わたしの自動車史(前編) ― 藤島知子 ―

神奈川県藤沢市出身のモータージャーナリスト。軽自動車のワンメイクレース参戦を皮切りに、ジュニアフォーミュラなどのモータースポーツに挑戦。2002年より執筆活動を開始し、現在は自動車専門誌に加え、テレビやラジオ、インターネット媒体などで積極的に活動している。
3代目トヨタ・カリーナの3ドア リフトバッククーペ。FFとなった4代目以降のカリーナは4ドアセダンのみのラインナップとなったため、同車にとっては最後のクーペとなった。
バネットは1978年に登場した日産のワンボックスカー。トラックやライトバン、乗用ワゴンのコーチなどが設定された。
1991年に登場した3代目マツダRX-7。ロータリーエンジンを搭載した高性能スポーツカーとして人気を博した。
オペルのEセグメントモデルであるオメガ。筆者が所有していたのは、1987年に登場した初代のワゴン。
マイカーであるブルーのマツダRX-7と筆者。

今思えば、私がクルマ好きになったキッカケは「クルマに乗ると、何かいいことが待っている」と思えた幼い頃の体験があったからだと思います。
神奈川県藤沢市に生まれた私は、夜泣きをすると父が運転するクルマでドライブに連れていかれ、クルマに揺られると泣きやむ子供でした。そんな父はそれほどスポーツカー好きでもなければ、クルマに関して深い知識を持ち合わせている人でもありませんでしたが、ドライブにはよく連れていってくれました。当時は週末になると、家にあったトヨタ・カリーナ 3ドア リフトバッククーペに乗って親戚の家に出掛けたり、横浜・元町のナポリタンがおいしいレストランに行ったりするのが楽しみでした。

ある時、父の弟が若くして亡くなり、彼の愛車だった日産バネットをわが家で引き取ることに。小学生の弟と私は、初めて乗る大きなワンボックスカーに、まるで秘密基地を手に入れたような気分になったことを覚えています。天井が高く3列シートを備えた空間は私たちの想像力を膨らませ、サンルーフから望む頭上の景色は最高のエンターテインメントとしてドライブの時間を盛り上げてくれました。夏休みには夜中に家を出発し、海水浴を楽しむために南伊豆の下田へ出掛けて車中泊をしたことも。現地に着いたらシートをフルフラットにして、みんなで川の字になって眠ったものです。私たち家族は3列シートのクルマの実用性とワクワク感に魅せられて、後にライトエース、エスティマとミニバンを乗り継ぎました。

そんな風にして育った私は、クルマに乗ると楽しいことが待ち構えているような気がするようになっていたのです。ただ、その段階ではクルマを使った先に楽しみがあるというだけで、具体的な車種には興味はなく、クルマは助手席や後席に乗せてもらうためのものだと思い込んでいました。運転する必要性を感じることがなかった私が免許を取得したのは24歳の時。社会人になると、よく遊んでいた親友が免許を取ってクルマで送り迎えをしてくれる機会が増えて、そこでようやく「クルマって、運転できたらもっと世界が広がるのかも?」と思うようになったのです。

当時はすでに高速教習や応急救護の受講が必須だったので、MT免許の取得にかかる費用は35万円程度。庶民的な家庭で経済的な自立を求められた私としては、18歳を迎えると同時に教習所に通い出した同級生たちのようにはいかず、学生時代にお小遣いで免許を取得するのは現実的ではありませんでした。それから随分時間がかかりましたが、ようやく自分でクルマが買えるめどが付いたところで教習所に通い詰め、3週間で免許を取得。憧れのクルマを購入するために突っ走ったのです。

私が憧れたクルマはロータリーエンジンを搭載したピュアスポーツカー、マツダRX-7。FD3S型と呼ばれていた最終型は、イノセントブルーのイメージカラーがあまりに鮮烈に映りました。地をはうように低く、抑揚が与えられたプロポーションはほかのモデルにはない美しさ。無駄を徹底的にそぎ落とし、突き詰めたクルマが発するオーラにすっかり心を奪われた私は「絶対にこのクルマを手に入れよう」と決意。免許取得直後は車両感覚と運転に慣れるためにオペル・オメガワゴンの中古を50万円で譲り受けて乗っていましたが、半年後には印鑑を握りしめて一人でマツダのディーラーに乗り込み、試乗してもいない新車を400万円で購入しました。ちなみに、ためた頭金は110万円で、残りは60回で支払う5年ローン。さらに、26歳で車両保険をかけるとひと月あたりの保険料は2万円を超え、まさに清水の舞台から飛び降りた気分でした。

さらにMT初心者だった私は、街乗りをスムーズに走ることにさえテクニックを必要とするスポーツカーに大苦戦。最初は恐怖に感じた坂道発進も時間の経過とともにどうにかこなせるようになって、夜中にフラリと鎌倉や江ノ島の海岸線を流すことが最高の時間となりました。地味なキャラクターの私でしたが、FDを運転していると勇気をもらえる気持ちになりました。このクルマが、後に私をモータージャーナリストという仕事に導くキッカケを作ってくれることなんて全く知らずに……。

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[ガズ―編集部]