アウトバーンとハイウェイ(1933年)
よくわかる 自動車歴史館 第81話
自動車の急増で専用道路が必要に
2015年は首都圏で高速道路の開通が相次いだ。3月8日に圏央道の寒川北−海老名間がつながり、同月29日には相模原ICの供用が開始された。首都高速では3月7日に中央環状線が全線開通し、大井から葛西までがひとつながりになった。交通環境は激変し、さまざまな影響が現れている。東名から中央道、関越道などが圏央道で結ばれたことで、埼玉県内には大規模商業施設や企業の物流拠点が続々と開業している。首都高速道路によって行われた開通直後の調査によると、中央環状線にクルマが流れたことで都心環状線の交通量は約7%減少し、中央環状線内側の渋滞・混雑量は昨年同時期と比較して約5割減少したという。
高速道路の設置は、国土と都市の発展にとって重要な要素となっている。人と物は高速道路に沿って移動するのだ。それをどうデザインするかで物流をコントロールすることができ、都市の景観も変化させることができる。このことにいち早く気づいたのが、1933年に発足したドイツのナチス政権だった。国策として高速道路のアウトバーン建設が進められたのである。アウトバーンとは、自動車専用道路という意味を持つドイツ語だ。
自動車専用道路の必要性は、ドイツだけで生じていたわけではない。先進諸国では20世紀に入って自動車の数が急増したが、道路の整備は進んでいなかった。未舗装の道路には深いわだちが刻まれ、雨が降ればぬかるみになって走行を妨げる。路上には歩行者、馬、自動車が混在しており、事故も起こりやすかった。自動車の性能が向上しても、それを生かすことが難しかったのだ。
ヨーロッパにおける自動車専用道路建設では、イタリアが先行した。1924年にミラノからヴァレーセまでの約50kmに、交差点のない幅10mのアウトストラーダを完成させている。同じような道が続々と建設され、1935年までに478kmが開通した。イタリアではファシスト党が政権を掌握しており、道路建設には独裁者ムッソリーニの強力なバックアップがあった。彼は古代ローマの道路建設を継承する意図を持っていたといわれる。
ドイツのアウトバーンにも、ナチスの独裁政権が大きく関わっている。強権を発動できる体制は、大規模な工事を強引に進めるのに好都合だった。ヒトラーが自動車マニアだったことも、道路建設を重視する原因になっていたようだ。側近のヒムラーやゲーリングも熱狂的なモータースポーツファンだった。
失業対策事業の意味もあった道路建設
ナチスの政権が始まる前から、自動車専用道路の計画は始まっていた。1909年にプロイセンのハインリヒ皇太子が、ベルリンに自動車専用試験道路を作る計画を立てている。戦争で中断するが、1921年にベルリン・アヴェニューが開通した。この年、ドイツ道路建設連盟が設立されている。1924年になると民間で自動車道路建設研究会が結成され、翌年1万5000kmの自動車専用道路を建設するよう提案した。彼らは1927年に「ハフラバ計画」を提起した。ハンザ都市−フランクフルト−バーゼルを結ぶ道路の構想で、これが後にアウトバーン建設の基盤になる。
ナチス党は、もともと自動車専用道路には批判的だった。一部の特権階級のためのぜいたくであり、浪費だと考えたのだ。しかし、ヒトラーはアメリカでモータリゼーションが進んでいることを知り、危機感を抱いていた。1933年にナチスが政権を握った直後、ヒトラーはベルリン国際自動車展示会で演説を行う。標語は「モータリゼーションへの意志」で、自動車工業を発展させドイツ全土に道路網を建設することを約束した。5月になると全長7000kmの自動車道路建設計画を発表し、6月に道路制度総監という官職を新設する。9月23日にはアウトバーン建設がスタートし、式典ではヒトラー自ら鍬(くわ)入れ式を行った。
ナチスがアウトバーンの政策を転換したことには、1929年の世界大恐慌が関わっている。街にあふれていた失業者に仕事を与えることが最優先の課題となっていた。道路制度総監に就任したフリッツ・トットは、アウトバーン建設の意義を帝国の再建だとした。国土開発とインフラ整備を同時に進め、60万人の雇用を創出することを目指した。総建設費の約6割が、失業保険制度から賄われていることがこの事情を物語っている。ただ、実際には雇用創出効果は限定的で、1933年に生み出された雇用は4000人にすぎず、1936年に至っても12万2000人にとどまった。
ほかにもアウトバーン建設の意義はあった。例えば軍事的には、非常時に滑走路として使用することが検討されており、トンネルは航空機の隠し場所に転用できるとされた。また、都市と都市をつなぐ道路網の構築は精神的な意義も担っており、アウトバーンは国家建設と民族統一の象徴とみなされた。「ヒトラーの道路」は、新しい文化価値を創造する時代の記念碑というわけだ。1934年には広報誌『道路』も創刊される。5万部を月2回発行し、詩や小説、絵画、写真などで建設の意義を宣伝した。未来派の芸術家たちはスピードの美を称揚しており、アウトバーンに熱狂した。
アウトバーンは労働者の福利厚生としての位置づけも与えられていた。スローガンは「週末−歓喜力行団−フォルクスワーゲン」である。週末のドライブが労働者の保養として優れた効能を持つとされた。ドライブするためには、個人で自動車を保有しなければならない。アウトバーン計画と時を同じくして、ヒトラーは国民車構想を発表している。高性能で安価なクルマを普及させ、誰もがパーソナルモビリティーの恩恵にあずかれるという夢を見せたのだ。
国民車の開発はフェルディナント・ポルシェ博士に委ねられ、1938年にプロトタイプが完成している。労働者は毎月5マルクずつ積み立てていくと、4年後に1台のクルマを手に入れることができることになっていた。しかし、その約束通りに完成車を受け取った者はいなかった。1939年に戦争が始まり、ナチス・ドイツは崩壊した。
パークウェイ構想の頓挫とハイウェイの誕生
実際に利用されることはなかったが、アウトバーンはドライブ道路として設計された。重視されたのは、景観パノラマである。道路制度総監のトットは、クルマの中から見る風景を重視し、「時代精神を表現する、何千年も続く建築作品」を作ろうと考えた。異なる考えを持っていたのが、アルヴィン・ザイフェルトである。
彼は郷土保護運動出身で、1934年に景観代理人に任命されている。アウトバーンは技術と自然の融和がテーマとされていて、造園家たちが景観形成について助言する制度が設けられたのだ。トットとザイフェルトは協力関係にあったが、鋭く対立する場面も多かった。ザイフェルトは景観の修復・育成を重視しており、アウトバーン建設を通じてドイツの始原的な森の回復を図ることを提唱した。
ふたりはルート設定で激しく対立した。トットは7kmほどの直線を半径2kmの円弧でつなぐジグザグのコースを提案した。高速走行には直線道路が効率的であり、ドライバーにとっても運転が楽しくなると主張したのだ。ザイフェルトが強調したのは、景観との調和である。谷や丘が形成する自然の湾曲に従うことで、道路は芸術作品となる。生命体のリズムに合致するのは弧を描くルートであり、直線が長く続くのは安全性の面でも問題があると指摘した。
ザイフェルトが有利になったのは、アメリカの動向が大きい。アメリカ政府が進めた研究は彼の主張を裏付けており、アウトバーンでも景観との調和を重視するルートが選択されることになった。しかし、当のアメリカでは少し違う経過をたどることになる。
アメリカ最古のパークウェイとされるブロンクス・リバー・パークウェイは、1907年に建設が始まっている。ゴミによる汚染を防止するためにブロンクス川委員会が設置され、川沿いに帯状に広がる緑地帯や公園の中に、レクリエーション用の自動車道路を通すことになったのだ。ルートは川の蛇行に合わせてゆるやかな曲線とし、道路を景観の中に溶け込ませた。対向車線との間には緑地帯が設けられ、両側には石段がある。トラックやバスの通行は禁止された。
計画は造園家を中心としたメンバーによって推進された。美しい道路は住民に好評で、通勤が便利になったことで不動産の価値も上がる。ブロンクス・リバー・パークウェイをモデルとした道が、ニューヨーク都市圏に広がっていった。1933年にアメリカ大統領に就任したフランクリン・ルーズベルトが採用したニューディール政策の中で、アメリカ全土にパークウェイの建設が行われた。景観を重視した道路建設の方針が、ドイツにも影響を与えたのである。
しかし、パークウェイの方法論は、次第に軽視されるようになる。戦後になるとアイゼンハワー大統領が州間高速道路の構想を打ち出し、全長6万5000kmにも及ぶ道路を整備するプロジェクトが始まった。都市と都市を結ぶには、直線が最も効率的である。時代が必要としたのは、パークウェイではなくハイウェイなのだ。アメリカ全土で見られる単調な道路は、1956年から35年を費やして建設された。
日本でも、1930年代後半に自動車専用道路を作ろうという機運が生じており、1943年には内務省が全国自動車国道計画を策定している。総延長は5790kmで、平たん部での設計速度は150km/hだった。しかし戦況の悪化にともない、翌年計画は打ち切られた。戦後、日本は産業の発展を目指したが、道路事情の劣悪さがしばしば障害となった。初の都市間高速道路である名神高速道路が開通したのは、1963年である。1964年に発売された3代目トヨタ・コロナは、名神高速で連続10万km高速走行のデモンストレーションを行い、高性能をアピールした。
東京では、1962年に首都高速の京橋−芝浦間が開通している。オリンピック開催を前に、道路の整備が求められていたのだ。それから50年以上が経過した現在、2020年に行われる2度目の東京オリンピックに向けて、路線を拡充するとともに大規模な修繕が行われることになる。
1933年の出来事
topics 1
豊田自動織機製作所と戸畑鋳物で自動車部が発足
1925年にフォードが横浜でT型のノックダウン生産を開始し、翌年にはGMが大阪に自動車工場を建設している。日本の自動車市場は、瞬く間にアメリカ車に独占されることになった。
国産車製造の試みは行われていたが、強力なアメリカの自動車会社に対抗し得る企業は現れていなかった。このままでは、日本では自動車産業が生まれない。それは工業国としての経済発展が進まないことを意味する。欧米視察に赴いた豊田喜一郎は危機感を抱いていた。彼は豊田自動織機製作所の中に、強引に自動車部を設置する。シボレーを購入して分解し、自動車製造の技術を身につけていった。
ちょうど同じ頃、鮎川義介の率いる戸畑鋳物にも自動車部が発足する。すでに製造権を手に入れていたダットサンの生産を始めたのだ。これが後に日産自動車となり、豊田自動織機製作所自動車部から発展したトヨタとともに、日本の自動車産業を支えることになる。
topics 2
石川島とダットが合併して自動車工業に
1931年の満洲事変を受けて、日本政府は軍用車両の生産を強化する必要に迫られていた。しかし、日本の自動車産業は始まったばかりで、基盤は固まっていなかった。
戦争遂行を目的とした効率化のために、政府は石川島自動車製作所、東京瓦斯電気工業、ダット自動車製造の3社に合同するように要請する。しかし、東京瓦斯電気工業は合併に踏み切れないでいた。
まずは2社の合併を優先することになり、ダットが石川島に資本参加することで自動車工業株式会社が発足する。これにより、軍需に応ずる体制が整ったのだ。
ダットが保有していたダットサン乗用車の製造権も引き継がれたものの、新会社はトラックなどの生産を優先した。乗用車の製造権は戸畑鋳物に譲渡され、日産の前身となる自動車製造株式会社が誕生する。
topics 3
日本が国際連盟脱退
満州事変と満州国建国に関し、中華民国は国際連盟に提訴した。国際連盟日支紛争調査委員会から命じられたイギリスのリットン卿は調査団を結成し、日本、中華民国、満州国を視察した。
報告書では日本の満州国での特殊権益は認めたものの、満州国を中華民国に返還して自治政府を樹立するように勧告した。1933年2月24日、特別総会において報告書の同意確認が行われた。
投票結果は、賛成42票で、反対したのは日本のみだった。出席していた松岡洋右全権は、「日本政府は連盟と協力する努力の限界に達した」と発言して議場を後にした。
3月27日に日本は正式に脱退を表明する。1937年には盧溝橋事件が起こり、日中戦争は泥沼化していった。
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[ガズ―編集部]
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