モデルを最後にラインナップから消えた。同じ年、キャロル・シェルビーはレース活動からの引退を表明する。マッスルカーの時代は終わりを迎えようとしていた。
2006年、GT500の名が復活する。マスタングは6代目となり、初代を思わせるデザインをまとっていた。キャロル・シェルビーは84歳になっていたが、GT500のメカニズムやスタイルには彼の意見が反映されたという。フォードのハイパフォーマンスカーには、やはりシェルビーの名がふさわしいのだ。アメリカ人が大好きなクルマは、今も昔も底抜けに明るいスポーツカーなのである。
1966年の出来事
topics 1
日産とプリンスが合併
戦後の復興を果たして高度経済成長期に入った日本は、1964年に経済協力開発機構に加盟する。欧米と対等に自由貿易を行うまでに発展したのだ。1965年には乗用車の輸入が自由化され、日本の自動車産業は体質強化を迫られた。
政府は自動車業界の再編が必要であると考え、通商産業省はメーカー間の提携や合併を推進する姿勢を見せた。その頃、慢性的な赤字が続いていたのがプリンス自動車である。スカイラインやグロリアなどの魅力的なモデルを開発していたが、販売体制が弱く売り上げに結びつかなかった。
プリンスに大きな影響力を持っていたブリヂストンは、トヨタに合併を打診した。これが破談となり、残された選択肢は日産だけだった。1966年8月、プリンスが日産に吸収される形で合併が成立した。
プリンスが抱えていた巨大な債務は日産の重荷になるが、中島飛行機から受け継ぐ高い技術力はメリットとなった。プリンスのモデルは引き続き製造され、スカイラインは現在も製造が続けられている。
topics 2
カローラとサニー発売
1966年は「マイカー元年」と呼ばれる。日本のモータリゼーションを担う2台のモデルが発売されたからだ。コロナとブルーバードが繰り広げた販売戦争は、一回り小型なモデルに舞台を移して展開していくことになる。
4月に登場したのが、日産サニーである。開発陣は当初850ccクラスのエンジンを積む考えだったが、将来の発展性を考えてボアアップし、1リッターに拡大された。販売は好調で、5カ月で約3万台の受注を記録した。
カローラが登場したのは、6カ月後の10月だった。サニーが1リッターエンジンを採用するという情報を得て、トヨタは1.1リッターのエンジンで差別化を図った。「プラス100ccの余裕」というキャッチコピーが当たり、カローラはサニーを上回る売れ行きとなった。
2台のライバル関係はその後も続き、激しい競争が繰り広げられる。それが技術開発を促進することにつながり、自動車の大衆化は加速していった。
topics 3
ビートルズ来日
1966年6月29日、羽田空港に着陸した日本航空機からハッピ姿の4人組が降り立った。ヒット曲を連発して世界中で人気となっていたビートルズである。混乱に備えて横田基地に緊急着陸の用意が調えられ、厳重警備が敷かれた中での来日だった。
ビートルズに熱狂する若者を不良だとする考えも根強くあり、来日に反対する声も多かった。コンサート会場に日本武道館が使われることが、反発を増幅した。テレビの討論番組で差別的な言葉を使ってビートルズを批判する評論家まで現れ、賛否入り乱れて大論争となった。
ビートルズが宿泊したホテルにはファンや取材陣が詰めかけ、メンバーたちは外出もままならなかった。武道館では会場内に3000人の警官を配置する異例の事態だった。司会をE.H.エリックが務め、尾藤イサオや内田裕也、ドリフターズなどが前座として登場した。
ステージは11曲で30分ほどの短いもので、3日間5回の公演が行われた。テレビでも公演の様子が放映され、56.5%という高視聴率を記録した。ビートルズが4人そろって日本でコンサートを行ったのは、この時が最初で最後である。
【編集協力・素材提供】
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[ガズー編集部]
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